先 生 へ
先生へ

師弟関係


最後は、理解者なんでしょうね。

理解者がいてくれるからこそ、孤独にも陥らずに、前を見て進めるのだと思います。

誰もわかってくれない、何のために、誰のためにと思った時に、何もなかったらと思うとゾっとします。

師は弟子を認め、弟子も師を認める。
互い理解しあう関係が土台にあって本当の師弟関係は成り立つ。

今の学校には、その真の師弟関係が失われている。

先生と生徒の関係は、信頼であり、互いが互いを理解し、認め合う事である。
そういう信頼関係があって先生は生徒を教え導くことができる。

その関係が失われたら、指導という行為は成り立たない。

ところが、現在の学校は、先生と生徒という関係が先にあってその後に教育がある。
つまり、物事の根本が蔑ろにされているのである。

それで権力や権威を振りかざして無理やり教えようとしている。

そのための手段、道具として試験制度が使われているのである。
これでは真の教育ができるはずがない。

先生は、生徒を理解せず。生徒は先生を認めない。
そこからは正常な師弟関係は生れない。

師は弟子の理解者であると同時に、弟子もまた、師の理解者でもあると思うのです。

先生は、生徒の良き理解者であるように、生徒もまた、先生の良き理解者でもある。
この関係がしっかりと保てたら師弟関係は、常に深化し続けるのです。



私は、教育は三つの働きから構成されていると考えています。
三つの働きとは、教える、学ぶ、教わるです。
そして、最も効果的な教育というのは、教える事だと考えています。
人を教えようとすれば、相手の三倍は学ばなければならない。
だから私は、師は、弟子から多くの事を学ばなければならないと考えています。
良き弟子は、良き師であり。良き師は、良き弟子である。
この関係が自分の理解者を増やす事だと考えています。

人を指導させることが一番の教育だと思っています。
特に、子供や初心者にわかりやすく指導させることが、一番効果的な教育だと思っています。
教えるという事は、教わるという事はであり、教わる事は、教える事だと考えています。

なるべく責任を持たせ指導を通じて勉強をさせるよう心がけています。

教えようというのではなく、教わろうとするのが教育の極致、極意だと私は考えています。



相手がわかってないなと思う時は、自分がわかっていないのではと思い直すようにし、相手がわかったという時は、自分もわかったんだと思うようにしています。
師は弟子の鏡、弟子は師の鏡。

わかったと思った時から無理解は始まり。
わからないと思った時から理解する事が可能となる。

物理学をまなんでいる時、「難しく説明する事は誰にでもできる。子供にもわかるように説明できるのが真のプロだ。」と指導されてきました。
相手が理解出来て初めて目的を達成するので、相手に理解できなければ、それは自己満足に過ぎないといつも自戒しているのですが、ついつい難しい単語や横文字を使いたくなります。
気が付くとどうしても手前味噌な話に終わっていてお恥ずかしい限りです。
それでもなるべく日本語を使おうと努力はしています。




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