僕らの憲法を作ろう


 先ず、僕らの憲法を作ろう。自分達で自分達の憲法を作っる事によって、民主主義や市民革命を追体験するのだ。そして、そこで憲法の意義を理解しよう。

 憲法を理解したいならば、憲法の条文を読むよりも、先ず自分達で、自分達の憲法を作った方が早い。憲法とは、解釈するものではない。自分達で作るものである。憲法とはそう言うものである。

 憲法を理解するというのは、実際に自分達で憲法を作ってみないと解らない。
 例えば、日本国憲法を読んでみても、学校で習ったり、偉い先生の講義を聴いたところで、それは、憲法の条文の意味を解釈しているだけで、憲法そのものの意義を理解することにはならない。
 憲法というのは、憲法を制定するという行為そのものであり、憲法を制定する過程なのである。つまり、生きた憲法は、常に、国民の内部で更新され続けているものなのである。つまり、現行の憲法もたとえ憲法の改正が実体化しなくとも国民の内部で憲法が制定され続けている、ないし、その制定過程にあるものでなければならない。
 生きると言う事は、過程である。絶え間なく、新陳代謝し変わり続けることが生きることなのである。外に現れた変化(それは、一見何の変化もないように見える物でも)結果に過ぎない。護憲か憲法改正かの議論は、その意味で無意味である。護憲か憲法改正かは、結果に過ぎないからである。

 憲法は、前文において国家目的を明らかにする。我々が作る会では、会の目的である。会の目的は、実際的なものが良い。

 目的を抽象的・観念的なものにすればするほど、目的は、曖昧で不明瞭なものになる。国家理念を高らかにうたい。理想的、理念的なものにすればするほど国家の礎は、曖昧になる。
 小難しい表現をすればするほど意味がなくなる。
 もともと、国家は、人間の生業に基づく体制であり、ドロドロとした人間関係を調整するための機関に過ぎない。
 人工的なものなのである。人間の利害得失の坩堝なのである。国家は、観念ではなく、現実である。国家の目的も必然的に現実的なものにならざるをえない。

 目的というと高邁な理想や観念的な理念・思想を思い浮かべるかもしれないが、目的は、本来何らかの実体を反映したものである。小難しい理屈や言葉による理念は、必要ない。その意味で、国家目的というのは、高度に実利的・実務的である。そこに錯誤がある。
 家を建てる目的とは、住宅ならば住む事が目的である。それ以上でもそれ以下でもない。住むという目的に集約するから家の設計図を描くことができる。住む目的なのか、事務所なのか、店舗を作って商売をするのかそれが解らなければ、設計のしようがないからである。
 暖かい家とか、使い勝手の良い家とかは、二義的、付随的なものにすぎない。二義的・付随的な部分が一義的なもの、すり替わり、前面に出ると本来の目的は見失われてしまう。

 しかも、目的は、実体的な物に還元されなければならない。つまり、目的は、実体的な物から出て、実体的に物に戻る。つまり、目的は、現実から離れられないのである。観念的・抽象的表現は、目的において極力避けなければならない。なぜならば、抽象的・観念的表現は、解釈仕方によっていかようにもなるからである。
 国家の目的は、人間の生業を本としている。尚更のこと、国家目的は、実際的・実用的でなければならない。憲法は、国家の実体を現すものである。故に、抽象的・観念的な表現は、極力避ける必要がある。抽象的・観念的な表現をせざるを得なくても最小必要限度にとどめるべきである。近代民主主義国家の祖であるアメリカで、プラグマティズムが隆盛をしたのは、必然的帰結である。

 国家の定義は、法と制度によって為される。
 法や制度は条文によって作られる(構成される)。故に、法や制度は、条文によって定義される。それが、自然科学や思想・哲学との違いである。
 思想だの哲学だのというのは、どうしても、仰々しい言葉が並ぶ。それは、人の耳に心地よく聞こえても、法や制度、憲法にとって何の意味もない。
 憲法というのは、その性格上、素朴で飾り気のない文章にならざるをえない。
 だからといって難解な法律用語を駆使するのはいただけない。なぜならば、専門家以外理解できないような憲法や法や制度は、国民のものではないからである。それは、法律を商売としてなりたたさせる為にある一種の技術にすぎない。民主主義国において、法を解釈するだけの専門家はいらない。なぜならば、専門家にしか解釈できない法は、既に、民主的でないからである。
 法や制度の条文には、不必要に難解な表現は避けるべきである。
 法学は、修辞学ではない。現実である。
 法は、法の条文に意義があるのではなく、法の目的に意義があるのである。法の条文の解釈に囚われて法の目的を見失うのは、本末の転倒である。

 あらゆる、法や制度は、条文によって定義されなければならない。これは、家を設計するのと同じである。いわば、制度や組織というのは、言葉、平叙文からなる条文によって定義される。
 条文で定義されることを前提とする以上、基本的に外延的に表現されなければならない。また、原則的とか、例外的という表現は、極力避ける必要がある。つまり、法や制度の概念は、契約の概念に基づくのである。

 次に、決め方の決め方である。ここが重要なのである。憲法というのは、決め方の決め方なのである。つまり、法の決め方、制度の定め方を予め決めておくことなのである。

 民主主義は、手続きの思想である。最初に決めなければならないのは、ルール、則ち、決め方の決め方である。会議で重要なのは、決め方である。それが日本人には、解っていない。レートを決めずに麻雀を始めるようなものである。最初からもめるのが決まっているようなものである。

 重要なのは、最初の全員一致である。全員一致をとるのは、巷間、考えられているほど難しいことではない。つまり、初期のメンバーで一致をすれば、後から加わる者は、初期のメンバーが決めた事を追認する形で一致を見ればいいのである。つまり、最初の全員一致は、ビックバンみたいなものである。

 また、民主主義には、常に、暗黙の全員一致原則が働いている場合がある。暗黙の全員一致というのは、一つは、決め方に対する一致である。つまり、決め方の決め方に対する一致である。
 次に、遵法に対する全員一致である。つまり、予め定められている法やルールに従って行動するという合意である。これらに対する合意が保たれないと、法や制度を基盤とする民主主義は成り立たないことになる。それが法治主義である。
 このことは、我々は、普段日常的にやっている。例えば、何かのゲームをやる時は、ゲームを始める前にルールの確認や取り決めをする。スポーツも然りである。無意識に我々は、民主主義のルールに従って行動しているのである。
 暗黙の全員一致は、特定の会議、例えば、憲法の制定や改廃にの決定の仕方、発効に至る手続きに関し、予め決めておくという事である。また、個々の会議に先立ち、会議の規則を決めておくという手続きである。
 また、決を採る際には、必ず、裁決の方法の承認を受ける。例えば、この案件に関しては、多数決で決めたいと思いますが、御異議在りませんかという具合に、裁決に入る前に裁決方法に対する承認が取られ、異議がある場合、つまり、全員の一致を見ない場合は、裁決に入れず、改めて、別の裁決の方法を提案し直さなければならないという事である。しかし、一旦採決の方法が決まり、決が採られたら一事不再議の原則が働く。この様な、会議のルールが予め決められていて、それに対しては、全員の承認を必要としているという事である。これらは、形式化、様式化していて通常は、問題にならない。
 異議を取るのは、全員一致の採決の取り方であることを知らない、日本人はかなりいる。異議を取るように正式な会議の事例は多くある。それでいて、全員一致は難しいと決めつけている。

 国家の目的が明らかにされ、決め方が決まれば、次は、国家の定義、国民の定義、法や制度の定義と続く。

 その中でも重要なのは、主権者の定義である。主権者の定義によって国家体制が、定義される。
 主権者の定義に準じて、主権の定義がされなければならない。
 主権の定義は、主権者の権利と義務、国家の制度と働きによって表現される。それは、決め方の決め方である。
 主権者の定義は、国民の定義に準じて為される。国民と主権者というのは、必ずしも一致していない。主権を構成する重要な要素は、権利と義務である。その中でも最も中核を為す権利は、参政権である。
 主権者国民の定義には、範囲が必要である。範囲は、要件によって示される。

 国民・主権者の定義は、要件定義である。命題による定義ではない。つまり、条文においては、真偽や善悪と言った価値判断を含みません。判定は、要件を満たしているかどうかによります。故に、基本的に要件定義なのです。
 要件定義というのは、必要条件で定義する。又は、必要条件を核にして定義を構成することである。例えば、日本国籍を有する者。二十歳の誕生日を過ぎた者と言うようにである。なるべく、曖昧な表現をしない。一つ一つの文言を単文に区切って表現する。(日本国籍を有する者で、二十歳の誕生日を過ぎたものと言った表現を避ける。)国民や主権者の定義は、この様に必要条件で定義する。その為には、一つ一つに必要条件が検証できるようにしなければならない。また、一つの定義を構成する条文間に論理的矛盾があってはならない。同時に、一つの定義を構成する条文相互間が矛盾していないことを証明できるようにしなければならない。矛盾の検証は、論理の構成、順序、前提、手順、手続きからも検証されなければならない。故に、個々の条文は、単文として完結し、独立したものでなければならない。

 我々が制定しようとしている憲章は、共同体やクラブのような機関である。これらは、自分達の意志によって参加する。だから、入り方と辞め方が重要になる。本来、国家も同じなのである。人間には、国家選択の自由や建国の自由がある。ただ、国家は、国民であることを簡単に止めたりする事はできない。しかし、通常の期間は、入り方と辞め方がハッキリしていないと身分保障がされない。故に、入り方と辞め方を最初に取り決めなければならない。

 我々の憲法は、国家の憲法ではない。言うなれば、クラブ・共同体の憲章である。故に、国民に相当するのは、会員、又は、正会員です。ここでなぜ、正会員というのかというと、該当する人が、どのような権利を与えられているか、全員に均等に同等の権利が与えられているとは限らないからです。例えば、株主会員という制度をとれば持ち株数によって発言権も変わる場合があるからです。
 国民も一定の年齢に達していなければ、参政権を与えられない。参政権が与えられていなければ、主権者ではないのである。故に、主権者も要件定義されなければならない。

 多数決で決議をとった事と、善悪の価値判断とは関係がない。多数決にせよ、法や制度の基礎を構成する原理は、契約の概念であり、道徳的価値基準ではない。よく多数決の原理と民主主義の正義を混同する者がいる。そして、多数決で決まった事は、間違いがないと錯覚をしているが、多数決で決めたとしても間違いは、間違いである。
 間違いを常に監視、是正できるように手続きや規則、制度が決められているである。チェック機構があるのである。チェック機構が機能しなくなると民主主義といえども暴走する。
 契約の論理というのは、何が正しいかではなく。何に従うかである。個人の信条や信念を契約の概念に持ち込むべきではない。契約の論理の目的は、社会秩序の維持である。個人の行動や倫理にまで立ち入ることはできない。
 スポーツのジャッジを考えれば解る。スポーツのルールとスポーツマンシップは、無関係である。スポーツのジャッジと善悪とは関係がない。要は、その判定に従うか従わないかの問題である。それは、暗黙であろうとなかろうと、事前にルールや判定に従うという誓約をしていたから成り立つ論理である。それが、契約の論理である。憲法も法や制度も多数決の論理も契約の論理に基づくものである。善悪の価値観とは無縁である。
 善悪の判断は、自己の価値観に属するものである。法で定められているから、また、多数決で決まったからといってそれを是とするか非とするかの判断まで委ねられているわけではない。それは、自らの良心によって判断しなければならない。合意で在れば、法で罰せられはしないからといって純情な女の子を誑(たぶら)かして良いというわけではない。それは、良心の問題。道徳の問題である。
 契約の論理の目的は、社会秩序の維持だが、社会秩序は、契約の論理だけで維持できる者ではない。倫理的裏付けがあってはじめて契約の論理は成り立つ。
結局、法さえ守ればと言う価値観に支配されると社会秩序は、すぐに乱れてしまう。社会の秩序は個人の良心に最後は委ねられるのである。その点をはき違えては成らない。社会を作り出すのは、個人の意志である。個人の意志を支えているのは、自己善である。自己善に信がおけなくなったら、社会は、土台から自壊する。憲法は、国民の良心という土台の上に築かれた枠組みに過ぎないのである。

 国民国家においては、国民に成るのである。自分の意志で国家建設に参加することなのである。だから、憲法は、解釈するものではなく。作るものなのである。況や、変更不可能な聖典ではない。憲法は、真理の書ではなく。契約の書なのである。



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