教育ってなあに
エピローグ(もう一度、教育ってなあに)
幸せというフィルターをかけてみればわかる。
女にもてることを自慢にする人がいるが、女にもてれば、幸せになれるだろうか。
女にもてたって、その事で、家庭を崩壊させたり、友達を失ったら、
幸せになれると思う。
女にもてて、最愛の者を失ったら、本末転倒だろ。
女にもてることが目的ではない。
目的は、愛だ。
同じように、試験に受かれば、幸せになれるだろうか。
むろん、やりたい事をやる為に、必要な知識や技術、資格を取るためというならばわかる。でもそれは、手段だろ、目的ではない。
試験を受かる事を目的に、勉強を、しているわけではない。
目的は、幸せ。
何のために勉強をするのか。
教育って何かって考える前に、何のために勉強をするのかを考えないと。
だって、教育の主役は、生徒達だもの。
そう、教育って誰のためにするの。
それを忘れているんだよね、大人達は。
だから、どう教えるかばかりを気にする。
教える側の都合ばかりが先行する。
それじゃあ、子供達は、混乱する。訳が分からなくなる。
親や先生のために勉強をしているように錯覚する。
それって、錯覚。現実かもね。
だから、あなたのためにといわれてもピンとこない。嘘だっあ。
君たちが、この国で生きていくために必要な事、まず、民主主義国に生きていくために必要な、知識と技術を身につける。そのために、教育がある。それと、心身の鍛練。なにより、健康で丈夫でなければ。
ああ、その前に、人として、最低限、守らなければならない事を、習得する必要もあるね。こういう事は、民主主義国においては、国民の義務。これを見ても、教育って思想的だよな。
これらを、身につけたら、今度は、自分の夢を実現するためには、何が必要か。やりたい事をやるためには、何を勉強したらいいのか。それを話し合うことだよね。そして、自分で決める。それが、本来の教育あり方じゃあない。
挫折したり、失敗したら、何度でも、相談する。
それが、先生や親のあり方じゃあない。
こういう時代だから、自分が、幸せになれない事を、他人の責任にしても始まらない。
結局、自分が不幸なだけだ。
自分で選ぼうよ。
なぜ、勉強するのか。
自分が幸せになるためさ。
そのために、必要なら、一生懸命勉強していい学校へ行けばいい。
自分のために勉強をするの。
そう言えるようになったら、はじめて、勉強をする意味がわかるよ。
教育って、する側の問題ではなくて、される側の問題なんだよね。
自分の進路は、親や学校が決めるものじゃあない。
何を教えるかは、教育者が決める問題ではない。
教わる側が決める事。当事者能力がなければ、保護者か、社会じゃない。
教育の現場から、肝心な人が排除されていることが問題なのだ。
今の教育制度で一番問題なのは、
自分の学校や師を選べないという事。
どんな先生に当たるか、どんな教育をされるかは、
学校に行ってみないと解らないと言う事。
良い先生に巡り会えるか、どうかは、
運、不運の問題。
つまり、今の教育は、最初から受け身なのだ。
それでいて、自立しろ、主体的に、
自分の事は自分で決めろと言ってもはじまらない。
問題はそこにある。
最初から嘘がある。
選別を目的としていながら、
平等にと言う。
そんな嘘は、直ぐに見抜かれる。
嘘をついてはいけないと教えている張本人が、
最初から嘘をつかざるをえない。
これでは、教える側も教わる側も、やるせない。
自分のモラルを保ちようがない。
しかし、それでも、自分の師を見つけだすことはできる。
自分の友を見つけだすことはできる。
自分の夢を見つけだすことはできる。
仕方がないと諦めるのは容易い。
でも、諦めたらおしまいなのだ。
捜せば、必ず師に出逢える。
何を学ぶかそれを自分で見つけて、
そして、自分の先生を見つければいい。
師というのは、人生の師。
生きることの意味や人間としての生き様を教えてくれる人。
だから、師という者は、元来、自分で選ぶもの。
自分の師を探しに旅に出よう。
それが、教育の始まり。
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