教育について
教科書
大人になったら、何になりたい。この質問こそ、問題意識の原点だ。子供の頃は、いろんな夢があったのに、なぜ、学校に行く間に、夢は、色あせ、画一的なものになっていってしまうのだろうか。
感動を押し殺し、偏差値や成績という数字の中に子供達の心や夢を封じ込めていってしまうからだ。子供達は、現実社会に夢を持てなくなってしまっている。これもまた、教育の成果。
問題意識というのは、問題を認識し、問題を作るところから始まる。
現実の世界は、写真のように制止しているわけではない。出された答えよりも、答えを出す過程の方が重要なのである。それが、問題意識である。それは、カメラのようなものではなく、テレビのようなものである。答えは、一定ではなく、条件の変化によって絶え間なく、変動している。それが、現実である。今、正しくても、次の瞬間には、間違った答えになることがある。それ故に、間違いは、誰でも、犯す、可能性が、あるのである。それ故に、答えよりも、問題の設定に誤りがあったかどうかを、検証することの方が重要なのである。
教科書は、聖書ではない。また、現実の世界は、教科書に収まる世界ではない。実際の世界は、教科書には書かれていない、教科書には書けないことに満ちている。
ところが、学校においては、教科書は絶対である。学校では、教科書に書かれていることには、何の矛盾もなく、間違いもないと信じ込ませる。それを実行しているのが、学校の先生である。なぜならば、試験制度下においては、試験の原典である教科書は、絶対でなければ都合が悪いからである。こうなると、目的より、手段の方が重要になる。かくして、教科書は、宗教の聖典以上に、絶対なものとなる。宗教の聖典に書かれていることは、迷信でも、教科書に書かれていることは、真理である。白いものでも、教科書に黒と書かれれば、黒になるのである。教科書に書かれた英語が、言葉として使い物にならなくても、試験に出る以上、マスターしなければならないのである。
学校においては、教科書に書かれていることが、真実であり、真理である。そこには、現実も事実も入り込むことはできない。なぜなら、教科書こそ学校や教師の権威の源泉であり、試験制度の土台だからである。そして、試験制度によってしか、今の教育制度は維持できないからである。教科書の絶対性が失われたら、試験制度は土台から崩壊し、学校は、生徒を管理する術を失い、教師に対する生徒の信頼は失われる。故に、学校では、教科書に疑問を呈することは、タブーなのである。
現実の社会では、正しい答えであっても教科書に載っていなければ、学校では間違いになる。現実に大学で教わる方法で、高校の試験問題を解けば、答えはあっていても間違いになる。その理由は、高校では、教えていないからである。小学校の時、代数を使えば簡単なんだけどなと、つぶやいた先生がいた。
現実の世界は、教科書に書かれていないものだらけである。しかも、教科書に書かれていないことの方が大切なことが多い。
本来なら、現実を観察し、そこから、学び取る真摯な姿勢こそ教えるべき事である。
その意味で、少なくとも学校には、人生の教科書と呼べるものはない。
まともに話し合うことができる場所が、学校の本来の姿なのである。子供達もそれを望んでいる。人生についてまともに、相談できる相手こそ、真の教育者なのである。子供達もそういう師を求めている。生きていくうえで必要な多くの示唆に富んだものが、優れた教科書なのである。子供達も、そういうものを欲求している。しかし、恋人の見つけ方やつきあい方を、相談できるような人生の師は、学校にはいない。教科書には、生きていくために必要な、人とのつきあいかたやしつけは書いてない。
子供達にもたらされるのは、虚脱感と空しさだけだ。
現行の教科書の間違いは、一律に、一定の解答があると、思いこませることだ。現実の世界は、絶え間なく変化をしており、一律一定の解答が、あることは、まれである。同じものを見ても、人それぞれ感じ方が違う。世界には、未知なものが多く、科学の法則も仮説に基づいたものにすぎない。
子供達に対し、先生が教える解答は、絶対的で、普遍的であるとしたら、それ自体、子供達たちに、間違った現実認識を植え付けることになる。ところが、学校では、教科書に書かれていることは絶対である。そして、教科書に基づいて全国一律に試験がされる。
現代社会の特徴の一つは、価値観の多様化だといわれている。しかし、本当に価値観は多様化されているであろうか。むしろ、自己の内部の価値観は喪失し、主体性もなく行動しているだけなのではないか。一見、価値観が、多様化して見えるのが、実際は、ただ、外部から与えられた情報や価値観に、主体性もなく依存しているだけなのではないのか。麻薬に中毒したように。これは、一種のゾンビである。
現に、価値観の多様化という間違った事実認識の一方で、実際には、画一的な価値観の人間を多く生み出している。それがまた、個性尊重という考えを生み出すのであるが、個性とは、元々、一人一人が、持っているものであり。個性化などと改めて言わざる、をえないのは、人間が画一化されている証左にすぎない。結局、上っ面は、多様に見えても下は一つなのである。
これを思想教育といわずに、何を思想教育というのだろう。これは、ある種の洗脳教育である。
このような間違った教育によって、子供達は、暗記と教科書をマスターすれば、この世の全ての真理を理解できると錯覚するのである。その為に、学校や教師が絶対化し、過度の期待をもたれることになる。そして、学歴の優秀な者は、万能の力を得ることになる。しかし、考えてみれば、彼等は、受験勉強オタクに過ぎない。その結果、学歴偏重をもたらすのである。一般常識や社会認識に欠けているのは、よく知られている。
没個性、画一的な人間にしてしまう一方において、未知な世界に対する興味や探求心を失い。現実の変化についていけない人間を多く育ててしまう。そして、彼等の多くが、教科書的な世界の中に埋没していくのである。
試験をしなければならないから、試験をするために問題を作る。試験問題を作るためにカリキュラム、つまり、教えるべき事、を決めなければならない。そして、そのために教科書が学課の中心になる。馬鹿げている。本末転倒である。このことに疑問を感じないようでは、それだけで人を指導する資格はない。
教育で重要なのは、フィードバックである。つまり、子供の興味や疑問に速やかに反応してやる事である。それが、子供達の健全な問題意識を、育成するのに、必要なことである。しかし、今の教科書では、フィードバックができない。なぜなら、教科書を作成するための理念が違うからである。
教科書は、補助的な道具に過ぎない。
何が書いてあるかが大切なのではなく、何を教えるかが大切なのである。教科書は、教えるための道具にすぎない。
学校では、解答は、常にあらかじめ用意されている。次の中から、答えを選びなさいだ。しかし、現実の世界では、解答は、自分で見つけだすか、作り出す以外にない。
現実の世界では、教科書にない事、教えられていない事が重要なのだ。
受験や偏差値社会では、与えられた問題を解くだけ。必然的に与えられた問題しか解くことができない人間を大量に生み出すことになる。しかし、現実には、与えられた問題などほとんどない。問題は、自分で見いだすか、作り出すものである。
子供達は、教科書の中だけの狭い世界によって歪んだ世界観を植え付けられ、役に立たない知識や技術を与えられ、何の価値観も持たないまま、現実の世界に放り出されることになる。子供達が無軌道になるのは、当たり前なのである。若者が、無軌道な生き方をする原因を、学校が、作っているのである。
現行の教科書に書かれているのは、ダイジェストである。しかし、実際の学問にダイジェストはない。学問は、もともと個性的なものであり、主張である。芸術作品をダイジェスト化したら、その瞬間から芸術作品の本質は失われる。それは、別物である。ならば、教科書とは何か。それは、標準化、一般化、要約化されればされるほど、本来の学問から離れていくものである。
元々、学問とは、理論のの複合体、集合体である。全ての理論を網羅するか、一つの理論を突き詰めるかしないと、学問の本質は失われてしまう。その意味で、個々の理論を要約して寄せ集めた教科書は、学問の本質を最初から喪失している。
この様な教科書、絶対視するのは、滑稽でもあり、危険でもある。元々、教科書は、理念としての統一性を欠いているのである。ただ、一つの学問として教えるために、便宜的にまとめているにすぎない。
あくまでも、教科書は補助的なものであり、判断は、生徒の側にゆだねなければならない。しかし、それでは、学校が困る。試験ができなくなるからである。ここでも本末の転倒が起こっている。そして、目的が見失われている。試験のために学校があるのではなく。子供を一人前の社会人に育てることが、目的なのである。
義務教育の根本は、国家観である。義務教育は、国民の権利であると同時に義務である。故に、義務教育は、国家理念によって構築されるべきものである。だから、教科書を公的な機関で管理するのは、当然である。
問題なのは、教科書は、どのような基準で、どのようにして、誰が、選ぶのか。民主主義は、教科書を選択する主体や手続きを最も重んじているのである。民主主義は、手続きの思想といわれる由縁がそこにある。
ならば、教育の主権は、どこにあるのかである。教育の主権は、受ける側にある。つまり、本来ならば、生徒である。ところが、成人前の生徒には、参政権が与えられていない。故に、教育の主権は、生徒の保護者がこれを代行するのが筋である。それが民主主義である。故に、教科書を選ぶ権利は、保護者に基本的にある。
現行の教育制度で問題なのは、主権者の意志を無視していることである。教科書を管理するにしても、生徒や保護者の意志をもっと尊重すべきなのである。
教育とは、文化である。それ故に、本来の教科書は、名作といわれるような小説であり、歴史書なのだろう。しかし、現在の教育の現場では、これらのものは、否定されている。結局、現行の教育は、文化的なものではなく、野蛮なものだ。教育に携わる者、自らがそう望んで、そうしてしまったのである。
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