教育ってなあに


国   語


 国語教育とは何か。
 なぜ国語を学ぶ必要があるのか。
 国語教育でそれがハッキリしていない。
 国語を教えることの意義と目的が解っていない。

 先ず、言葉は、コミュニケーションの手段である。

 我々日本人は、
 日本語で考え。
 日本語で話をし、
 日本語で相手の意見を聞く。
 日本語が、だらしなければ、
 当然、だらしない考えになり、
 自分の考えを相手に正確に伝えられなくなるし、
 また、相手の意見も正しく聞き取ることができなくなる。
 それでは、人間関係を築く事も、
 自分の考えをまとめる事もできはしない。

 言葉の乱れは、
 直ぐに、社会や私生活の乱れとなって現れる。
 その言葉を乱しているのが、
 学校であり、メディアだから
 世の中が乱れるのは、
 当然と言えば当然である。

 今の日本語は、漫画的なのである。
 一つの文章を構成できない。
 うざい。
 うるさい。
 ほっといてよ。
 言葉をちぎって投げつけてくる。
 これでは、まともな会話が成り立たない。
 だから、心はすさみ、人間関係はささくれ立つ。

 戦後の日本の文化は、
 主語、述語のない動詞文化である。
 日本語が、ちゃんと喋れない。
 殺したいから、殺した。
 やりたいから、やる。
 やめたいから、やめる。
 主語がなければ、
 責任の所在が定まらない。
 自己の所在がなければ、
 責任感が育たない。
 自分の所在がないから、
 自分が何をしたいのか。
 何をしているのか解らないのである。
 日本語をちゃんと使おう。
 そうしないと自分がなくなってしまう。

 国語を学ぶというのは、言葉を学ぶことではない。
 言葉と言う道具を使って、意志の疎通の仕方を学ぶ事である。

 文字の読み方を教えるのではなく。
 本の読み方を教える。
 文字を覚えても、
 本が嫌いになったのでは今がない。
 本が読みたくなれば、自ずと文字は覚える。
 それは何にでも言える。
 本を読みたくなる前に、
 強制的に文字を教える。
 その結果、本を読む人がいなくなったら、
 本末の転倒ではないか。

 国語教育で身につけさせるのは、理解力と説得力である。
 理解力は、読解力でもある。
 説得力は、表現力でもある。

 国語が国の言葉、日本語による文章、
 即ち、日本語を学ぶことだと錯覚していることである。
 つまり、読み書きの延長線上でしか国語を学ぶことの意義が理解されていない。
 読み書きを習うことは大切である。
 しかし、何を読むのか。
 何を書くかは、個人の問題である。
 それに、何を読むのかも大切だが、
 どう読むのか。どう読んだのかも同じように大切である。

 作文も、感想文も、その点が欠けている。
 つまり、何を感じ、どう理解したかがである。
 それをお仕着せではなく。
 相手の感じたことを素直に引き出し、
 自分の生き方に繋げさせる。

 こうなると今の学校の先生では、国語を教えられない。
 荷が重すぎるのである。

 読み書きだけではなく。
 聞く事、そして話すことも国語を学ぶ上では重要なことである。
 相手の話していることを理解し、
 同時に、自分の言いたいことを上手に日本語で表現する。
 それがの国語の一番の目的である。
 きれいな日本語を使いこなす。
 それが国語の第一の目的である。

 特に、人の話を聞いて、真意をくみ取ったり。
 新聞や本に書いてあることの行間の意味を理解する。
 それが国語を学ぶ本来の目的。

 以前どこかで聞いたが、
 戦後の教育には、新聞や雑誌の背景から
 記事の真意を読みとる授業がアメリカから持ち込まれたが、
 いつの間にか消えてしまったという。

 読み方と言っても、文学や古典ばかりを指すのではない。
 機械の説明書の読み方も大切である。
 また、生命保険の契約書も必要である。
 日本の法令の文章は、難解で理解に苦しむことが多い。
 この様な法令の読み方も教えておかなければならない。
 まあ、役人や弁護士は、職業上の機密にして
 教えたくないのかもしれないが。

 木下是雄は、「理科系の作文技術」中公新書の中で
 アメリカの大学では、イングリッシュ・コンポジション、レトリック(修辞学)が必須だと書いている。
 そして、「主題を選ぶ方法」「言うべきことを見つける方法」「見つけたことを選択し、配列する方法」と言った類に少なからずページ数をついやしていると書いている。

 手紙の書き方も大切だ。
 最近は、手紙を書く機会も少なくなったけど、
 それでも手紙は大切なコミニュケーションの手段。
 メールという新しい手紙も加わったのである。
 恋文。ラブレターの書き方一つで人生も変わる。

 聞く技術も大切である。
 聞くことに技術はいらないと思っている教育者が多いようだ。
 しかし、聞くことにも技術がいる。
 また、聞く技術の延長線上に質問の仕方がある。

 また、言葉は文化である。
 つまり、国語を学ぶと言う事は、本来が日本の文化を学ぶ事なのである。
 国語を通して、日本の文化や歴史、伝統を学ぶのである。

 話し方も大切である。
 話し方が下手で社会に出られないものもいる。
 挨拶の仕方が解らないものもいる。
 こう言うことは教えなければ身に付かない。
 ところが、学校でも、家庭でも教えない。
 だから、外に出られなくなって、引き籠もる。
 挨拶なんて、教わらなければ身に付かない。

 国語とは、そう言う勉強をするもの。
 漢字を覚えたり、文法に忠実になることを教える事ではない。
 生きた言葉を教えることである。

 これからは、スピーチだって大切。
 民主主義国では、自分の考えを正確に相手に伝える必要がある。
 自分の考えを発表する必要も出てくる。
 ディベート、討論の作法、マナー、ルールも身につけないと。

 民主主義国にとって国語は、ただ単なる知識ではない。
 自分達の権利や義務を遂行する上で不可欠な技術なのである。

 日本語は、縦書きも横書きもできる。
 右から書いても、左から書いても良い。それに、ひらがな、カタカナがある。
 更に、漢字がある。
 その上に、アルファベット、ローマ字、アラビア数字、ロシア語、ハングル文字、アラビア語と何でも取り込める。
 この様な効率的な言語が日本語である。
 ところが、肝心の日本人が、この日本語の良さが解っていない。
 また、学校では教えない。
 ただ、日本語は、論理的でないとか決め付けて、授業を手抜きしようとする。
 先ず、教える側が、日本語の良さを再認識しなければ、国語なんて教えられない。





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