教育の理想を求めて

責任の取り方


高畑敦子さんの姿を見ていると身に沁みます。

自分は、仕事柄いつも責任というものを考えています。
責任の取り方はどうしたらいいのか。

責任というと一般に責められるべき行為と受け止められます。
そして、責められるという部分ばかりが強調されて、責任の持つ本当の意味や働きが失われていると思うのです。

だから、責任というと「俺は何も悪い事はやっていないとか・・・。」「あいつが悪いんだ。」とお互いに罪のなすりあいを始めます。それでは、真の責任は取れないと思うのです。

自分は、責任というのは、自分が責められるべき点だと覚悟しています。
責任というのは、ただ謝ればすむとか、辞めればいいという事ではなく。
自分の心に刻み込む事である。
自分がなすべきことを成してこなかったから生じるのだと考えます。
だから、自分がなすべきことをいかにやるかが重要なのだと考えます。

親としてなすべきことをしてきたのか。そして、今後親としてなすべきことは何か。
それによって責任の取り方は決まるのだと思います。

世間がどういうかではなくて、自分がどうあるべきかですね。
無責任に彼女に責任とれと言ってもでは、どんな責任の取り方があるというのでしょう。
それを明らかにしないでただ責めたところで、犯した罪は償われないのだと思います。

責任は、責められる側だけでなく責める側にも生じている事を忘れてはならないと思います。

罪を犯したものを罰し、あるいは教育したとしても、その犯罪を防げなかったことに対する責任を法を守らせる側の人間は感じ、いかに法を守らせるかを責任をもって考え実行する。教育の目的は、その点にあると思うのです。
ただ、教育を教育としてしか考えていなければ、ただ教える事が目的になってしまう。
教育をするものは、なぜ、何を目的として教育をするのか、教育する側の責任としてしっかりとらえていなければ、教育の本質は失われてしまう。
教育者が世の中の不正や乱れに教育者としての責任を感じないと真の教育はできない。俺は、無関係だとし、あるいは、無関心でいる事は、無責任の端緒だと私は考えます。
責任は常にある。しかし、それは他人に謝らせたり、罰する事を意味するのではなく。世の中の不正を糺すために自分が感じる責任だと私は思うのです。

責任は、自分が責任を自覚した時、始めて効力を発揮するのであって他人の責任ばかりを追及しているうちは、本当の責任は果たせないと思うのです。
自分が教え子たちに、子供たちに責任を感じた時、先生としてなすべきことは何かを知ることができます。
そうすれば、自分が何を成すべきかも明らかにすることができます。

親として何を成すべきか、親としての責任が無自覚だから、子供の放置や虐待が絶えないのだと思います。
親としての責任を自覚しない者をいくら罰したところで、彼らは真の責任に目覚めるわけではありません。
責任というのは、常に、自分の自覚の上に成り立っている事を忘れてはならないと思うのです。


指導者というのは、自分以外の人が犯した罪や過失、過ち、失敗に自分がすすんで責任をとる覚悟のある者を言う。
イエス・キリストは、人類の罪を背負って処刑された。だから、イエス・キリストは、全人類の指導者の一人となれたのである。



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