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先生が置かれている環境



教育は、何らかの思想を下地にしておいてされる。
当事者がいくら、無思想だとか、中立だとか、公正だと言っても、教育という行為そのものが思想的なのだから、思想性を否定しようがない。
思想性を否定する事自体、思想なのであるからして。
そういう意味では、現在の学校がかなりアナアキーなのが解る。

つまり、権威とか、規律とか、統制とか、組織というのを全面的に否定している。
しかし、教育の現場がアナアキーになったらその中心にいる先生にとってかなりハードな環境だと言える。
なぜなら、教育の現場というのは、彼等が否定している規律とか、統制が最も求められるからである。

今の学校教育は、意識してかしないかはわからないがアナアキーな傾向がある。
その証拠に、組織を全面的に否定している。
規律とか、規則とか、規定とか、秩序とか、統制を全面的に否定している。
組織は、手続きで動く仕組みである。組織を動かしているのは指示命令である。
組織は、自主性、自発性では動かない。自主性や自発性は、組織を動かす活力であるが組織の仕組みを直接的に動かす働きはない。
手続きが面倒くさいとか、うざったいとか言って正規の手続きをとらなければ組織は動かなくなる。

これでは先生は何を言っても無駄である。生徒に先生の指示に従う意志がないからである。
叛逆、革命、抵抗、反体制、反権威なんて思想を土台に教育し続けてきたツケが先生に降りかかってきているだけである。
ただし、偏って教育をしたのは、現役の先生達ではない。今は現役を退いた元先生方である。
いま教室の現場を任された先生こそいい面の皮である。
先生には権威が必要なのである。
先生はお友達ではないし、お友達では勤まらない。
先生は、圧倒的多数を相手に教育をしている。
子供の人格と言っても一律に語れない。
組織的に生徒を統制する必要があるのである。

先生は、生徒に指示を出し、その指示を守らせるだけの権限が必要なのである。
先生は万能ではない。
先生は、全知全能な神ではない。
先生に神のごとき人格を期待をしていて何の権限も与えないなんて、手足を縛って猛獣の檻の中に放り込むような事である。
先生に何の権限も、権威も与えなければ統制がとれなくなるのは、必然的帰結である。
止めなさいと言う先生の一喝で勝手な行動が止めさせられる環境を作らない限り、教室の規律は保てない。
先生はアイドルではないのである。

危ないと思っただけでは車は止まらない。車を止めるためには、ブレーキを踏むと言った車を停止する為の操作をしなければならない。また、車が停止後もサイドブレーキを引いてエンジンを切ると言った操作をしないと車は、停車状態を維持できない。
自動車はエンジンを始動し、ブレーキを外し、アクセルを踏まないと動き出さない。
組織も自動車と同じように一種の仕組みである。指導者が頭の中で考えても組織が動くわけではない。組織は念力で動くのではない。何度も言うが組織は指示、命令で動く仕組みなのである。
今の学校は、超能力教育をしているようなものである。組織は、超能力では動かす事はできないのである。先生は、超能力者ではないのである。

組織は、必要悪だとか。手続きは、煩雑で、堅苦しくて、めんどくさい。手続きは、形式であり、形式は権威主義的ただとか。礼節を強要するのは、封建制の名残だとか。強制、強要は、封建的だとか、統制は、全体主義的、独裁的だと知った風な事を子供達に吹き込む。
組織は、悪ではない。民主主義は手続きによって成り立っている。煩雑で面倒くさいからと言って手続きを無視したら、組織と言うより、民主主義は解体してしまうのである。強制力、強要のない法はない。民主主義こそ統制が必要となる。
組織は悪だとか、手続きはなくしてしまえとか、国家国旗は不必要だとか、礼節は封建的だとか言いふらしているのは、日本に敵対する勢力か、革命勢力、即ち、日本の主権を侵そうとしている者達の謀略である。いい加減日本人は目を覚ますべきなのである。

今の学校は、何でもかんでも自主性という。自発性を重んじてと言う。強制、強要はいけないと教える。
しかし、組織も社会は自発性や自主性で動いているわけではない。指示、命令で動いているのである。強制力、強要のない指示・命令は、依願であって指示・命令ではない。お願いしますでは組織は動かないのである。なぜなら、お願いは、お願いした側に責任は派生せず、お願いを受けた側に責任が生じるからである。責任は強制によって派生するのである。
例え、自主性と言っても、自発性と言ってもやった事の責任がなくなる事はない。しかし、指示に従えば、責任は指示した者の側に移る。自発性を重んじてなんて言って指示しないのは、無責任きわまりない事なのである。それは、指示者が、自分は責任を持たないと宣言している事なのである。

手続きや手順を軽視したら世の中も組織も動かなくなるのである。

やるべき事はやる。守るべき事は守る。それを教えるのが教育である。
何でもかんでも生徒の自主性なんてきれい事を言って実際は、何一つ生徒の意志を尊重しないくらいならきっぱりと自分が腹を括って決断し、責任を持ってやらせるべきなのである。
ただ、生徒のいいなりにあり、迎合して甘やかす事が教育なのではない。
時には、体を張って生徒と対峙し、対決する事も教育なのである。

糖尿病患者が甘い物を欲したからと言って砂糖を与えるような事が生徒への思いやりではない。苦い薬を飲ませるのが先生の役割なのである。

授業には、始まりと終わりがある。
始まりと終わりのケジメをつけるのは、当然である。
授業は、予鈴によって始まり、予鈴によって終わる。そのどこが悪いのか。
規律・礼のどこが封建的なのか。
先生に対する礼儀作法は権威主義的だから悪いというのか。
第一、権威主義のどこが悪くて、なぜ、先生が権威をもっってはいけないのか。
先生は友達ではない。先生は先生である。
経験も知識も年齢も生徒より上なのである。
なのになぜか先生は生徒と対等でなければならないとされる。
以前出席した卒業式では、先生が床に座らせられ、卒業生が壇上に上げられていた。
これでは規律は保たれない。
少数意見を重んじて多数意見を黙殺して良いのか。

体罰はいけないと言うが、では、先生に対する暴力や暴言は許されるのか。
先生という存在は、無防備なのである。
この様な状況で先生が自分の立場を守ろうとしたら成績だの内申書だの推薦だのと言った力を盾にするしかない。
そして、ますます先生のモラルが低下していくのである。
先生の置かれている状況が悪化するのに反比例して先生の責任を大きくなる。
この様な状況では先生が自分の自尊心を守る事さえ難しくなる。
無茶苦茶である。
皆は、先生に何を期待し、何を求めているのか。
ハッキリさせるべき時なのである。


戦後、否定された事

組織的意志決定

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