先生へ
教育は管理である
教育の本質は管理である。
今の学校は管理を嫌う。
学校の先生自体、管理される事も管理する事も嫌いである。
では、学校の先生は、何をやっても許されるのか。
何を教えても許されるのか。
反社会的行為や暴力革命、叛逆、反道徳的な事を教えてもむ許されるのか。
勝手に教師の思想によって洗脳してもいいのか。
学校の先生というのは、何の制約も受けず、管理もされなくていいのか。
同様に、生徒は、何の管理もできないのか。
生徒を管理してはいけないのか。
生徒に何の制約もしてはならないのか。
教育とは管理である。
なぜなら、学校は集団教育の場だからである。
学校教育というのは、集団を制御する事が前提となっているからである。
集団を制御する手段は、管理である。だから学校教育は管理そのものである。
管理が悪いのではない。管理の在り方が悪いのである。
集団教育は、プロセスを共有する事を意味する。
ところがこのプロセスを共有するという事ができない。過程を無視して結果ばかりを求める。
だから、生徒も先生もは何から始めていいのか、自分たちの足下が見えなてこないのである。
遠い目標はよく見えるが、目先の目標は見えなくなることが多い。大学受験はわかるけれど大学に合格するために今何を学ぶべきかがわからない。
優れた人になりたいが、今何を学ぶべきかがわからない。
ただ目の前の教材をこなしているのに過ぎない。
管理というのは、このプロセスを制御する事を目的としている。
教育は、学習過程を制御する事なのである。
だからプロセスを管理するためには、最初が肝心なのである。
勉強には始まりと終わりがあり、その始まりと終わりの間に学習が隠されているのである。始まりは起点であり、終わりは終点である。
教育を管理するためには、起点と終点を明らかにする必要がある。
しかし、今の学校は、始礼も終礼も否定している。
それでは、勉強にけじめがなくなるのは目に見えている。
管理が学習のプロセスを制御する事であるならば、学習を管理するためには、最初に、構想を立て、構想に基づいて計画を立て、計画によって組織化し、日程に落とす必要がある。
実際の勉強を起点とした場合、これらは予め用意しておかなければならない事だから、予定、予習というのである。
この真っ先にやらなければならない事ができない。一番最初に、設定しておかなければならない事ができないから、仕事が正式に始まらない。
誰かの頭の中にできていてそれをその時その時引き出していかなければならなくなり、仕事を管理する事が不可能な状態に陥るのである。
この様な最初の初動は、一定の形、ある種の儀式、慣習にしておく必要がある。
何事も初動が大切である。初動で大切なのは、形であって理屈ではない。
スイッチに入れること自体に意味があるわけではない。スイッチを入れるのは操作であって理屈ではないからである。スイッチを入れる動作は形である。
始まりには理屈はない。
なぜならば、最初の儀式は意味がないからである。
始まりは理屈ではない。だから始まりに理屈はない。
始まりは、宣言であり、象徴である。
何よりも一点から始めなければならないのである。
会議も試合も宣言に始まり、宣言で終わる。
管理されることを干渉される事と錯覚している傾向がある。
そして、現在の学校は管理を極端に嫌う。
学校の先生自体が自分たちが管理されることさえを嫌っている。
教育は管理の手段である。
子供たちの教育は、先生が自分の思想で勝手にしていい事ではない。
教育とはある意味で管理である。しかし、今の学校は、管理を嫌う。
学校というより先生の組合が管理を嫌う。
元々共産主義の本質は全体主義である。
全体主義は管理を重んじる。
だから、管理を否定するというのは一見おかしく感じる。
しかし、それを裏返してみると、組合は管理を重んじているから、敵対している側が管理を軽んじるように仕向けているのである。
そうしてみると教育で重要なのは管理の仕方である。
管理の仕方はプロセスをどのように見るかである。
子供たちは管理を干渉だとはき違えている傾向がある。
大体、思春期を過ぎたころの子は、干渉を嫌う。
そのために、自分をあからさまにするという事ができないというより避けようとする。
しかし、それではチームの一員として行動する事はできない。
社会に出れば、管理を嫌う傾向は薄らぐ。なぜなら、管理を嫌っていたら、組織的な仕事ができなくなるからである。
仕事も教育も管理である。
先生は、教室を管理しなければならない。
管理できなければ、教室は秩序を失う。
管理を否定する事は、教育者としては自殺行為である。
教室の崩壊を防げなくなるからである。
先生は管理者でなければいけないのである。
教室のルールを決め規則を強制し、それを守らせなければならない。
教室は、社会一般の組織と違う。役割分担があらかじめ定められていないのである。
一人の人が管理できる人数は、一般社会では、七人が限界だとされている。
その限界をはるかに超えた人数のしかも子供たちを教えなければならないのである。
それは過酷な事である。
だから先生から管理する手段を取り上げたら、先生が精神的に追い詰められるのは自然の成り行きである。
教室を統御する要素は、三つに要約される。
決められた守る。
先生から指示された事は必ず実行する。
実行した事は、報告する。
そして、この三つの事柄が履行されない原因の多くは、生徒の怠慢である。
しかし、この三つが守られなくなれば管理や規律は、維持できなくなる。
自分たちでは何も決められないくせに、先生の指示には従わない。
指示された事を実行したとしても報告しない。これでは、満足な指導はできない。
規律や管理の崩壊は、最初は些細で一見どうでもいいような事柄なのである。
しかし、その些細でどうでもいいことが積もり積もっていくと全てがだらしなくなり、教室全体を制御する事ができなくなるのである。
「お金」がいい例である。横領だの背任事件は、最初は返せるくらいのお金から始まるのである。ところがそれが積もり積もって一朝一夕には返せない額になり、終いには、心の箍が外れてしまうのである。始めは出来心に過ぎないのである。
自分一人くらい、こんな事ぐらいという行いが結果的には全体の崩壊をょ招くのである。
だから、日本人は、些細で細かい事を大切にし、守ってきたのである。
そういった些細でつまらない事でも日本人一人ひとりの心に隙を作り、最後には、日本人の精神そのものを堕落させてしまう。
管理だの手続きというのは、それ自体は無意味で些細な事だけれど、しかし、全体として大きな意味を持っている事を忘れてはならない。
管理と規律
基本について
執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。
事前の準備
躾
基本は形にある。
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