先生へ
先生と思想
今の学校教育では、先生は無思想でなければならないみたいな事を先生に強要する。
しかし、これは無理である。
なぜなら、教育という仕事そのものが思想的な行為だからである。
先生に思想を持つなと言う方が土台無茶である。
無茶な事を言う人間には、無茶の事を言う理由がある。
大概、無茶な事を言っている者の方が強烈な思想を持っているのである。
強烈な思想、過激な思想、偏った思想を持つ者は、多数派に対して少数意見を押しつけようとする。そのためには、多数派に思想は持つなと強要するのである。
なぜ、先生は思想を持つなと言うのか。
その口実となるのが、公正とか、中立という思想である。
公正とか、中立というのも残念ながら思想である。
だから、自分達の思想で先生方の思想を中和しようとする魂胆が見え見えである。
他には、教育に思想を持ち込む事は、全体主義的、独裁主義的、軍国主義的になるという論法がある。しかし、この論法を振りかざす者の多くは、全体主義的で、独裁主義的である。
自分達の全体主義的、独裁主義的思想をカモフラージュするために言っていると思うのは穿ち過ぎであろうか。
先生が思想を持ったからと言って直ちに全体主義的、独裁主義的になるとは限らない。
民主主義国は、基本的に先生が自分の思想を隠すのはよくないが、独自の思想を持つ事を否定したりはしない。何せ先生にも思想信条の自由はあるのである。
ただ先生が反社会的な思想や過激な思想を持った場合、影響が大きくなるので、一定の制約を持たせる必要があると言うだけである。
先生に思想信条を持つなと言うのは行き過ぎである。
大体多くの私立学校の母体は、キリスト教や仏教である。
私の通っていた中学高校は、仏教系の学校だった。
だからといって全体主義的で、独裁主義的な教育を受けたという覚えはない。
ただ、時折、当時の校長が国家主義的な事を言われ、それに一部の先輩が反発していたのは覚えている。しかし、それもある種の教育の一環であろう。
マスコミも組合も自分達の側にたった思想に対しては寛容だが、反対側の思想には冷淡と言うより、かなり否定的である。
これだって思想行為の一種である。
この点を抜きに一方的に思想を持つなと言うのは、明らかにおかしい。
日本は、民主主義自由主義を国是とした国なのである。
時折、教科書問題が火を噴く。
かつては、海外の反日運動の口実にされた事もある。
ただ、気を付けなければならないのは、海外の反日運動に火をつけたのは、日本の新聞である。
相手国ではない。自国民なのである。
かつての教科書問題は、どちらかと言えば左翼陣営からであり、この時は、マスコミも組合も教科書問題を提起した人に好意的だった。今の教科書問題は、どちらかと言えば右寄りの人たちが提起している。この運動に対しては、マスコミも組合も冷淡である。
これも思想のなせる技である。
一番、大切なのは当事者である。当事者というのは、先生当人と保護者と生徒である。
この当事者と関係のない中で先生の思想が問題とされている。それが問題なのである。
先生の思想は教え子の人生に対して強烈な影響を及ぼす。だからこそ、保護者と生徒自身の考えが鍵を握るのである。
親の知らないところで革命思想なんて吹き込まれたら親はたまったものではない。
しかし、それだって一番肝心なのは、父兄の思想である。
父兄が過激や思想や偏った思想持った先生が子供達に偏った教育をしないよう監視し続ければ良いのである。
要するに、体制側の人間も反体制側の人間も先生に思想を持って欲しくない。
だから、公正とか、中立とか、なんだかんだ口実をつけては、先生の思想を封じ込めようとしているのである。
ただ先生に高い倫理性と使命感を要求する以上、先生一人ひとりの思想まで否定するのはお門違いである。
教育者という職業に必要なのは、堅い節操、思想である。それがなければ、先生は自分を保てなくなる。
先生に過剰な期待を持ちながら、その期待に見合わない小さな権限しか与えておかないで自分の考えを持ってはいけないなんてどんな了簡なのだろう。
一体全体どうしてこれほどまで先生は虐げられなければならないのだろうか。
これは一種の虐待である。
先生は、公正で、公平で、中立的であれなんて言うが、これ自体無理である。
何をもって公正であれというのか、又、公平であれというのか、中立的であれというのか。
人に自分の意志というのがある限り、人は主体的にしかなりえない。
平和主義的な立場に立つ人は、平和を主張する事が公正で、公平だと言うであろうし、イスラムを信じる人から見れば、ムハンマドに対する中傷は許せないだろう。
人には、それぞれ立ち位置があるのである。そして、自分の立ち位置を離れて公正とか、公平という考え方は成り立たない。
右から見れば真ん中は左だし、左から見れば右なのである。
では、常に反対意見を並列すれば良いと言うが、反対意見と言っても千差万別である。
戦争反対と言っても平和主義者の言う戦争に対する反対意見と自由主義者の言う反対論とキリスト教徒が言う反対論、共産主義者の言う戦争反対論、軍人にだって反戦主義者はいるのである。
何を持って、何を根拠で反対意見だと判定するのか。一見反対意見を言っているようで実は同じ事を違う視点から言っているというような場合もあるのである。
又、少数意見を、多数意見と同等に扱う事が果たして公平と言えるだろうか。
少数意見は、多数意見に見せかける事もできる。
質問の仕方は、前提をいじくる事で、発言を誘導したり、加工する事もできる。
いくらでもマスコミは世論を操作しようと思えばできるのである。
そうなると公平とか、公正とか言う根拠も薄くなる。
公正だとか、公平だとか、中立というのは、自分の考えを持つなという事だけでは説明がつかない。自分の考えのない人に公正とか、公平とか、中立なんて言っても始まらないからである。
人の意見に合わせようとしたところで合わせられる者ではない。
自分の意見があって自分の立ち位置をよく知ったいる人だからこそ人に自分を合わせる事ができるのである。
先生に向かって自分の考え、意見を持つなというのは、無茶苦茶なのである。
それは、先生という立場を否定しておいて自分というものがないと非難する事である。
先生は、自分の思想抜きに成り立たないのである。
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