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教えるのも、教わるのも下手


今の学校を見ていると
生徒は教わるのが下手だし、先生は教えるのが下手。
それは、一概に生徒が悪いとか、先生が悪いと言えない。

一番問題なのは、生徒も先生も勉強する目的を見失っていることにあると思う。

勉強する目的というのは、基本的には、各々が幸せになる事である。
幸せになる。それ以前に社会に出て生きていくために必要な事を学ぶ。
それが本来の勉強の目的である。

なのに、勉強をしたら不幸になったり、生きるための手段どころか、人と人との付き合いがうまくできなくなって引きこもったり、生きる希望をなくして自殺したりしたら何の意味もない。

先生も先生で何を教えたらわからないようでは・・・・。

勉強の目的は、試験に合格したり、いい学校に入る事ではない。
それは手段に過ぎない。試験に合格する事が自分の夢を実現するために必要だというのならば、いい学校に入ることが希望だというのならば、話は別であるが、それにしてもそれは夢や希望をかなえる為の手段に過ぎない。それ自体が目的ではない。

本来勉強は、自分が自分らしく生きるための手段や技術を体得することである。

だから、昔は、礼儀作法、それこそ、口の利き方から、いろいろな口上、挨拶の仕方、食事の仕方、料理の仕方、着物の着方、着物のたたみ方、掃除の仕方、部屋の片づけ、洗濯の仕方、食器の洗い方、席の座り方、座る位置、お酒の飲み方から、異性との付き合い方、冠婚葬祭、謝り方、お金の儲け方、使い方、証文の書き方、言っていい事、悪い事、それこそ、喧嘩の仕方まで教えてくれた。それは基本的躾だったのである。

昔の学校である寺子屋で教えたのは、読み書きそろばんである。
武士は、歴史と武士としての生き方、心構え。

世の中に出て当たり前にできなければならないことを教え込まれる。

逆にいえば当たり前にできなければならない事が教えてもらえなくなったから、当たり前な事が、当たり前にできなくなった。だから社会に出てから困ることになる。それで、社会に出られずに引きこもる。

昔、子供たちが学んだのは、それこそ学んだのは、処世術である。ところが戦後の学校では処世術のことごとくを否定し、それこそ、無用の用とか言って世の中に出て役に立たないことを教えるのが学校だとまで宣言するように堕落した。

その典型が英語であり、数学である。本来役に立つ英語や数学を役に立たないものにして役に立たないから価値があるなんて屁理屈で人を試験紙選別するものだから、学校を卒業するまでにはすっかり英語や数学嫌いを育て上げる。この様にして育てられた英語嫌い、数学嫌いは筋金入り、生理的にまで受け付けなくなっている。それを社会に出て必要になったときに勉強させようとしても学校で身についた英語嫌いや数学嫌い、また、英語や数学に対する間違った先入観、偏見、変な癖をとることに多大な勢力を費やすこととなる。

これでは、学校の勉強は、勉強嫌いな偏屈を育てることを目的としているのではと思いたくもなる。

今の世の中は悪いと勝手に決めつけ、今の世の中は悪いのだから、今の世の中で役に立つことは間違っているという論法である。

子供たちは、勉強しないのではなく。勉強させてもらえないのである。

教わりたくもない事を教えられ。挙句に試験されてまるで生きていくために役にも立たないことによって格付けされる。

だから人にものを教わるのが下手になる。ちなみに、昔の親は、人にものを教わるときに礼儀もしっかり躾けていたのである。

一番育ち盛りの子供たちが勉強嫌いになるのは、当然である。
彼らは勉強したいのである。しかし、肝心な勉強をさせてもらえず、役に立たない事ばかりを学校の理屈で教え込まれる。

この様な環境に育つと教わることも下手になる。

学校で反体制派の先生に逆らう事ばかりを教わってきたために、人に逆らうにはうまくなったが、素直に人に教わることができない。
六十を過ぎた今でも人にものを教わるのが下手だなと痛感させられる。

教える側の人間は、自分が長い間かけて汗と涙で習得した技術や知識を短期間で伝えてくれるのである。
教わる側の物はありがたいと思うのが自然である。

しかし、我々以降の人間は、教わってやっているんだとか、そんな事解っているとか、教わりたくないけどいやいや、渋々教わってやっているという姿勢がありありと見える。
露骨である。
それでは教える側の人間がめげてしまう。
しかし、それでも仕事だから、困るだろうと親切に教えてはくれるのだが、教える側も教わる側も身が入りわけがない。
適当に教え、適当に教わってしまいになる。
その結果、後でとんでもないことになる。

教わる事のほとんどが基礎的な事、できて当たり前な事だからたちが悪い。
歳をとってからでは遅すぎるし、教わるにしても気恥ずかしい。
だから、いつまでも知ったふりをしてごまかして生きていかざるを得ない。
しかし、仕事や生きていくうえで基本となる事だから、いざとなったらできないと言ってられない。できないとごまかし続けていたら、うそつきだと思われるし、できない事がわかれば、相手にしてもらえなくなる。どっちに転んでもいいことなど何もない。
それが問題なのである。

初歩的な事だと言っても、否、初歩的な事だからこそ誰かの指導を受けなければ身に着けることはできない。だから困るのである。
いまさらと言われて基本中の基本、初歩中の初歩だから始末が悪いのである。

教える側にとっては、できてあたりまえな事を教えている。
しかし、教わる側にとってできて当たり前な事でもなんでもない。教わらなければできないし、次のステップに行けない。

本来次のステップに行けないはずなの、応用だの高度な技術等を使いこなそうとしても土台無理がある。その無理がたたって信用を失っていく。

基本的な事であり、それをいつまでも素直に教わることができなかったら、職場や社会といった人間関係に支障をきたすことになる。

だから、還暦を過ぎるまでまともな社会生活を営めずに、引きこもったりしている。
周囲が甘やかし続けたつけである。しかし、当人にとって周囲の人間にとっも地獄である。

人にものを教わるためには準備が必要である。教えるのにも準備が必要である。
特に心の準備である。

いきなり、教えろとか、教われと言っても準備が整っていなければ教えよよえも教わりようもない。その点が学校ではわかっていない。
いきなり、子供集めて皆一律一様に教えようとする。人それぞれ個性がある。個性は、出すなと言われても出る。個性尊重なんて言わなくても出てくるし、個性を尊重しなければ教育なんてできはしないのである。

子供たちは本質的に物事を教わりたいのである。
生きていくために必要な事を早く身に着けたいと思っている。

親は、生きていくのに必要な事を早く身につけさせたいと思っている。
なのに、勉強嫌い学校では問題となる。
子供たちが欲している事を教えようとせずに、子供達が望んでいない事を教える側も教わる側の物も心の準備もしないままに教えようとするから勉強が嫌いになるのである。

私なんて、学校を卒業したとたん勉強が好きになったものである。

無用の用だなんてほざいて世の中に役に立たないことを教える場が学校なんだなんて先生は生徒に言ったりもする。
ふざけないでほしい、人生は短いのである。無駄に生きていきたくはない、
生徒の役に立たないことを教えるのは、先生の道楽に過ぎない。
だから、日本の学校では、生徒が先生を尊敬しなくなるのである。

自分知りたいことを教えてくれるのだから、生徒は先生に謙虚になる。

大体昔は、なかなか教えてくれなかったものである。教えてくれるのが当たり前なんて考えること自体がおかしいのである。

学ぶ姿勢がない者は、教えたところで身につかないと考えられていたからである。
厳しさのない教育なんて意味がない。学ぼうと欲するものは厳しさを求めるべきなのである。

子供たちと向き合い、子供たちに今何が必要なのかを澄んだ瞳で見つめる時、自ずと何を教えるべきか、何を教わるべきかは見えてくる。
子供たちをどうしたら幸せにできるか、それこそが教育の本来の目的なのである。



教えられるのが下手。
考えている事、言っている事、やっている事
学校は決めつけが多い。

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