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先生の役割
先生の役割というのは、人を育てる事である。点数をつけたり、序列をつけたり、進学率を上げたり、成績をよくすることではない。生徒が、自分らしく生きる事ができるようにすることである。
生きるという事を教えるのが先生の役割なのである。
だからこそ先生の仕事は崇高なのであり、崇高でいられるのである。
この点を誤解していると先生の役割を果たすことではない。
先生は、点数をつけたり、序列をつけたり、生徒を評価したり、試験に合格させることを目的としてはならない。点数をつけたり、序列をつけたり、生徒を評価したり、試験に合格させることは手段に過ぎないし、また、絶対でも全てでもない。
生きるという事である。どんな困難な事に遭遇しても、挫折や失敗をして希望を見失ったとしても生きる、生き抜くんだという強い意志を持たせることが先生の役割なのである。生きにくい世の中をいかに生き抜くかその術を学ばせるのが先生の役割なのである。
完璧な人はいない。完璧なのは神のみである。自分が過ちを起こさないなんて思いあがるのは、自分を神とすることである。しかし、人の人生には限りがあるのである。しかも、人は負い衰える。今、完璧にできたと思っても次の瞬間には、同じことはできないのである。
人を過ちを犯す。大切なのは、過ちを犯した時、速やかに自分の過ちを認め、改める事である。それを心がければ、人はいつでも向上する事ができる。それが人の可能性である。
先生は自分が完璧であることを求める必要はない。
ただ、自分を常に高める努力をし続ける事が大切なのである。
生徒は、先生の後姿を見ている。
生徒もまた人であり、完璧にはなれない。
人のする事は皆、不完全であり、欠点があり、短所があり、失敗や、挫折をする。醜い処や欠けたところ、凸凹としているものである。人は自分に与えられたものの範囲でしか生きられないのである。
それは先生も同じである。
だから、日々、反省をし、悪いところに気が付いたら改めていく。
何が何でもすべて正しくて絶対だと言い張って自分は、相手を受け入れられなくなり、自分の過ちを認めず、改めもできなければ、人を指導するなんてできない。
先生は生徒の鏡なのである。
先生の生きざまこそ最大の教えなのである。
先生は完璧である必要はない。ただ、人として精一杯生きる事である。
自分を許し改める必要があり、だからこそ、信仰が大切なのである。
先生の役割は人を育てる事なのである。人を育てるという事は、自分を育てるという事でもある。
相手の長所を伸ばし、悪いところを正す。見ようによっては、長所は欠点にもなり、欠点は長所にもなる。
勉強が得意な者は、さらに精進をさせ。また、偏らないように注意する。逆に勉強の不得手なものは、得意な分野を伸ばしてやる。
ただ、根本は人の道を外さないように導くことにある。
今のように先生が成績に偏っていたら、まともに世間で生きていくことができない子を増やすだけである。
人づきあいが下手な子は、人づきあいの仕方を教えてやるのが先生の役目。
成績が悪いと責めるばかりでは子は育たない。
成績が悪くとも人間として優れている者はいるし、勉強だけがすべてではない。勉強ができないからと言ってその子の全人格や人生を否定する必要はないのである。むしろ、成績がよくならずに絶望していたり、投げやりになり、自暴自棄になっている子に希望や自信が持てるように導くのが先生本来の仕事なのである。
生徒が失敗し、自信を喪失している時こそ先生の出番があるのである。
いじめが悪いというけれど、いじめは世の中からなくならない。
勉強の嫌いな子に勉強を強いる事は見ようによってはいじめなのである。
いじめはだめだ、いじめはだめだと言っていたらその子の精神を鍛える事はできない。
いじめが悪いのではない。いじめによってその子が傷つき、立ち直れなくなる事が問題なのである。
いじめと躾の違いは確かに曖昧なのである。
いじめられた時、その子をどう導くかこそ大切なのである。
大切なのは、その子の事を心底思い、その子の行く末を案じているかである。
厳しい世の中をいじめに耐えて自分らしさを保ちつつ生き抜けられるかなのである。
どんなつらい思い、いじめにあっても耐えられる心の芯、心張り棒を持たせることが先生の役割なのである。
成績を良くしたり、試験の合格率を高めたり、序列をつけるために生徒の自尊心を傷つけ、あるいは自信を無くさせ、心に深い傷を負わせるのは先生本来の在り方に背くことである。それで生徒が、不登校になり、引きこもるのでは本末転倒である。
子供たちが学校を卒業し、社会に巣立っていったら、いろいろと困難な場面に遭遇する。
風雪に耐えて子供たちが社会の中で立派に生きていくことのできるように、鍛え育てる事が先生の務めなのである。
かつて子供たちを先生が戦場に送り出した、間違った教育をしたと責められた。
特に、戦後の教育を担ったきた者たちの中には、戦前の教育を全否定する者たちもいる。
しかし、それは戦後の人間の言い分である。
戦争に負けたという理由だけで、戦前教育を全否定する理由はない。
それこそ、植民地教育に他ならない。
自分たちが自分たちの考えに基づいて改めるべき点を改めればいいのである。
ただ昔は悪いと意味もなく過去を否定する事こそ何の反省にもなっていないのである。
そして、先生が先生の立場まで否定し、自分の信念に基づいて子供たちの全人生に対して向き合っていこうという姿勢を失ったら、先生は、先生でなくなってしまうのである。
勉強が悪くても世間に出てから立派な人間になれる者はたくさんいる。
ただ、悪い人間に騙されたり、人の道を過たないよう、恥をかかない程度の知識や技術を持た、幸せな人生をおくれるようにするのが先生の仕事なのである。
優等生だけが幸せになれる権利があるわけではない。
世にいう劣等生こそ先生を必要としているのである。
言葉狩りせよ、価値観にせよ、得体のしれない何者かがわけのわからないところで悪いから悪いと締め出していることが問題なのである。
一体いつだれが何の権限でこの言葉は悪いと決めつけ、言論の自由を制約しているのか。
また、先生の名誉や人権を侵しているのか。その事の方が問題なのである。
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