先生へ
先生は完璧である必要はない。
先生は完璧である必要はない。
先生は、万能ではない。
先生は、全てを知っているわけではないし、全てを理解しているわけではない。
先生は、何でもわかっている。なんでもわかっていなければならないというのも錯覚。
誰もそんなことを望んでいるわけではない。
生徒の事を何でもかんでもわかるわけではない。
生徒の事をわかろうと努力する事は大切だが、わかったなんて思わない事である。
生徒から質問された時、いきなり答えを出そうとしなくてもいい。
聞かれた事には、即答できることとできない事がある。
第一、答えなどない事の方が多い。
答えられない事を応えようとしたり、無理に答えるから、何も考えられなくなったり、嘘をつくことになる。
一般にいう答えというのは、皆の合意事項。つまり、その時点で皆がこれ答えだとしたことに過ぎない。
これは普通原理だとか原則と言われるような事、法則と言われるような事も同じ、誰も絶対的な心理なんて前提としていない。それが、科学的精神である。
何がわかっていて、何がわかっていないかがわかればいい。
それがわかるという事。
だから、皆の意見を聞かずにわかるなんてことはめったにない。
人の事のどの程度の事がわかるのか。
初対面の人は名前すらわからない事がある。
なのに、その人がどんな性格でどの程度の能力があるかなんてわかるはずがない。
相手の事を理解した、わかったと決めつけた時から無理解は始まる。
何がわかっていて、何がわからないのか。それを知ることがわかるという事。
わからない事が問題なのではなくて、わからない事をわかったとすることが問題なのである。
答えられない事を応えようとして、あるいは無理して答えるから問題になる。
わからないからと言って馬鹿にしたり、軽蔑するのはやめよう。
知ったかぶりするのもやめる。
生きる事の意義なんて、自分の将来どうなるかなんて誰も答えなど持ってはしない。
答えなんてないのである。
先生も過ちを犯す。
先生だって人である。ただ、過ちを認めたらすぐに改める。生徒たちは、先生の生きざまに惹かれるのである。
教育で大切なのは、過程であり、結果ではないからである。
結果を追い求めていたら教育は成り立たなくなる。
なぜならば、結果は、終わった事に過ぎないからである。
過ちや間違いが悪いというのではない。
人は生きていく過程で多くの過ちや間違いを犯す。
問題は、自分の過ちや間違いに気が付いた時である。
その過ちや間違いを改める事ができるかどうかの方が重要なのである。
そして、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、自分を厳しく律する事が大切なのである。
なぜ、先生に権限が必要なのか。
何をどのように教えるかは先生の裁量範囲である。
教育の方針や教え方というのは妥協を許さない。
親子、夫婦でも意見が対立したら収拾がつかなくなる。
先生は一人だから、父兄や生徒全員に合わせる事はできないが、父兄や生徒全員は、先生に合わせる事はできる。
教室は先生によって統一するしかないのである。
それが前提なのである。
違う意見考え方の者にとってミスと言えばミスになる。
先生に求められるのは、経験差と立ち位置の差である。
生徒より経験が豊富で、また、生徒の後方で全体を見渡さる立ち位置に立つから先生は、個々のミス、部分的ミスを発見し修正する事ができる。
いい人生を送るために心がけなければならない事は、過ちや間違いをいかに少なくするかに尽きる。
ある意味で、生徒が犯す過ちや間違いを少なくするのが、先生の仕事だと言ってもいい。
気を付けなければならないのは、過ちや間違いを犯してはならないという事ではなく。人は過ちや間違いを、犯すものだという事は前提とすべきなのである。
先生に完璧さを求めるのは間違いである。
完全無欠なのは神である。
先生は人である。
人に完璧さを求めるのは傲慢である。
人は、神にはなれない。
人は完全ではない、間違いや過ちを犯す。
ミスを犯しはならないというのではなく。
ミスをした時、その後いかに適切な処置をするかが、重要。そのためには、先生は、自分が間違っていた人に気が付いたら、いち早く自分のミスを認め、訂正する事なのである。
しかも、先生はミスを犯しやすい。
なぜなら、先生は指導者だからである。指導は、瞬時に直感的、主観的に下される。
先生に判断すべきことが集中する。だから、極端な話、ミスを犯すのは先生の宿命だとも言える。だから先生は責任者でもある。
先生が自分のミスを受け入れなくなったなら、その時、教育は破綻すると言っても過言ではない。
だから先生がミスを恐れるようになったら、教室は規律、統制を失うのである。
そしてそれはかえっとて先生の独善を招く。
決定した事の正否は、結果でしかわからない。つまり、実行されなかったことは、結果はわからない。
何が正しくて、何が悪かったかは、結局最後まで分からないのである。
要するに、一緒に行動する者たちが納得できるかどうかの問題なのである。
皆が納得できない事態になれば、組織は、自壊するのである。
教育では、結果よりも過程を重視する。
試験で重要なのは点数ではない。
試験の点数は結果である。
試験で重要なのは、結果として現れた点数ではなく。試験に至るまでの過程である。
試験の点数ばかりを成績として重視するから、生徒がなぜ、その点数を取るに至ったかの過程がスッポリ抜けてしまうのである。
そして、合格点か、否かだけで生徒の人格まで評価してしまう。そして、試験の点数によって人生まで支配される。
大切なのは、なぜ、その子がその点を取ったかである。
不当な行為で、いい点を取ったら評価されるべきではない。
逆に、落第点を取ってもきらりと光る才能が点数の背後から読み取れたら、それを伸ばすべきなのである。
どんな動機で、どの様な勉強をしてきたのか。
試験の点数は日々の勉強の延長線上でとらえるべきなのである。
教育は過程を体系化した事である。
教育というのは過程、プロセス管理を言う。
教育計画はプロセスの設計を下地にしなければできない。
結果より過程を重視すると言っても、結果を軽視していいというのではもちろんない。
結果も重要である。しかし、結果よりもより重要なのは過程だという事である。
大前提は、教育は、集団活動だという点にある。
教育では、組織的に決定し、組織的に活動する事が要求されるので、いくら個人的に正しいことを主張したとしても組織がそれを受け入れなければ、組織的には間違いだという事にされてしまうのである。
勘違いをしている人の多くは、結果を重視して過程を見ない。
過程を無視していきなり結論を求めようとする。また、一回一回、完結した結論を出そうとする。
目的や目標は、一つの標的である。会議のようなイベントは、一つの通過点に過ぎない。出された結論は、過程の上に成り立っている。前後左右の人と仕事を見ないと本当の役割を理解する事はできない。
教室では、先生も生徒も、教室全体の部分を構成している。
故に、教室では、先生は、自分立ち位置、役割を常に確認する必要がある。
今、全体はどの段階にあるのか、それに対して自分はどこに位置していて、どの様な役割を求められているか、それを正しく理解していないと組織の中では、阻害要因となり、組織からストレスがかけられる事となる。
勉強の打ち合わせでは結果より段取り手順といった過程を重視しなければならない。
なぜならば、結果は操作できないが、過程は、操作することが可能だからである。
結果と結果を結ぶ、つまり、点と点を結ぶような勉強の仕方では、神経をむき出しにしたような状態となる。結果と結果とのつながりが希薄となり、個々の要素がばらばらに分解してしまうからである。
ただ、勉強の打ち合わせしました。生徒の相談にのりましたというだけでは、何の意味もない。意味がないどころか、生徒は、打ち合わせをしただけで、相談をして理解してもらえた、逆に、なにも理解されなかったというような錯覚をおこさせてしまう事にもなりかねない。こうなったらかえって弊害になる。
結論もはっきりできず、確認も取れないような打ち合わせは、締り、始末が悪い。締り、始末の悪い仕事はだらしなくなる。なぜならは、勉強の仕方のどこが悪くて、どこを改めたらいいか検証できないからである。
それで点数ばかり責めても教わる側は勉強が嫌いになるばかりである。
勉強には順序がある。
勉強の順序が、段取り、手順、手続きの本となる。
試験や目標、方針は、結果ではなく指針である。試験や目標、指針を結果が出なければ次の勉強方法が決められないというのは大変な錯誤である。
点数が悪かったと生徒を責めても生徒の成績が良くなるわけではない。
かえって生徒が傷つくだけである。成績が問題なのではない。生徒に学習意欲があるか、ないかの方がずっと問題なのである。
結果は結果である。出た結果をとやかく言うよりも、結果に対してどのように対処するかの方が重要なのである。
生徒たちが望む結果を出すために、どの様な道筋、道程を踏むのか、それを管理するのが先生の仕事なのである。
だからこそ、教育では論理、アルゴリズムが重要なのである。
教室は、要所、要所の先生の指導、指示によって動かされている。
だから、先生がいかに適切に決定を下し、それが実行可能な指示として出されるかが、生徒の運命を決めるのである。
話しやすい環境をつければ建設的な意見が出るとか、自発性とか自主性をとか最近、厳しさを否定する考えが横行している。
しかし、いくら話しやすい環境をつくったところで生徒に話す意思がなければ意見などでてきやしない。妙な物分かりのいい振りはやめるべきだ。
相手に迎合したり、媚を売ったところで、生徒が先生を受け入れるわけではない。
先生が何に対して責任を負っているかが重要なのである。
思い、言葉、行動を変えなければ何も変わらない。
先生の意識が変わらなければ、生徒は、変わらない。
計画を変えなければ、生徒は変わらない。
やる事を変えなければ、生徒は変わらない。
決めたことを実行しなければ何も変わらないのである。
今の学校教育は、組織に子供たちを属させながら、子供たちに組織を否定する思想を刷り込んでいる。
反権威とか、反権力というのは、思想であって自明で所与の法則、原理ではない。
それを反権威、反体制的な勢力は、自明な原理のように子供たちに刷り込んでいる。
災害のような事があって休校されると、子供たちの多くは学校の再開を待ち望む。それなのに、登校拒否や引きこもり、落ちこぼれが生じるのは何か。それは集団生活の意義や喜びを教えられないからである。
第一に、先生方が反権力、反権威、反社会、反組織的な思想にかぶれていたら、子供たちが組織を生理的に嫌うようになるのも必然的結果である。
人は、一人では生きられない。
その事を子供たちに教えるのも先生の大切な仕事である。
一人前の自立した人に育てるという事を故意にか、誤解してとらえている先生がいる。
一人前とか自立してという言葉の前に、社会人として前提がありことを忘れてはならない。
集団、社会の中で一人前の人として行動できるように躾する事は、先生の仕事において重要な部分を占めている。
人は、元来社会的な生き物である。社会に依存しなければ生きられないのである。
人と人との関係を受け入れ、社会の中でいかに人とうまく付き合っていくのか、それを教えるのは、先生の使命でもある。
先生は、完璧である必要はない。
人の一生は過程にある。
教育の本質は過程である。
先生は、生徒伴に人生を歩む同伴者なのである。
生徒が間違った道を歩まないように、自分の生きる道を正しく見極められるようにすることが、先生本来の役割なのである。
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