先生へ
先生は権威でなければならない。先ず先生の権威を取り戻す必要がある。
最大の問題は、先生の権威が失われた事である。
生徒が五十人いる教室では、先生は一人であるのに対して、生徒は五十人いる。
五十人の生徒に一人の先生が合わせることは不可能だが、一人の先生に五十人の生徒を合わせることは可能である。
だから、生徒を先生に合わすのである。
さもないと教室の統一性は保たれなくなり、秩序も乱れる。
秩序が保たれなければ、生徒を統制することができなくなり、教室は崩壊する。
一人の先生に五十人の生徒をあわせさせるのは、統制力である。
統制力を支えているのは、先生の権威である。
先生の権威を否定する者は、教室の秩序そのものを否定しているのである。
なぜなら、彼等の多くは、革命論者であり、社会の騒乱や秩序の崩壊を望んでいるからである。その証拠に、彼等になぜ秩序がある事は悪いのかと聞いてもまともな回答は得られない。なぜならば彼等の多くは、秩序を保つことの重要性を充分しているからである。秩序が保たれなければ、組織も社会も成り立たない。その様に組織や社会が成り立たなくなった状態こそ革命的状況だからである。
革命論者は、先生の権威を失墜させ、先生が生徒をコントロールできなくすることを目的としているのである。
先生の権威を否定したのは、団塊の世代である。
団塊の世代は、学園闘争を通して旧い秩序を否定し、新しい秩序を打ち立てようとした。
そのためには、旧い秩序を象徴する権威を標的としたのである。
やがて、団塊の世代は、学校教育の担い手と成り、学校を反権威、反権力の牙城としようとした。
その結果、招いたのは、教え子達の反乱であり、学級崩壊である。
しかし、自分達のまいた種が招いた事だから、真っ向から権威の必要性を認める事が出ず。今日に至っている。
自分達で、自分達の権威を否定してしまったのだから、先生に対する尊敬心が生徒から失われるのは、当然である。
団塊の世代は、教育の現場から離れようとしている。
かつて荒廃しきった学校を残していったように、今度は荒廃しきった教育を残して、結局、団塊の世代が壊した教育現場のツケを支払わされるのは、これから教育現場を任されようとしている先生達なのである。
いい加減この事実に目覚めるべきなのである。
自分達が権威となり、体制側の人間となっているのに、反権威、反権力を翳すのは天に唾することである。
先生が権威を失えば、先生に対する生徒の礼節もなくなるからである。
先生に対する礼節がなくなれば、先生に対する敬意も失われる。
しかも、団塊の世代は、礼節すらも封建的として葬り去ったからである。
先生は、裸でジャングルに放り込まれたようなものである。
子供は、未だ自我も確立されていない。成長段階で未熟な存在である。
それが前提だから、教育は成り立っている。
それが、子供の人格を尊重し、彼等の自主性に任せていたら先生の人格も自尊心もずたずたにされてしまう。
ある意味で子供は無遠慮で、不躾なのである。
大人だと言っても相手は何十人もいるのである。しかも、家庭の躾などいらないと団塊の世代はしてしまったのである。
要するに、団塊の世代は、自分達を抑圧するもの全てを悪だと決めつけ片っ端から暴力的に排除してしまったのである。旧い価値観や秩序、権威は、一切合切、旧いと言うだけで否定された。
しかし、彼等の目指したのは、全体主義であり、独裁主義である。
我々は、彼等の思想的背景となった社会主義の持つ権威主義には驚かされてしまう。
彼等は、権威の必要を認めていたから敵対する勢力の権威を否定したに過ぎない。
自分達の師をつるし上げ、罵り、大衆の面前で罵倒した。
その結果、先生の地位は地に落ちたのである。
以後、先生に対して敬意を払う者もいなくなった。
先生は、指導者である。
先生に求められるのは指導力である。
先生の指導力は、権威か、権力より生じている。
組織が正常に機能しなくなると指導者は腕力で組織を纏めようとするようになる。
先生から権威が失われ生徒が礼節を守らなくなれば、先生は、自分の力で自分の立場を守るしかなくなる。
先生の権威を否定してしまったから、先生は、学級を権力で抑えるしかなくなった。
その権力を支えているのが試験制度であり、
権力の手段が試験であり、成績であり、進路指導である。
成績しか、生徒達を抑える手段がないのである。
それが結局、成績至上主義を招き、教育の本質を見失わせる結果を招いている。
今、理想を抱いて教育現場にたっても、その理想を実現する為の力が与えられないのである。なぜなら、その力の根源は、権威だからである。
先生の権威を先ず取り戻す事である。
先生が先生としての権威を取り戻すためには、先生は、先生本来の役割に立ち戻る事である。
先生本来の役割というのは、生徒一人ひとりの幸せを実現する事である。
そのために、最初から先生は生徒と向き合い、生徒一人ひとりの個性や適性にあった教育指導をする事である。
今の教育は、成績至上にならざるを得ない。どこまで行っても成績しか生徒の人格を現すものがないのである。
だから、成績が全てになる。子供一人ひとりの持つ人格や適性なんて考える余地がない。
試験の結果だけが全てなのである。
本来、教育は勉強だけが全てではない。もっと全人格的な行為である。子供達一人ひとりが生きていく上で必要な事柄を習得し、或いは、進むべき道を指し示す事である。それは金儲けだけが全てではないのと同じである。
ところが現代の教育現場ではそれが成り立たない。それが成り立たなくなった環境を作ったのは団塊の世代である。ところが団塊の世代はそれを認めようとしていない。認めずに次世代に責任を負わせようとしている。
団塊の世代は、基本に対する躾を頭から否定した。その結果、団塊の世代以降の世代は、人と人とのつきあい方の基本を身につけていない。
挨拶の仕方、口の利き方、話の仕方等といった人間関係を構築するための基本が身についていないのである。
団塊の世代は、自発性を重んじるとか、主体性を重んじるという名目で基本的な動作を否定して排除した。彼等が理屈は、封建的だとか、強制は悪いとか、全体主義的だとか、権威主義と言った事である。確かに、全体に対する盲目的服従を強圧的に強いるような教育や躾は個人の自由や人格を破壊する危険性がある。しかし、だからといって人と人との関係を構築する基本動作や価値観まで否定してしまったら、まともな人間関係を作る事はできない。更に、良好な人間関係を土台として社会を作る事もできなくなる。
それまでの礼儀作法が悪いとして排除するならば、それに変わる価値観、哲学に基づいた礼儀作法を作り出すべきなのである。旧いと言って壊すだけ壊しておいてそれに変わるものを想像しようとしないのは、あまりに無責任である。
しかも、それまでの礼儀作法、躾を否定するのは、明確な根拠も示さないで、ただ、旧いからとか、封建的だからとか、形式的だからとか、権威主義的だからとか、頭から否定し、なおかつ、自主性とか、個性とか、主体性とか言って基本ができていない者に無責任に丸投げをしたくせに、彼等は、当たり前な事とか、できて当然な事と、初歩的な事と教えるまでもないという理由で馬鹿にした態度で今の若い者はと罵った。そのために聞く事さえはばかれるような状況に置かれたのである。そのために、若い連中は、指導する者に対しても小馬鹿にしたような態度で接するしか自分を守れなくなったのである。
排除した後、彼等が否定して排除したことに変わる事を次の世代に残していない。破壊するだけ破壊して何も創造的な事をしなかったのである。その後の世代は、人間関係が作れずに、家庭が崩壊したり、引きこもりが増えたり、独身者が増えたり、鬱病になったりした。
後輩は問題意識が低いという前に自分達が彼等をその様な状態、事態に追い込んだ事を反省すべきなのである。
しかし、一度失われた権威は容易に取り戻せるものではない。
なぜならば、根本的な考えを正さなければならないからである。
教え子達が先生の権威を受け入れられるようにしなければならないからである。そのためには、先生一人ひとりの人格が試されるのである。
これも又厄介な話である。
一人の先生だけでは限界がある。
先生は、自分達の権威を取り戻さなければならない。
さもないと自分達だけでなく、教育そのものまで崩壊してしまう。
今、教育現場に団塊の世代はいないのである。なのに、今も教育の現場には彼等の亡霊、残像が跋扈している。
先生達は、団塊の世代の呪縛から解放されるべきなのである。
我々は三尺下がって師の影を踏まずと躾けられた。
先生を守るの権威しかないのである。
先生は尊敬される対象でなければならない。
私にとって先生は、怖い存在だったし、だからこそ先生たりえたのである。
教育者
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