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教育は、指示・命令で成り立っている。



国民国家、民主主義国である今の日本の義務教育において教えなければならないのは、国民国家、民主主義国家において何が正しくて何が間違っているかである。ところが、今の日本の学校では、これは教えてはならないと思い込んでいるし、我々もそのように教えられた。
これは、反体制、反権力、反権威主義の思想である。しかも、強烈な思想である。
彼らが、学校教育で民主主義の基本を教えてはいけないと主張するのは、一部の思想に偏っるのは民主的でないという理由だが、そう主張する彼等こそ、思想的であり、しかも、偏った思想の持ち主なのである。

中でも、社会や組織の一員になったら、指示命令に従わない事は、悪であるという事はしっかりと理解させておく必要がある。むろん、無条件に指示・命令に従えというのではない。
違法な行為や自分の倫理観に反する指示・命令を除くという前提の上で、権限、権利のある者の指示・命令に従はなければ犯罪としてみなされる。これが契約社会、法治国家の前提であり、国民国家、民主義は法治を前提とした体制だという事を、社会人となる前にしっかりと教えておく必要があるのである。
ところが、今の学校は、指示・命令は、強制だから、全体主義、独裁主義、軍国主義につながる事だから、従う必要がない。さらに進んで従ってはならないと教えている。
その象徴が、予鈴、始礼、終礼の廃止である。
その結果、学級は崩壊し、先生の権威は失墜したのである。
学校の先生は自分で自分の首を絞めている。

指図、差配は悪い事だ。偉そうだからそんなことを言われたら先生の立場がなくなってしまう。我々の子供の頃は、先生は偉かったし、先生の指図に従えと躾けられた。それを頭から否定したのは団塊の世代、反体制、革命を志向した連中である。

人は皆違うという。だから、他人の意見を尊重しろという。
これは個人個人の問題としては正しいかもしれない。
しかし、教室というのは、集団であり。先生はその集団を束ねる、まとめる立場にあるという前提がある事を忘れてはならない。
まとめるという事は、統制をとるという事である。
人は皆違うという。私も同意見である。人は皆違う。しかし、集団は統制をとり、あるいは、統制を保たねばならない。なぜなら、教室は、一つの事を選択し、統一的行動をとることが求められているからである。
生徒が一人ひとり皆違うというのならば、一人である先生は生徒全員に合わせることはできない。それに対して一人である先生に生徒は合わせることはできる。だから、生徒が先生に合わせるのが自然の理なのである。
教育は先生の意志によって統一されるべき事なのである。

教育にとって指示・命令は要である。先生から指示・命令権を奪ったら先生は手足を捥がれたに等しい。
生徒が礼節、遵法精神を失えば、先生は先生個人の力、腕力を使わざるを得なくなる。それは暴力である。

先生は、規律によって守られている事を忘れてはならない。規律が失われた教室では、先生は、自分の人格さえ否定されかねない。

人を使ってはいけないと教え込まれているため、人を使うのが下手になった。そうなると使われる側に回らざるを得ないのである。
先生が生徒に使われたら、惨めである。

指示・命令は、強権的だから悪だなんて考える先生がいたら、自虐的すぎる。
何が何でも強制は悪いなんて言っていたら教育なんてできはしない。
指示・命令は強制だからいけないなんて考えている先生は、自己否定をしている様なものである。
なぜならば、授業は、指示・命令によって成り立っているからである。試験問題も根本は、指示・命令文である。

組織、集団には、指導者が必要である。組織は指示・命令によって動く。指示・命令が浸透しなければ、組織は、統制がとれなくなる。結局、誰かに指示されなければ何もできない人間を作り出しているのである。

先生から指示・命令権限を奪ったら、先生は、生徒を指導することはできなくなる。
指示・命令こそが教育の要だからである。

これは洗脳なのである。規律を重んじた日本人を弱体化させるための反体制派が仕組んだ事である。
我々は、強制してはいけない。指示・命令、規律、秩序は悪いと教え続けられたから、疑問を持つ余地さえ与えられなかった。それは今でも変わりない。

強制のない教育はない。教育はある種の強制なのである。強制することを躊躇したら教育はできない。強制できない先生は、先生としての役割を発揮することはできない。
強制が悪いのではなく。強制の仕方が悪いのである。その点を誤解してはならない。

自発性、自主性を重んじると言ってもそれは事業のやり方を意味するのであり、指示・命令、強制がないわけではない。言い方を変えれば自主性、自発性を導き出すやり方を強制するのである。

教室は、先生が出す指示・命令によって維持され保たれているのである。
先生が出す指示・命令の有効性が奪われた瞬間から教室は、統制を失い崩壊する。

生徒が先生の言う事を聞かなくなったら教室は保てなくなる。
先生の出す指示に生徒が従わなくなったら、教室は崩壊する。

勝手に席を立つ者がいたら、「座りなさい。」とか、「着席しなさい。」「席に戻りなさい。」「勝手に席を立ったらいけません。」「静かに。」というのは、当然の指示であり、生徒の自発性とか、自主性とは無関係である。「座りなさい。」と指示することで、生徒が自発性や自主性がなくなるわけではない。逆に、この様な命令を生徒に先生が出せなければ、生徒は先生の立場を受け入れない。当然、生徒が先生を舐めきって言う事を聞かなくなるのは、当然の帰結である。

「静かに」という指示ができなければ、「静かにしてお願い。」つまり、お願いするしかない。お願いは、従う従わないは任意になる。任意になると言う事は、従った方に責任が生じるから、基本的に従う必要がない。従う人間は、したがってやると言う事になる。
従わなければ、誰も言う事を聞いてくれないと嘆くしかない。嘆いても聞いてくれなければ最後に怒る。怒るのであって叱るのではない。なぜならば最初に指示をしていないからである。言い換えると最初に教えていないからである。怒るのだから、怒られた側は怒られたことだけに反応をする。この様な悪循環の中で先生は苦しめられることになる。
なぜなら、それは、先生が指示・命令ができなくなったからである。しかし、大多数の先生は、原因が分からない。原因が分からずに自分を責めて、自虐的になり、自己否定をしてしまう。

あげくに、どうか、座ってくださいとか、お願いなんて、先生に言わせたら、生徒を求めることは夢の又夢になる。
先生が生徒に土下座でもしない限り、先生を許さないとでも言いたいのだろうか。

職場で指示・命令ができなければ、指示・命令を出せないままに、仕事を抱え込んで、あげくに誰も手伝ってくれないと罵ることになる。罵られたところで、部下は指示されていないのだから何もできない。そうなると上司を軽蔑するようになる。
こんな状況が今日本に蔓延しつつある。その根本は学校教育にある。

学校が収拾のつかない、制御不能に陥ったのは、また、反権威、反体制、反権力の拠点となった事は、革命論者にとっては成功なのである。
ただ、それは、生徒達を先生に背かせ、親に背かせ、反社会的な思想に染まることを意味する。そして、先生はその手先になっていることを意味する。

それは意図する少数派に意図しない少数が汚染されたからである。この様な状況は、戦前の日本にも見られる。軍で過激な思想を持ったのは、少数の人間である。しかし、その少数派が軍の実権を握って戦争へと導いたのである。

戦後教育の成果もあって他人から指示・命令されたり、干渉されることは死ぬほど厭だ、中には生理的に受け付けないような人まで増えた。しかし、指示や命令を嫌っていては組織人にはなれない。又、干渉されることを厭がっていたら、社会人にもなれない。

現在、学校では、生徒の自主性を尊重して指示・命令による強制をしてはならないという指導をしているために、指示・命令に対する間違った認識や考え方を持っている者が多くいる。
組織の運用を覚えれば素人でも、何も、専門知識がなくても組織を動かすことはできる。しかし、どんなに優秀な人間でも、感動する話をしても指示命令が出せなければ組織は動かない。
組織を活用できなければかえって仕事を抱え込んで潰れてしまう。
組織は、指示・命令で動いているのである。

組織は、指示・命令系統によって結ばれた集団である。指示・命令系統によって結ばれていない人たちは、単なる群衆に過ぎない。
指示・命令になれない者は、指示・命令されること自体嫌うが、指示・命令になれると何でもない、簡単なことだから、当たり前のように受け取るようになり、指示・命令に意味もなく逆らう人間の事が解らなくなる。
なぜならば、適切な指示・命令は、受け手が無理なく受けられる上、指示・命令に従う方が快適だからである。なぜならば、指示・命令に従う事によって組織における自分の位置が与えられるからである。

指示・命令は、強制的な部分ばかりが強調される傾向があるが、集団の活力や秩序をもたらすという側面がある事が見落とされがちである。
命令というのは、強制権があるが、強圧的な力で従わせなければならない命令は、必ずしも適切な命令とは言えない。
指示・命令は、万人が理解できる言葉で万人が納得できる事だから万人が従うのである。
なぜならば、指示・命令は必ず履行されなければならないからである。故に、指示・命令に使われる用語は、定義されていなければならず。要件定義による。一年先の事項に対する指示・命令は効力を持たない。なぜならば、一年先は、不確かなことが多いからである。
受け手がそれぞれ勝手な解釈ができたり、また、理解できる人が限られているような専門用語や抽象的な言葉は、特定の専門家間を除いて命令としては、不適切である。故に指示・命令に美辞麗句は不要なのである。また、原則としてといった例外事項を認めるような指示・命令も不適切である。
指示・命令は、簡潔命令で短く出す事が求められる。長い文章は、受け手が覚えきれない上、勝手な解釈を許す余地が生まれるからである。

野球を知らない者達に、野球の楽しさやルールを説明するためには大変な労力と時間が必要となるが、野球をしようとする者は、プレーボールの一声で試合を始めることができる。このプレーボールという宣言こそ指示・命令の典型なのである。

かつて、礼に始まり、礼に終わると言われた。それが日本的なのだと言われた。ところが反日的な教師は、この日本的なとか、伝統という言葉が嫌いなのである。それで、授業の始礼と終礼を廃止してしまった。
我々の時は、起立、礼で始まり、起立、礼で終わったが、今は何となく始まり、何となく終わる。なにせ、予鈴すらなくしてしまったのである。それも自由主義的と称して自由主義とはまったく無縁な理由である。この様な理由は、こじつけで、学校の規律、秩序を破壊する目的でとしか考えられない。
しかし、その結果、一番被害をうけているのは、現場の先生である。

なぜならクラスは荒れに荒れ、生徒は先生の言う事を聞かなくなり、登校拒否やいじめが横行し、最悪自殺者でも出たら担任の責任は免れなくなり、あげくに社会の糾弾を独りで受けることになる。

先生が鬱病になるのも、なるべくしてなるとしか言いようがない。
熱血的、情熱的で理想を持っている先生ほどおかしくなるのは必然である。
問題が起こったら、先生の責任にされる。
だったら、事なかれ主義、日和見主義に陥ってもおかしくはない。
なるべく見て見ぬふりをして問題を起こさないことを願うばかりである。

何があっても先生は何も決められない。決めても、指示、命令も出せない。
それでいていじめや登校拒否を防げなかったと責められる。
先生が指示。命令を出せないというのでは、手足を縛られて海に放り込まれるような事である。

しかも上下関係を一切認めない。
先生と生徒は同じ立場に立たされる。
先生と生徒は、最初から立場が違うのであるから、同じ立場と言う事は、すでに下に見られているようなもの、見下されているのである。

正規な力が振るえなければ最後に残されているのは、内申書の様な特権である。
だから、先生は、内申書をちらつかせて生徒に言う事を聞くように仕向けるしかなくなる。又、内申書で生徒の歓心を買うようなこともする。
それが先生の堕落を招く。

決定というのは、違ったことを決める事という錯覚である。これは、意見は反対意見だとする考え方と同列の考え方である。この様な間違った教育をしたために、意見を言う時は、反対意見を言わなければならない、決める時は、違う事を決めなければならないと思い込んでいる者がいる。
日常的に指示・命令が出されなくなったことで、指示に従う事を嫌ったり、指示に従った経験がない者が増えた事も一因である。
学校が決断というのは、独断であり、事の意見を聞かないことのような教育をするものだから決定と言う事も、提案された事とどこか違うことを決めると錯覚している人間が増えている。

仕事は、指示命令に始まる。この事は、常識である。
しかし、今の学校ではこの常識が通じない。
なぜならば、指示、命令は悪い事だと決めつけているからである。
故に、学校教育の現場から指示、命令、号令、始礼、終礼、予鈴、訓示等が姿を消しつつある。
常識も通用しない。大体、常識を疑ってかかれと常識そのものまで学校教育では否定しているから当然と言えば当然である。

その影響で、社会に出ても指示・命令を生理的に受け付けない子達が増えている。
指示・命令に変わって何かというと、自発性とか、自主性だという。
しかし、自発性とか、自主性では組織は動かない。なぜならば、組織としての一貫性が失われ、また、偶然に支配され、予測困難になるからである。
個人行動を前提とするならば別だが組織は基本的に個人行動を前提としていない。
組織は、組織なのである。組織は集団を前提として成り立っているのである。
学校も組織なのである。

学校教育は、高校まででも十二年間、指示・命令は悪い事だと刷り込まれる。
指示・命令は悪だという倒錯した事を十二年間刷り込まれたために、組織は指示・命令で゜動くものという常識が通用しなくなっている。
組織は、個人の意志を尊重し、個人の勝手な行動を許容するという誤った常識が社会全般に浸透しつつある。
組織は、指示・命令によって動くという常識は、今や常識ではないのである。
組織は、一人ひとりの自発性、自主性によって動くというのが謂わば常識化しつつある。
その結果、指示・命令の確認すら取れなくなりつつある。

授業で自発性を促す授業があるが、自発性を促す授業は、自発性を促すような指示・命令によって設定、主催されるのである。指示・命令がないというわけではない。

先生が授業に加わらないで、生徒に主催させるのは、先生がその様に授業を設定するから実現されるのである。先生の指示・命令がないというわけではない。

指示・命令は、作業の根拠であり、動機でもある。責任の所在は、誰によるどの様な指示下によって決まる。
故に、作業の結果に対する確認も指示に基づいて為される。
指示が明確でないと指示の確認も結果の確認も取れなくなる。
それは、責任の所在を曖昧にし、責任逃れを正当化する事にもなる。

無法、無秩序な状態は自由な状態ではない。なぜならば、従うべき規範がないからである。規律のない自由はあり得ないのである。
言論の自由と言ってもおのずと規律は求められる。自分たちで規律が保てなくなれば外部の権力の介入を許すことになる。

先生からの指示・命令が出なくなれば生徒達はバラバラになる。クラスは指示・命令で動いているのである。先生が日常的に指示が出せなくなれば教室は乱れる。日常的な先生の指示・命令によって教室の自立性は保たれているからである。しかし、日常的な指示・命令が出されないことによって教室の統制、規律が失われているとは先生も生徒も思わない。
だから、上っ面の現象をとらえて対処療法をしようとする。
時々金切り声を挙げて生徒を怒鳴っている先生を見かけるが逆効果になる場合が多い。
簡単で必ず実行できる支持を毎日出し続けることが大切なのである。
一度統制を失った集団に規律を取り戻すのは至難な業である。
無理なく生徒が受け入れられるような指示を出し続ける事である。
指示を出さずに、結果が出てから叱っても効果はない。
見せしめ的な懲罰は、かえって生徒の反発を招くだけである。
宿題をたくさん出すのも、考えものである。生徒から見ると懲罰にしか映らない事になりかねないからである。理不尽な指示・命令は、先生の権威を失墜させるだけである。

予鈴すら強圧的だとして廃止するのは、明らかに異常である。しかし、今の学校には、異常なことを異常だとする健全さがない。
結局先生方は、おかしいおかしいと思いながら追い詰められていくのである。





確認
基本・常識に忠実に
基本は形にある。
定石・手順
組織的意志決定
教育は指示命令で成り立っている。
指示・命令について
指導者は人格者か
要領50訓

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