真の教育とは


個人主義と教育



  個人主義社会の根本は、自己です。つまり、個人主義社会においては、自己のあり方が教育の根本になければなりません。

 また、個人主義社会においては、自己中心になされなければなりません。
 故に、個人主義社会の教育は、自己の定義から、導き出されるものです。

 自己とは、何か。まず、自己とは、すべての存在の前提だと言うことである。次に、自己は、存在それ自体である。そして、自己は、独立し完結した存在だと言う事。つまり、自己は、それ自体で存在している。また、自己は、自己の唯一の体現体だと言う事。つまり、自己を、体現できるのは、自己だけなのである。そして、自己は、主体であるという事。また、自己は、今しか存在しない。そして、最後に、自己は、間接的、認識対象だと言う事である。そして、このような自己は、今にしか存在しない。

 自己が主体的存在でありながら、間接的認識対象という事実は、後で述べるように、教育の在り方に、決定的な影響を持っています。
 
 自己は、肉体を通してこの世に現れる。故に、自己は、肉体的限界に、拘束されている。つまり、肉体を維持しなければならない。
 肉体は、欲望によって維持されている。欲望は、生理的欲求から発する。生理的欲求には、自ずと限界がある。欲望は、満たされると抑止される。しかし、時として、抑止力が効かなくなることがある。
 生理的欲求を喚起する為に、観念的な作用を活用することがある。しかし、生理的欲求から乖離して、観念のみ作用によって、欲望が働くことがある。生理的欲求は、肉体に依拠しているが、観念は、自立している。故に、観念から発する欲望には限りがない。
 限りがある肉体が、限りない欲望によって突き動かされれば、結果は、明らかです。
 抑止力が、効かなくなり、制御ができなくなると欲望は、暴走し、身を滅ぼす原因となる。故に、欲望を制御する必要がある。これは、教育の大命題です。

 そして、自分の肉体は、外界、特に、社会に依存している。故に、自分の肉体を維持するためには、外界との関係を構築し、保つ必要がある。そのためには、社会性を身につける必要があります。

 民主主義は、個人主義を土台にして、諸々の制度によって、形作られています。故に、民主主義は、制度的によって支えられた思想です。制度によって支えられた思想である民主主義は、手続きによって成り立って居るとも言えます。つまり、民主主義は、手続き的な思想なのです。故に、民主主義国で生きていくためには、沢山の手続きを覚えなければなりません。
 この手続きを教えるのも、民主主義教育の最も重要な課題です。だから、民主主義体制では、教育は義務なのです。もっとも、現代日本の教育の中で最も軽視されている課題なのは、皮肉な現象ですが。

 個人主義や自由主義、民主主義、科学主義は反道徳的な思想という間違った認識が、日本人には、あるようだ。

 戦後の知識人、大多数が転向組だが、自分がかつて犯した罪を帳消しにするために、無思想の思想が民主主義だなんて馬鹿げた事を吹き込んだ。しかし、民主主義というのは、高度に思想的で、倫理的な思想です。
 個人の倫理が信じられなければ、成り立たないのが、個人主義、自由主義、民主主義なのですから。

 確かに、自由主義者や民主主義者、科学主義者は、過去の因習や迷信を打破、打開するために、封建思想や過去のモラルに対し徹底的な否定を行った者もいる。しかし、それは、どちらかというと例外的なものだ。

 ただ、無政府主義者やアウトローの者の中に、言論の自由を逆用し、自分たちの利益を計った者達が居る。その結果、自由主義や個人主義が、刹那主義や快楽主義、利己主義と錯覚された節がある。
 しかし、個人主義や自由主義、民主主義、科学主義は、個人の倫理観の上に成り立っている思想である。故に、倫理観を重視した教育をしなければ、民主主義国は成り立たないのである。




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