教育の理想を求めて
教育は、信頼関係の上に成り立っている
教育は、先生と生徒の信頼関係の上に成り立っている。
信頼できない人の指導を生徒は受け付けない。
基本的に先生の技能、知識は、生徒より上だという前提の上に成り立っている。
信頼関係と言っても一様ではない。
生徒は、先生の何に信頼を置くのか。
そこが問題なのである。
生徒は、先生の知識を信頼するのか。
生徒は、先生の技能に信頼を置くのか。
生徒は、先生の人柄に信頼を置くのか。
それは一様ではない。
生徒が先生から何を学ぼうとしているのか。その目的によっても信頼を置くところは変わってくる。
進学塾の先生の技能は、有名大学へ進学させることかもしれない。
しかし、それも技能は技能である。
塾の生徒は先生の技能を信頼しているから塾の経営は成り立っている。
人柄というのは、ある意味で万能である。
人柄というより人徳といった方がいいかもしれない。
でも、先生の人柄とか、人格というのが頭から否定されているようなそんな場面に遭遇する事が近ごろ増えてきた。熱血先生とか、真面目な先生というのは流行らないのである。
つまりは、先生と生徒の関係も流行り廃りに左右されるようになってきたのである。
いずれにしても先生と生徒の信頼関係がなければ学級は維持できない。
学級を維持するためには、先生と生徒の信頼関係だけでなく。
父兄とか、地域社会との信頼関係も不可欠である。
現代、この信頼関係が怪しくなってきている。
それは教育を単なる職業としてとらえ、教育を労働としてしか考えられない。
先生の方にも自虐的、(これは敗戦に原因があるのかもしれないが・・・。)部分による要因もある。
確かに、戦前は、軍国主義的、全な対主義的な教育がなされたかもしれない。
しかし、現代の日本は、民主主義国であり、戦前の教育とは全く次元を異としている。先生はもっと自分が教えている事、指導に自信を持つべきなのである。
自信や信念、誇りのない人を信頼しろと言っても土台無理なのである。
きれい事を言うなというのは、現代日本人の病弊なのかもしれない。
先日もテレビの某有名キャスターが、アイドルの引退に関してきれい事とに思えると宣っていたが、きれいごとで何が悪いというのであろうか。よしんばそこにディレクターの演出が入っていたからと言ってそれがどうしたというのか。
きれい事であろうとなかろうとそれを信じたい人が片方にいるのである。
自分が薄汚れた人間だからと言って周囲の人間すべて、薄汚い人間だと決めつけるのは傲慢である。
メディアの人間は、その己の傲慢さに気が付いていない。
映画スターのスキャンダルを暴きたて普通の人間以下にまで引き摺り下ろそうとするのは勝手だが、映画スターは元々虚構の世界にいる事を前提としている。虚構を現実に置き換えて幻滅しても意味がない。夢は夢なのである。
それは引きずり下ろそうとする者の妬みやっかみに過ぎない。
先生に対しても同じである。先生は先生である。
子供たちにとって尊敬の的なのである。
それをただの人だとして生徒を幻滅させても意味がない。
きれい事というがきれい事はきれい事でいいのである。
先生は先生なのである。
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