先生へ
先生に対する口のきき方
口のきき方について注意するのはいけない事だとか、封建的な事だとか、権柄づくだ、横柄だとか言っていって頭から否定する風潮がある。
しかし、言葉の使い方というのは、社会で生きていく上で重要なのである。
それこそ、暴走族だって、やくざだって、愚連隊だって言葉の使い方にはやかましい。
むしろ、アウトローな人間の方が礼儀だの口のきき方に対しては厳しいのである。
それは彼等が現実の人間社会のルールに精通しているからである。
インテリを気取っている奴なかぎって現実の人付き合いが下手である。
相手の感情や気持ちが理解できずにトラブルの原因を知らす知らずにつくっている。
そういう人間に限って口のきき方なんてどうでも良い、口のきき方をうるさく言うのは、封建的であるなんて言い出すのである。
礼儀は形式であり、礼儀にこだわるのは、形式主義だと言う事になる。
厳格な組織というものでなくても人の集団では、自分の立ち位置が重要な働きをしている。
自分の働きや立ち位置というのは、言葉だけで伝えられる事ではない。
言葉以上に、集団では、象徴や形が重要な意味をもつ。人間も、又、動物なのである。
席次だとか、座る位置、中心はどこか、象徴、仕草、態度というた事によって送られるサインによって多くの情報が伝達されるのである。
集団において人には、人には立場、立場があるのである。
そして、その立場によって集団内の役割、働きが決まってくる。その立場役割に対して言葉遣いや礼節が自然、自然に形成される。
平等の意味も分からず、言葉の定義もせずに、平等、平等とわめき立てる人間には、この点が理解できていない。平等と言う事と役割分担、職務分担というのは、次元が違う話である。
理屈だけで人は動いているわけではなく。人と人との力関係によって動かされているところが大きいのである。
今の学校では、友達のような口のきき方で先生に接している。
これもテレビの悪影響である。
この様な行為は、先生を蔑む行為である。
こういう行為が常態化すると生徒は先生を馬鹿にし、なめはじめ言う事を聞かなくなる。
使われる言葉は、相手だけでなく、自分の意識まで変える。
男が女性言葉を使っていたら心や考え方、仕草まで女性化してくる。
形は、内面にも影響を及ぼし、変えてしまうのである。
先生を蔑むような言動や言葉遣いを許していると先生の威令は行われなくなり、先生自身が自信を喪失してしまう。
この様なことが日常的になると先生は臆病になり、自尊心までおかしくなる。
下手をすると全人格が崩壊してしまう。
組織が先生を守ってくれなければ、先生は、自分個人の力で自分を守る以外になくなる。
そうすると自分の力をつまらないところで誇示して自己嫌悪に陥ったりする。
また、やりたいことがあっても何もできなくなるから、無力感に苛やまれる。なぜなら。なぜ、皆が自分の言う事を聞いてくれないかの原因が理解できないからである。
先生という立場は、個人の力では守り切れない。
第一に、時間がない。第二に、生徒の数が多くて、各々が個性を持っている。第三に、個人の持つ能力の限界を超えている。この様な点を補うためには、組織の力を借りる必要があるのである。
十人を越えたら、生徒の性格や欠点、能力、人間関係と言った情報全てを先生一人で処理することは不可能である。
しかも、全ての生徒を同等に扱えというのも無理である。結局どこかの時点で自分なりの優先順位を決めざるを得ない。それを依怙贔屓だとか差別だと言われても、現実は現実なのである。
よく差別差別と言うが、差別を感じるのは、差別されていると感じる側の問題であって、差別していると指摘される側の人間は、必ずしも差別しているという意識がない場合がある。
言葉一つひとつを捉まえて差別していると言われたら何も話せなくなる。要は、出してと受け手双方の意識の問題だと言う事を前提として考察しなければならない問題なのである。
いじめと言われても先生の力には限界がある。先生の立場が確立されていなければなおさらである。
それで全てが先生が悪いと言われても、対処のしようがない。制約ばかりで雁字搦めにされた上に、責任ばかりが多くなったのでは先生は窒息してしまう。
先生に責任を求めるならば、それだけの権限を与えなければ・・・。
何かというとデモシカだの、無責任だのと罵るばかり、先生という立場を認めようともしない。
それでは何の解決にもならない。
先生の立場と生徒の立場が違うことは、自ずと明らかなことである。
先生の立場は、先生がその集団、その組織で果たす役割で決まる。
先生個人が偉いわけではなく。先生という役割から権威づけられているだけの話である。
むろん、先生個人の人格が伴えばそれにこしたことはない。
先生に指導者としての役割、働きを期待していながら、先生の立場を認めなければ、先生が立場を失うのは当然の帰結である。
先生は、学級の中では一番偉いのである。
その立場を保障しているのが先生に対する礼儀、特に、言葉の使い方である。
生徒に迎合的な言葉を使うことは、一時的には効果を発するかもしれないが、長い目で見ると先生の立場を失う結果を招くのである。
先生は先生なのである。
敬語は、封建的だとか、権威主義的と言うが、敬語には公用語としての働きがある事を忘れてはいけない。
権威は、言葉や礼儀によって表され、実現化した。
威儀を正さなければ威令は行われないのである。
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