教育ってなあに


体    育


戦後の教育から、排除されたものの最たるものが、修行である。

知徳体、これは、教育の目的を表した言葉の一つだが、この目的の中の徳と体が、切り捨てられた。教育は、知育・体育・徳育だという。それなのに、知育だけが突出している。

徳を磨き、体を鍛えるという事は、教育の現場から消えていったのである。
なぜか、軍国主義につながるという理由らしい。
言ってる人間の頭がおかしいと思うのだけれど、とにかく、そういう理由らしい。
この国には、マスコミを中心とした、魔女狩りのようなものがあって、全体主義や軍国主義、独裁主義、民族主義を連想させるものは、とにかく駄目だ、悪なんだとひどい迫害をする。マスコミの言論弾圧はひどい。
まあ、彼等は、自分たちが、迫害、弾圧していると言われるのは嫌うけれど、間違いなく、マスコミの弾圧である。

体育、体育会系も、この言葉を連想させるらしい。だから、体育会系というのは、言論界では、馬鹿の代名詞のように使われる。

しかし、徳を磨き、体を鍛える事こそ教育の大目標である事は、今でも間違いない。

健全なる肉体に、健全なる精神が宿る。
間違えないで欲しい。強壮強健でなければならないと、言っているのではない。
肉体的なハンディがあっても、健全な肉体を保つことができる。
病人は駄目だと言っているのではない。
むしろ、そういう人ほど、体を鍛える必要がある。

肉体を鍛える事を通じて、自分の精神も鍛えるのである。
しかし、その精神が、体育から失われれば、
体育の授業は、ただ単なるお遊びの授業になる。
遊びが悪いというのではない。
教育の目的が失われる事が悪いのだ。

子供は、本来、屋外で遊ぶことが好きだ。
屋外での遊びを通じていろいろなことを勉強する。
友達とのつきあい方、自然のとのふれあい、そういったものを通じて大人になっていく。
体を動かす事によって学ぶことはたくさんある。
しかし、現代教育は、子供を小さい教室に閉じこめ、
かぎられた空間の中だけで教育しようとする。
なぜ、何のために
それは、無事に、安全に、怪我をさせずに
つまりは、教育者が責任を問われないように、生徒を管理したいからだ。
しかし、安全ばかり求めていたら、教育には成らない。
なぜならば、この世の中は危険なことは満ちているからである。
危険なことから身を護る術を教えるのが、教育本来の目的だからである。
危険から目をふさぎ、遠ざけたら、教育の目的は失われる。逆行である。

教育は、目的を見失っているのである。
それは、教育が結果ばかりを追い求めてきたからである。
教育の目的は、結果からは、計れない。
教育の目的は、効果、即ち、働きから求めるべき事なのである。

学校でスポーツを教えるのは、スポーツ選手を育成することではない。
ならば、スポーツを通じて何を学ばせるかが重要なのである。
それを忘れている。
スポーツと体育は、イコールではないのである。

健全な肉体に健全な精神が宿る。
つまり、肉体を鍛えることは、手段であって。
健全に精神を鍛え上げるのが目的なのである。
そこに、競技と体育の違いがある。
体育は、勝敗という結果ではなく。
スポーツを身につける過程で何を得るかが重要なのである。

さあ、書捨て、外へ出て。思いっきり新鮮な空気を吸い。
体を動かそう。そうすればいい考えも浮かぶよ。



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