先生へ

はじめに



先生という仕事ほどやりがいのある素晴らしい仕事は、他にない。
ところが多くの先生が仕事に意欲を失い、誇りを持てなくなりつつある。
それが問題なのである。

多くの先生は騙されている。
先生は、一般の労働者なとは違う。
先生は先生なのである。
会社勤めのサラリーマンとも、工場労働者とも違う。
仕事を細分化しどこかの部分を担当すれば責任を果たせるという労働とは違う。

先生とは、教師である。
つまり、先生の根源は師である。先生の本質は師である。

先生は聖職である。

師は、生徒に対して、見ようによっては全人生に対して責任を負っていると言える。
生徒は物ではないし、指導は単なるサービスではない。

先生の仕事は他の仕事は違うのである。
だからこそ、師を社会は大切に育んできたのである。
師は選ばれた人がなるのである。
だから資格を取らなければ先生にはなれない。
ところが今、学校は、先生を単純労働者と変わりないと決めつけているし、先生もそう思い込まされている。
先生は騙されている。先生は誰でもなれる仕事ではない。
だからこそ、先生に対して社会が求めている事も厳しいのである。

師とは人生の道先案内人なのである。
先生には、自信と誇りをもって欲しい。
さもないとおそわるせ意図の方が堪らない。惨めになる。
学校の先生は、国家の礎なのである。
国が良くなるのも悪くなるのも学校の先生次第である。

教育とは、指導である。
故に、教育者は指導者でもある。

故に、かつて先生は、生徒や弟子から尊敬を一身に受けていた。
社会からも尊敬されてきたのである。

師というのは、孔子、仏陀、キリスト、ムハンマドと言った聖人に発する。
故に、先生というのは、聖者に通じる崇高な仕事なのである。

ところが現代の先生は、単なる労働者に過ぎない。
先生という商売は、生活をするための手段、生業に過ぎなくなってしまった。
先生という仕事を金儲けの手段としてしか認識されていないのである。
それは先生に責任がないとわけではない。
しかし、それ以前にそういう環境状況を当たり前のようにしてしまっている社会に問題がある。だからこそまず、先生が尊敬されないような環境を改善すべきなのである。

昔は、弟子は師を選んだのである。
弟子入りというのには、厳しい審査があった。
学は志す事だったのである。

現代社会は、先生にとって受難な時代である。

まず第一に、現代日本人は権威という存在を受け入れない。
権威を否定しているのである。すくなくとも学校という現場では反権威、反権力によって支配されている。それは、敗戦に原因がある。

知識人とか、教育者は民主的、自由主義的、革新的でなければならない。反権力、反権威でなければならないという妙な思い込みがある。
戦後の言論界では、反権威、反権力を気取っていれば一応認められた。それは、戦前の知識人や教育者が権力的、権威主義的だった事に対する反動に過ぎない。
反権力、反権力と闇雲に体制にたてつくのも、逆に、盲目的に権力に従うのも、教育者としての意志が欠如している事に変わりはない。
民主主義こそ権威が重要な働きをしている。
儀式や礼節、象徴が民主義国こそ重んじられているのである。
だからこそ、自由主義国では、国旗、国歌が重要な働きをしているのである。
それは、アメリカやイギリス、フランスを見れば解る。
フランス国旗は、フランスの建国の理念を表し、国家は革命家なのである。
革命歌をを国家にしている国は、フランスのみならず自由主義国の多くに見られる。
この事一つとっても如何に戦後の知識人が欺瞞に満ちていたかが窺い知れる。

確かに、戦前の教育は、軍国主義に依拠していたのかもしれない。
だから、戦前の教育に戻れとは言わない。
しかし、だからといっていつまでも、反権威、反体制を気取って責任逃れをしているべきではない。
教育者が担うのは、未来の子供達なのである。過去ではない。過去への反省は、未来のためにこそ役立てるべきなのである。
いつまでもウジウジグチャグチャしていたら子供達の教育に良くないのである。
先生は前向きになるべきである。

戦後、先生は権威を否定した。
この様な国は、日本以外にない。なぜならば、権威を否定したら指導者のとしての地位は保たれないからである。
権威を否定した上に、指示・命令する事を封じられた。

指導者としての地位が保てないから、教室は、統制や秩序を失い、崩壊するのである。
学級が崩壊するのは、先生個人が悪いと言うより、指導者を失わせるような学校の仕組みに問題があるのである。
先生が権威を取り戻さない限り、学級崩壊は止められない。

金八先生というテレビ番組があり、主人公は一見反権威的に振る舞っているが、実際は、かなり権威主義的である。そして、現実に権威になっている。
この種の欺瞞は戦後の知識人に多く見られる。権威主義者な反権威主義者。全体主義的、無政府主義者。戦闘的、平和主義者。独裁的、自由主義者。差別的、平等主義者。保守的革新主義者。
こういった言論界の無秩序が教育の現場を混乱させているのである。
彼等の標榜したのがエロ・グロ・ナンセンスであり、だからこそ、彼等が指導した教育現場がエロ・グロ・ナンセンスに陥ったのである。そして、その弊害を一身に受けているのが若い先生達なのである。

戦前は、教育者は聖職者とされ、生徒や社会の尊敬を一身に受けていた。

先生という仕事程、本来やりがいのある。又、有意義な仕事はない。
やりがいのある有意義であるべきはずである先生が鬱病になり、無気力になっている。
教室は荒廃し、学級は崩壊し、立て直しようもない。

それが今や先生を尊敬する生徒は、教え子の半数をきり、モンスターと呼ばれる親や生徒に振り回されて、自信を失いつつある。
日本以外の国では、今でも高い比率で生徒は先生を尊敬している。
先生が尊敬れていいないのは、日本の独自の問題なのである。
今の日本が異常なのである。

今は、学校の先生より、予備校の先生の方が信頼され、尊敬されている。
なぜなら、学校より予備校や学習塾の方が教育の方針が明らかだからである。
そして、予備校の先生は、入学に対する権威だからである。

しかも、予備校の先生は、生徒が選べるのである。

先生という仕事は、高い使命感と情熱がなければ保てない。
ところがその使命感や情熱すら嘲笑の対象にされてしまう。
それでは、先生は、自分の名誉を保つ事さえ難しい。

確かに、尊敬心は強要できる事ではない。
しかし、尊敬できない環境に置けば、尊敬心は育たない。

なぜ、日本の先生が生徒から尊敬されなくなったのか。
先生は、ある意味で戦後教育の被害者なのである。

戦前に多くの教育者が全体主義や軍国主義に協力したと教育者の尊厳まで否定された。そして、反権威、反体制である事を教育者に強要する勢力によって教室が支配される状態が続いたのである。
そして、自由放任主義が横行し、生徒に対する強要や強制は悪い事と決めつけられた。
しかし、強要や強制のない教育なんてあり得ないのである。

強制のない社会はない。
強制をしない教育なんてない。
強制は悪い事ではない。

ところが戦後社会では、強制は悪い、個人の自発性に全てを委ねるべきだという考え方を学校で教え込まれる。
当然、先生は、生徒に強制する事も強要する事も許されなくなる。
生徒に先生はお願いするしかない。
これでは先生は手足をもがれたようなものである。

スパルタ教育なんて夢の又夢。
あり得ない話である。
これは、我が国を弱体化するための一種の陰謀ではないかと勘ぐりたくもなる。

戦後の教育では、強制と暴力を結びつけて強制は悪いと決めつけて命令や号令、指示は悪い事と刷り込んでいる。
その証拠に多くの学校で始礼、終礼が否定され、取りやめられたのである。
強制する事と暴力とは同義ではない。強制する事は暴力的だと否定するのは、見当外れである。逆に合意に基づく強制が為されない場合、合意に変わって私的暴力による強制が横行する事になるのである。

指示や命令を悪いとするどころか礼儀作法すら封建的と退けられた。
だから躾なんて言う言葉も死語である。
これでは、先生は、自分の自尊心を守る事さえできない。

子供や親の暴言から身を守る術すら許されないのである。
先生の名誉なんて紙のごとく薄く軽いものになってしまった。

子供の人格とか個性を尊重しろと言うけれど、子供は本来未熟なのである。
それが前提となるから教育するのである。

子供が大人と同じような道徳や自制心を持っているとするならば教育は必要ない。しかし、子供は大人に比べて未熟だとするから教育は成り立つのである。

克己復礼。それが基本である。
己に克って礼に復れ。それこそ躾すべき事である。

家庭の躾と学校教育は両立していた。しかし、現代は、双方が排斥し合って相互補完的な役割を果たしていない。

礼節は、師に対する礼節にこそ原点がある。
師は、指導者なのである。

強制は悪い事ではない。
確かに、その人の意志や価値観、道徳に反する事を暴力的に強要強制する事は悪い事である。ただ、集団的行動をするために、合意に基づいて何らかの権限や責任を他者に委ねる事は悪い事ではないし、そうしなければ、集団は統一的な活動をとる事はできない。統一的な活動をとる事ができなければ、集団は個人で行動するよりかえって危険な状態に陥る。かといって個人の行動には限界があるのである。人間は一人では生きられない。

戦後の学校教育のおかげで決めたら指示を出すという前提、意識が欠けている者が増えている。そのために、組織的な活動が阻害されているのである。
その結果、生徒は先生の指示に従わなくなり、先生の権威も失われたのである。

先生自ら反権威教育をしているのだから、やむをえないと言えばやむをえない。

しかし、もうそろそろ先生は、目覚めるべきなのである。
目を覚ますべき時なのである。
そうしないと子供達が不幸になる。

説教をしてはならない。体罰は駄目。注意をする事さえ許されなくなったら、先生にどうやって子供達を指導しろというのか。
むろん、行き過ぎた体罰は許されるべきではない。しかしだからといって絶対体罰はしてはならないというのも行き過ぎである。
我々の親は、子供を厳しく躾けてくださいと先生に頼んだものである。
それが子供のためだと・・・。
世の中に出てから困らないようにと先生に任せた者である。
ところが今は、細かい事にまで親が口を挟む。先生の個人的な問題まで問題まで干渉してくる。

情熱的に子供を指導しようとすればするほど教育者としては不適格だという烙印を押されてしまう。
熱血先生など期待しようがない。
先生は、単なる労働者に成り下がってしまった。

卒業式でも先生は、生徒より一段下に置かれたりする。小学校の卒業式でも生徒が壇上に上がり、先生は、下に置かれるのである。
これでは師としての権威なんて保ちようがない。

学校や父兄、社会が先生を卑しめている限り、先生は先生の役割を果たす事はできない。
そして、先生としての職業意識、使命感、責任感、自尊心も育めないのである。
使命感を持つ先生ほど、心身を消耗し、心を壊してしまう。

恩師等という言葉も考え方もとうの昔に失せた。
先生に恩を感じる生徒など存在しないのである。
先生は、軽蔑すべき対象でしかなくなった。それでは、先生のモチベーションを維持する事はできない。

かつて卒業式で生徒達は、仰げば尊しを歌って先生への恩を唱和したのである。


先生は、自らの手で仰げば尊しを葬り去ったのである。

師としての尊厳を取り戻す事である。
師として尊厳を取り戻すためには、先生一人ひとりが、人として何を信じているか確たるものを持つ必要があるのである。


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