教育ってなあに


礼    儀


不思議な事に、礼儀に関する授業は、学校教育の中にはどこを探してもない。

世の中の親が一番して欲しい教育は、躾ではないだろうか。
また、一番、困っているのも礼儀のなさではないのか。
それに、当人だって、人前で恥をかきたくないだろうし。
そのためには、最低限の礼儀ぐらい知らないと。

ところが、学校教育の中には、礼儀作法に関する教科はない。

言わなければ出来ないと怒るけれど、言わなくても出来るのは、教えてあるから。
教えるとはそういう事。
言わなければ出来ないのは、教えてない証拠。
挨拶もろくに出来ないと言うけれど
挨拶の仕方を教えなかったのは、誰か。
成人式で、礼儀が悪いと言うが。
自分達が、礼儀作法は、形式だからと否定してしまったんだから仕方ない。
改めるべきは、自分達だ。
作法が悪いというなら、作法を変えればいい。
作法そのものを否定してしまっうのは、筋違いだ。

教育上、重要な事は、常識的な事をどう躾るかです。ところが学校の教科に常識という教科はない。

相手の態度になんて不躾な奴だ、不作法な奴だ、無礼な奴だ、失礼だと、怒る癖に、そういう奴にかぎって、礼儀作法はいらないと言う。
また、常識のない非常識な奴だというそばから、常識に囚われるなという。


教育というのは、必要があってやるものだ。
だから、教育の裏側には、教育の必要性、つまり、困った事が隠されている。
では、人は、何に、困っているのか。

多くの人は、哲学的なことで悩んでいるわけではない。下世話な事で悩んでいる。
一見、ささいで、どうでも良い事ができない為に、肝心な事が、解決できないでいる。
ささいでどうでも良い事だから、人に相談する事もできないで悩んでいる。
だから、教育の必要がある。また、教育によって改善できるのである。

仕事が上手くできないのは、挨拶ができなかったり、口のきき方を知らないからであり。法律がわからないからでも、経済の理論を知らないからでも、地理に詳しくないからでもない。

女を口説けないのは、微分積分の問題が解けないからではない。女の人と、何を話したらいいか分からなかったり、初対面の相手を、どうやってデートに誘ったらいいか、分からないから。性について豊富な知識を持っていても、それだけで女性にもてるわけではない。いわんや、高邁な恋愛観を持っていないからでもない。

力学の法則を知らなくても、車の運転はできる。どちらかといえば、学者さんは、車の運転が下手だ。

経済学者は、金持ちばかりではないし。物理学者は、カーレーサーに向いてるとは、思えないし。生理学者が、プロスポーツ選手になれるわけではない。心理学者が優れた指導者になれるとはかぎらない。だが、学校は、そう思っていないらしい。だから、礼儀など意味がないと教育者は、いえるのだ。

人生でつまずく原因の多くは、難しい事ではなく、優しくて簡単な事。だから始末が悪い。人に聞くのも、改めるのは、はばかれる。だから、間違うのだ。人に聞ける事、簡単に改められることなら問題は少ない。

 見たい番組がある時、教えて欲しいのは、テレビの原理や仕組みでも、性能でもない。また、番組に対する評論でもない。スイッチの場所とチャンネルの選び方だ。

礼儀作法が悪い、躾がされてないために、人生を棒に振る人間が沢山いる。それが、現実なのである。対人関係がうまくいかずに、絶望している者が多くいるのである。教育者は、この現実から目をそらすべきではない。

口のきき方。立ち居、振る舞い。挨拶の仕方。お辞儀の仕方。手紙の書き方。座り方。食事の仕方。会議の仕方。口上。これらが教えてもらったら、どれほど助かるか。正式の会合に何を着ていっていいか分からない。本当に、誰かに、教えてもらわないと困る。しかし、学校関係者は、礼儀作法、躾をするのは、学校ではないという。
では、誰が、どこですればいいのか。

礼儀作法を、形式主義とか、封建的だとか否定する者がいる。とんでもない。

形式主義と言うが、形式に囚われるのは、形式の裏にある真実を知らない者だ。形式に魂を入れるのは、人である。形式を重んじる人は、最初から、形式に魂を入れるのは、人である事を前提としている。形式を軽んじる人は、形式だけに目が囚われて、物事の本質を見ていない。
封建的なのは、礼儀作法ではなく。その背後にあるものだ。つまり、封建的な体制だから礼儀作法も封建的なものになる。
第一、民主主義にとって礼儀は重要な徳目である。まず、礼儀は、不文律だと言う事。つまり、礼儀作法で収まるのなら、成文法はいらないと言う事。第二に、民主主義は、個人主義に立脚しているという事。つまり、民主主義は、個人の内面の律法に基づいて成立している。つまり、民主主義の究極的理想は、礼による支配である。
だから、民主主義にとって礼節は、基本である。

価値の基準は真善美である。
この中で善と美は、教育上切り捨てられてきた。
その中で、礼の根本は、美意識である。
だから、礼は、学校の教科にないのである。
服飾センスは、礼儀の基本である。思想表現である。

礼は、良し、悪しで判断するのではなく、美醜で判断すべきなのである。
これにも誤解がある。
多くの人は、何でもかんでも、良いか悪いかで判断しようとする。
礼は、良いか悪いかではなくて、きれいかどうかなのである。

いずれにせよ、礼儀作法、躾は、どんな体制下でも、教育の根幹である事に間違いはない。



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