先生へ
精神修養は必要である。
世の中には、教育に精神修養は不要だと考えている人たちが大勢を占めつつある気がする。
教育は、歴史や数学、国語、理科等を教えればいいのであって、精神だの道徳などは教える必要はない。
それどころか教えるべきではない。
読み書きそろばんといった実用的な事でさえ教えるべきではないとすら考えている先生もいる。なぜなら、教育は無用な事を教える事なのだと言い切っている先生すらいるのである。
これでは生徒が無気力になるのも仕方がない。
なぜなら、教育に目的を見いだせないからである。
これだけ勉強したら社会に出て役に立つ人間になれるとか、人間的に成長できるという希望を何一つ与えられずに、ただ試験の成績が良くなるから、いい大学に合格できるからと言うだけでひたすら勉強させられたら精神は頽廃する。
修養や修行なんて封建的で古臭い事と片付けている教育関係者が多くいる。
学校では、男女同権、平等、自由を教えれば゜いいのであって、人としての生き方とか、精神なんて教える必要もないし、教えるべきではないという考えである。
自由だ、平等だというけれど、実際は、自由や平等の意味さえ解っていない。ただ訳もなく小難しい理屈をこねるばかりで、抽象的で実際的ではない。
男女平等だと言っても観念論で、ひどい者は、同じ部屋で着替えさせたり、トイレを同じにしたり、修学旅行で同じ部屋に男女を泊める事が同権だと言い張ったりもする。
自由というのは、ただやりたい放題なんでもする事だと勘違いしていたりする。
性教育は教えても愛する事、人を愛するというのはどういう事さえ教えようともしない。ただ避妊の仕方を教えるだけ…。それを教育だと思い込んでいる始末。
彼らの教えるべきだというのは性欲の事であって愛する人を守るために、自制したり、自分を犠牲にする事ではない。彼等にとって性欲こそ真実であって恋愛は虚構なのである。
人を愛しいつくしむことを身につける事、それが精神修養である。
私は、精神修養は必要だと思う。
精神修養などというとすぐに精神論に結び付けられ、安手の根性ドラマに仕立てられてしまう。
また、精神論は、短絡的に軍国主義や全体主義に結びつけられやすい。
頭から否定してしまう人も多くいる。しかし、それは誤解である。
しかし、精神修養が一番求められる場面は、決断にある。
自分が人生の岐路に立たされた時、逆境にある時、失敗した時、志操を試された時、平常なる精神をいかに保てるかそこに精神修養の必要性がある。
先生に要求されるのは、精神力を鍛える事である。
それは無条件に服従する事を意味するのでもなく。何でもかんでも根性根性で片づける事でもない。
欲望は、活力である。
私は、欲望を否定しようとは思わない。
人は、欲があるから、向上心も持てるし、発展性もある。
欲は意欲の本でもある。
欲望を否定したら人はやる気を失ってしまう。
問題は、欲望を抑えられなくなる事である。
先日も自分の欲望を抑えられなかったと女性を暴行した事で芸能界から追放されたものがいた。
痴漢をしたと言われて社会的な地位を奪われた大学教授もいる。
不倫問題で失脚した政治家も数知れない。
国家元首や聖職者ですら堕落する者がいる。
性的問題だけでなく、金や地位によって人は争い、また、堕落していく。
考えてみれば個人の大事も、国の大事も個人という立場から見ると同じくらい重いのである。
欲望は、生きる活力である。欲望を否定したら人は、生きる活力を失う。
しかし、欲望を制御できなければ身の破滅を招く。
だから、精神修養が必要なのである。
そして、精神修養こそ教育本来の目的でもある。
先生に求められるのは、常に志高く、誇りをもって生きられる精神状態を鍛え上げる事である。
その時、先生は師となるのである。師は士である。
精神修養
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