教育ってなあに


教育ってなあに



一体、なぜ勉強するのか。
この疑問は、子供達には、切実な問題だ。
でも、この質問に、まともに答えられる大人は、居ない。

それじゃあ、子供はぐれるさ。
やりたくもない事を、徹夜までして、やらされて。
なぜ、こんな事しなければならないのって、聞いたら、
わからないと言われたり、
まともな答えが、返ってこなければ・・・。

しかも、役に立たない数学や英語を教えられたのでは・・・。

大体、今の教育には、嘘が多すぎる。
選別を目的としながら、公平だとか。平等という嘘をつく。
個性の尊重と言いながら、相手に選択の余地を与えない。

現代教育の悲劇は、
なぜ、教育をするのかという事が、わかっていないことにある。
この点を、まず、ハッキリさせることだ。

本来の目的を見失ったことで、教育そのものが、自己目的化している。
教育するために、教育する。
それが受験戦争。戦争だぜ。すごいよな。
まあ、ゆとり教育だって、同じ穴のムジナ。
何を、教えたいのか、さっぱりわからない。

多くの子供は、最初から勉強が嫌いなわけではない。
好きな勉強をさせてくれないから勉強が嫌いになるのである。

教育は、ロマンだ。
学ぶ喜びを、教えられない教育は、無意味だ。

今の教育は、最初から、なぜという問い掛けを拒んでいる。
だから、なぜと問うことが我々にはできない。
なぜ、勉強をするのか。
その問いは、野暮な質問なのだ。。
でも、なぜと問わなければ、本当のことは解らない。
なぜ、本を読むのか。
なぜ、大学へ行くのか。
なぜという問い掛けを禁じられ、封じられた時、
教育は、学問に対する本質を見失ってしまった。
私にはそう思えてならない。

だいたい、なぜと問うことが、学問の始まり。
物事の道理を教えるにも、教わるのも、
なぜと問うことから始まるのに・・・。
なぜと問うことが、
勉強の始点、
教育の原点なのである。

子供達は、なぜと問うことすら怖れている気がする。
諦めている気がする。
なぜと問うことを叱られ、
なぜと問うても、その答えは、虚しく、不毛だから。
なぜと問うても、無駄であり、
かえって叱られるだけだと思い込んでも無理はない。

なぜ、勉強をするの。
なぜ、学校へ行かなければならないの。
なぜ、空は青いの。
なぜ、働くの。
なぜ、生きるの
なぜ、愛するの。
なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ、なぜという子供の好奇心は、学習の最大の味方である。
その最大の味方を最大の敵としてしまっている。
なぜという問いを否定する事は、
教育にとって自殺行為に等しい。
それ自体、自己矛盾であり。
自己否定である。
ところが当事者がそれに気がついていない。

その結果、
意味もなく勉強をして。目的もなく大学へ行く。
それが当たり前になってしまった。
当然の事として受け容れざるをえなくなった。
だから意味もなく努力し、目的もなく生きる(働く)。
そう言う生き方しかできなくなる。
それで熾烈な受験戦争を勝ち抜いて大学に入った時、
何が残るのだろう。

受験生にとって、
高校時代、
真面目に、
人生について考えるなんて、
野暮なことである。
学校は、勉強に行くところであって、
学ぶところではなくなってしまった。
人生について、生き方について学ぶ、
学校は、そんな、神聖な処ではなくなってしまった。
教育者が゛生徒をそう仕向けているのだから、
学校は、受験のための予備校なのだと
教育者自らが、そう宣言しているようなものである。

かつて教育者は自らを聖職として位置付け、
高い使命感を持っていた。
しかし、今は、勉強を教えるただの労働者に過ぎない。

だから、生徒達の人生なんてどうでもいい。
兎に角、問題を起こさず卒業さえすればいい。
卒業後の人生なんて知ったことではない。
野となれ山となれである。

生徒はひたすら教えられたことを暗唱すればいい。
何も、問題を起こさない、それが良い生徒なのである。

難しいことは考えず。
ただ、楽しければいい。面白ければいい。
言われたことを言われたとおりしていれば、
少なくとも進学は出来る。
それが、学校の教える人生なのである。
少しでも、人間的に悩み、考えたら、
おちこぼれてしまう。
真面目に、まともにやったらやってられない。
学校で教えていることに疑問をもったら試験に落ちてしまう。

これでは、まともな感覚が麻痺してしまう。
こんな教育をしたら、
何でも、中途半端な考えしかできない人間を育てしまう。
刹那的になってしまう。

こんな教育を受けた人間が、
真剣に人生について考えるなんて、
馬鹿馬鹿しくてやってられない。
そう考えてもおかしくない。
何もかも忘れて、
面白おかしく生きればいい。
世の中のこと、
社会なんてどうなったていい。
所詮、お金が全て。
成績が全て。
適当に、適当に。
そう言う価値観を植え付けてしまう。

内心は、世の中をなめているのに、
表面だけは、良い子を装う。
成績がよければ、性格や人格は二の次。
ただ、親や先生の顔色をうかがい、
上辺だけをつくろう。

それも、学生時代だけの辛抱、
一時の辛抱、
社会に出たらまともになるさと思っているかもしれない。
でも、その習慣は、一生抜けなくなってしまう。

社会に出たら、指示されたことしかできない。
教えられたこと以外、何をして良いか解らない。
いやになったら、辞めるしかない。
自分で問題を提起し、
自分の力で状況を打開するなんて思いもよらない。
そんな生き方しかできなくなる。
人生やり直しがきかないことが沢山ある事を忘れてはならない。

適当に、その場だけを合わせていればいい。
どうせ、成るようにしか成らないのだから。
投げやりで、
いい加減で適当な人生。
真面目に人生なんて考えられない一生。
上辺だけは上手く立ち回っているようだけれど、
満たされるものが何もない。
その場つなぎの人生。
刹那主義。快楽主義。日和見主義。ご都合主義。三無主義。
そんな考えに骨の髄まで汚染されたら、
救いようがない。
鬱々と、鬱になる。

繰り返し、繰り返し、周囲から、
なぜ大学へ行くのかは、
大学へ入ってから考える。
受験勉強の最中にそんな余計なことを考えたら、
受験戦争で脱落してしまう。
とにかく何も考えないで大学へ行くことだ。
どの大学へ行くかは、
偏差値で判断すればいいと言われ続け。

言っている人間にも考えがない。
だから、
なぜ、ときくたびに、しつこいとか。
目的がなければならないのかとか。
理由がなければ何もできないのかと。
そんなこと考えていたら落第するよ。
そう責められ、脅されてきた。

教えている人間も自信がない。
だから、
大切なのは、和であり、事なかれであり、
日和見であり、穏便に穏便にならざるをえないのだ。
事を荒立てでどうなる。
とにかく、言われたことを
言われたようにすればいいのである。
じゃあ、いつ自分の考えを持つの。
いざという時、何も決断できなくなる。

受験勉強を強いていて、
勉強そのものに疑問を持ってはダメ。
だだ勉強だけをやれ、
先生への絶対的服従を強いていながら
疑問をもてだの、主体性をもてだのと
言ったってはじまらない。
無意味である。

しかし、本当になぜと聞いてはいけないのだろうか。

屁理屈を言うなと大人は言うが、
これは屁理屈ではない。道理だ。

あなたは、自分のことを自分で考えろというけれど、
とんでもない。
そんな時間も、隙もありはしない。
ただひたすら、自分達は、決められた路線をひた走るだけ。
決められた路線がなくなったらどうするかだって、
そんなこと考えたら負けちゃう。
そうなったら、そうなった時考えればいい。
お母さんが考えてくれるよ。
先生が何とかしてくれる。
成り行きまかせ。
親任せ。
だって、そうするしかないじゃあないか。
何も決められはしない。
どうせダメさ。
ママに叱られる。
責任ないもの。

待て、待て。
本当にそれでいいの。
でも、自分の人生だぜ。

本来、
高校で考えるべき事は、
それは、自分の人生についてだ。
自分は、これからどういうふうに生きていくのか。
その為には、何が大切なのか。
何を身につけるべきか。
資格を修得するべきか、否か。
そして何を学ぶべきか。
納得がいくまで考えるべきだ。
それを見極めてからでも遅くない。
逆に、大学へ行ってからでは遅い。
だから、立ち止まること、足踏みすること、
横道にそれることを怖れる必要はない。
自分の決心の問題なのだ。
何を目指しているかが問題なのであり、
出来・不出来の問題ではない。
修業なのである。
自分の問題なのである。
自分の人生なのである。

他人を恨んでも、
親や先生の性にしてもはじまらない。
結局責任をとらされるのは、自分なんだぜ。
人生最後の瞬間、
俺はこんな生き方したくなかったなんて後悔しても遅い。
そうやって責任をとらされるのさ。
急に自分の考えを持てと言われても無理。

確かに、年功序列が一番きついのは学校さ。
年功序列のこと、悪いと言っている癖にね。
平等と言うけど、それは、同級同学年の中であって
一学年違うだけで、天と地ほど違ってしまう。
クラスの中にも成績による差はある。
でも、学年の差から見ると微々たるものだ。
先輩後輩の差は縮まらない。
だから、留年というのは、死ぬほど辛いというのは解る。

それでもなお、立ち止まることを
足踏みすることを怖がらないで欲しい。
たかだか二年か三年の辛抱だよ。
一年、二年の差が問題になるのは、学生時代だけだよ。
学校を出たら、年の差よりも実力だよ。
学生時代なんて、長い人生の内のほんの一時に過ぎない。
自分を追いつめないことだ。

大切なのは、ちょっとした勇気だよ。

でも、一年、二年遅れたからといって引き籠もらないで欲しい。
若い頃の一年、二年の遅れはすぐに取り戻せる。

勉学に、出来の善し悪しは、
あまり関係ない。
なぜって勉強は基本的には自分の為にするもの。
親のためでも、他人のためでもない。
だから、自分が納得するまで勉強する。
出来の悪い人間は、学んではならず。
出来の良い人間だけが学べるのではない。
むしろ出来の悪い人間ほど学ぶべきだ。
出来が悪いから勉強するのだ。
学問は、全ての人間に門戸を開いている。
やる気の問題である。
それを成績だけで判断するのは間違いである。
何を学ぶかであり、結果ではない。
大体、学問に終わりはないのである。

学校のように、学級や成績が絶対の社会なんて、
現実の社会にはない。
自動車学校や単位制学校のように
必要な単位さえ取ればいい学校もある。
英会話学校やエアロビクススクールのように、
自分が納得がいくまで、
又は、少し、力が落ちたら、
最初からやり直せる学校がほとんどである。
大体、社会に出たら、生きていくのに、必要でない事は習わない。
それに、年齢も関係ない。

今の教育は、早さばかりを競って、
正確さも丁寧さも軽視する。
楽しさなんて全く無視している。
しかし、現実の社会は、むしろ、
正確さや丁寧さが大切である。
いくら早くできたって、仕上げが雑では仕事にならない。
不正確なものでは、安全性が保てない。
早くやることより、正確に丁寧にやる方が重要なのだ。
職人や板前の世界を見れば解る。
早さよりも丁寧さ、正確さを学ばされる。
早いだけで雑なのは、もってのほかだ。
要は腕である。

早い、遅いは、本質的な問題ではない。
亀でも良いのである。
標準的な人が一年で習得することを
三ヶ月で習得したからと言って優秀とは言わない。
逆に、三年かけたからと言って劣っているとは限らない。
要は、自分が納得するか否かだ。
時間をかけて学んだ方がいいこともあるのだ。
皆に遅れをとったからと言って恥ずかしがる必要はない。
かつては、どんな修業も時間で進級させることはなかった。
武道も、華道も、茶道も
皆、上達度によって進級した。
納得がいかなければ進級を自らが遅らせた。
ところが、今は、何でもかんでも早ければいいと言う。
その為に、納得がいかなくても無理矢理、進級させられる。
ただ、卒業すればいいのか。
学生時代なんて、長い人生の内の本の一こまに過ぎない。
少なくとも全てではない。
早かろうと遅かろうと目的を達成した者が成功者なのだ。

人生において一時間で答えを出さなければならないなんて事は滅多にない。
しかし、学校では常に時間が限られている。
こんな馬鹿な話はない。
一人の哲学者が一生をかけて考えた答えも一時間で出せと言う。
後で考えると大した事がないことでも
何日も何日も悩むこともあるし、
一瞬で片付けてしまうこともある。
一生を伴に出きるかどうかなんて、
とても一時間で答えなんて出せない。
でも試験問題は、一定の時間で答えを出せと言う。
それで答えが出せない者は、落第だという。
しかし、人生では、慌てて答えを出した方が失格だよ。
なぜ、焦る必要があるのだろう。

サッカーや野球を何歳から始めたらいいか。
そんなことは一概に決められない。
ただ言えることは、何でもかんでも
早く始めればいいなんて、
誰も思っていないことである。

会話のない言葉を教えても
会話力は身に付かない。
英語を何年も勉強しても
日常会話すら身につけられないのである。
ならばなぜ学校で英語の勉強をする必要があるのか。
しかし、それを問うことは許されない。
タブーである。

なぜ、英語を勉強する必要があるのか。
徹夜までして勉強した英語が将来役に立つのかは、
勉強させられる者にとって切実な問題なのである。
でも、学校で勉強した英語が役に立たない事を皆うすうす気がついている。
だから、学校英語が役に立つなんて言ったら最初から嘘をつく事になる。
本気で役に立つと思っているのならば別だけれど。
でも役に立たない事を役に立つと言ったら最初から嘘をつく事になる。
だったら、役ないというべきなのである。
その上で、どうしたら役に立つ英語の勉強にするかを
一緒に考えてあげる事なのである。
なぜなら、学校で教える英語は役に立たないけれど、
英語そのものは、いろんな役に立つから…。

今の教育は、文字は教えても、本の読み方は教えない。
だから、文字を覚えた頃には、すっかり本が嫌いになっている。
歴史をなぜ勉強するのか。
その意義を問うことなく、
歴史の年表や出来事を暗記させられる。
そうすると、子供達は、
歴史の年表や出来事を暗記することが歴史の勉強だと思い込む。
それでは歴史の真実を学ぶ事はできない。

歴史をなぜ学ぶのか。それは、自分が何者かを知るため。自
分は、どこから来て、どこに行こうとしているのか。
自分とは何者なのか。それを知りたいから歴史を学ぶ。
原点は、自分の歴史。
過去程不確かなものはない。
なぜなら、未来は検証できるが、
過去は、検証できないから。
歴史を学ぶなら、あるがまま自分を受け入れ、
あるがままの現実を直視する事。
いま、自分が歴史のただなかに生きている事を自覚していない者は、歴史の真実なんて理解できない。
それでは、屍をいじくりまわしているだけ。
歴史には、人々の生活、暮らしが息づいている。
それが歴史。
それを自分の目で確かめる。
だから過去の理論に囚われてはいけない。
まず、事実を自分の目で確かめる。

今、我々は、歴史的出来事に立ち会っている。
今も歴史は作られる。
生きた歴史は、教科書から学ぶ事ではない。
現実から学ぶ事。
教科書に書かれた歴史は、魂がない。
魂のない歴史は、屍に過ぎない。
ただ醜く腐っていく。

今の教育では。
愛なんて空しい。現実は、性欲が勝つそう教える。
愛を知る前に、性を教えられる。
それでは人が愛せなくなる。
それを教育というのだろうか。
性を教える前に、人を愛する事を教えろ。

なぜ、勉強のするのか。
なぜ、大学へ行くのか。
教育の目的や意義を問うこと自体、
今の教育では、許されないのである。
ただ、保護者も子供も、学校の方針に従うしかない。
そのことを問うこと自体、許されないのでは、
教育の目的など無意味である。
それは、学問の死を意味する。
生きた学問を学ぶ事はできない。
スルメを生きたイカだと教えるようなものである。

意味もなく勉強をして、
目的もなく大学へ行くことになる。
そこで得ることの知恵は、生きた知恵ではない。
無味乾燥の知恵である。
その様な知恵を得るための学問とは、
無機質な学問、生命のない学問だ。

それでもなを、受験勉強の意義を見出そうとすれば、
行きたいから行く。やりたいからやる。勉強がしたいから勉強する。
としか言いようがないではないか。
それがいかに、欺瞞的、偽善的だとしても。
周囲の人間だけでなく、自分をも欺く嘘である。
その嘘の為に、寝る間を惜しんで意味もなく勉強をして、
目的もなく大学へ行ったとしても、
その先に何があるのだろう。
もともと、目的がないのだから、
そんなもの、大学へ行ってから、
進路が決まって辛さがしたところで無意味である。

意味もなく、ただ、ひたすらに、勉強すれば、
しかもゴールもないまま、
燃え尽きてしまう。
そして、肝心の大学に入っても燃え殻のようになってしまう。

生きた学問て、楽しいですよ。
楽しくなければ、それは、死んだ学問です。

今の世の中、休みを増やせばいいと思い込んでいる節がある。
でも、本当に休みを増やせば問題が解決されるのだろうか。
休みたいというのは、勉強が面白くないからさ。
部活を考えてみれば解る。
甲子園を目指している野球部の連中は、夏休みをとれると思う。
喜ぶと思う。
野球に熱中して、休みなんて、自分で返上するさ。

なのになぜ、学校は、休みになると嬉しいのだろう。
体育の時間と部活とではなぜこんなにも違うのだろうか。
ゆとりとか、何とかという前に、
休みを返上しても行きたくなるようにして欲しいね。
物事に熱中している者にとって休みというのはかえって苦痛なものだ。
休め、休めと言うのは、自分達が休みたいからだ。
一生懸命打ち込んでいるんだから、ほっておいて欲しいね。

野球を覚えるのに、
いきなり、ルール集を座学する。
野球を始める前に、
野球が嫌いになる。

何で、小学校低学年から集合論なの。
全ての子供が、物理学者や数学者になるわけではあるまいし。
子供というのは、即物的なんだよ。
きちんと対象の認識ができないうちに、
抽象的な概念を教えても無理だよ。
初等教育で必要なのは、観念論ではなくて、経験だよ。
本ばかり読んだところで、
水に入れなければ、
泳ぎは覚えられない。
本ばかり読んでいたら、
かえって、水を怖がるようになる。

車の運転をマスターするのに、物理学が必要だと思う。
車の免許を取得するのに、微分積分を試験教科に入れたら、
免許証なんてかぎられた人間しか免許が取れなくなってしまう。
第一、物理学を勉強したら、
運転の技能が上達するだろうか
必要性を軽視するからつまらなくなる。
だって役に立たないのに、
面倒くさいんだもの。
そりゃあ、車の運転に役に立つなら、
物理学だって真面目に勉強するさ。

教育の目的は、幸せにする事です。
勉強の目的は、幸せになる事です。

どうすれば、幸せになれるのか。
とにかく、とりあえず生きていかなければね。
まず、生きるために、必要なことを学ばなければ。

生きるために必要な事を身につけたら、次にどうするのか。
難しく言えば、自己実現を目指す。
まあ、簡単に言えば、自分が、やりたい事を実現する。
つまり、夢を実現する事。

先ず、自分の夢を実現するためには、
何が必要なのか。

学校に行かなくても、
生きる事ができて、夢が実現できるならば、
学校なんて行く必要はない。
皆、その事を忘れている。
学校に行かなければ、
まともな生活ができないと思いこんでいる。
でも、中学や、高校しか出てない人でも、
成功した人は、いくらでもいる。

生きるための知識と技を身につけさせて、
その上で、夢を実現する為の手助けをするのが、教育さ。

教育の世界では、実用だとか。日用だとかを低く見る傾向がある。
アカデミズムというのは、高尚で、高邁で、世俗的なものなど扱わない。
だから、学問は、世の中の役に立たないものだといった、
間違った認識が横行している。
だいたい、それは、教える側の身勝手な保身にすぎない。
だって、役に立つ必要がなければ、実社会で立証する必要がないから。
そうなったら、何とでもいい訳がつく。

役に立たない学問なんて、学ぶ必要がない。
学問というのは、本来、役に立つもの。
生きていく上に必要な知識や技術を修得するもの。
そして、勉強の目的は、自分の夢を実現する事さ。

その根本は、人生、いかに生きるべきか。
だから、教育は、思想であり、哲学なのである。




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