教育について


教育者

 偉大な聖人や哲学者、キリスト、ブッタ、ムハンマド、孔子、ソクラテス、プラトン、アリストテレスは、皆、偉大な教師だった。指導者という言葉は、教育者という意味も含んでいる。彼らが教え伝えようとしたのは、何だったのか。それは、人生についてである。そして、彼らが教え伝えようとした部分が、すっぽり抜け落ちているのが、現行の教育なのである。

 人生は、出会いによって決まると言っても過言ではない。なかでも、良き師に巡り会えるかどうかは、その人の一生を左右する。だからこそ、今でも、結婚式には、恩師を招く風習があるのである。そして、恩師という言葉の意味もそこにあるのである。それだけ、教育者に与えられた責任は、重いのである。

 かつて、勉学の根本は、師を選ぶことであった。志を立てた者は、人生の師を求めて遍歴の旅に出た。ある意味で、よき師を見つけることが、学問、修行の始まりだったのである。

 教師に必要なのは、理想と情熱、そして何よりも子供達に対する、愛情である。ところが、現代の教育者は、教育者としての自覚、目標が、判然としていない人が多い。でもしか教師に代表されるように、教育者としての理想や情熱を、最初から持たない教師が増えているのである。ではどのような、人が教育者、教師といえるのであろうか。人生の師と仰ぐ事のできる人こそ、真の教育者である。つまり、人間いかにあるべきか、いかに生きるべきか、その方向を教えられる者こそ真の教育者である。
 
 人は一生のうちに、いくたびも挫折や失敗、失恋を味わう。そして、その都度、悩み苦しむ。人が教えを必要とするのは、その時なのだ。そういう時に、適切な助言、指導ができてこそ、真の教育者といえる。だからこそ、かつては、教師のことを聖職者と呼ぶこともあったのである。しかし、現行の教育制度では、教師にそのような役割も全く期待していない。むしろ、そういうことは、教育者の仕事、職務ではないのである。

 この一事をもっても現行の教育制度に教育とは、何かという視点が欠けているのが明らかである。

 この様な教育制度下では、教育者に人格を問うことはできない。今や、教師は職業だからである。教師を選ぶ基準に人格を測る物差しも仕組みもない。むしろ、思想・信条を問題にすることは、許されない。また、履歴も問題とされない。それを公表することさえできない。つまり、教わる側が、教師を選ぶことはできない。教師がどのような思想教育をしようと、それを、親が、知ることすらできない。ある意味で民間企業以上に、採用時点において、教育者の人格は問題とされない。
 特に、この傾向は、義務教育期間中は、強くなる。その証拠に義務教育以前の、幼稚園や保育園では、幼稚園や保育園の思想が重視され、個性的で、思想的な教育が多くなされている。

 教育者も親になればわかる。親の視点から見れば、いかに現行の教育が、危険で無意味であるかわかるはずである。

 子供達は、学校生活を通じて集団生活のルールや規律を学ぶ。そして、その中心に先生がいるのである。その先生の人格が、問われなくなった。どのような前歴を持っていても、どのような思想を持っていても、保護者は、それを問題にすることどころか、知ることもできないのである。

 師を選ぶ時代ではなくなった。というより、師を選ぶことができなくなったのである。これは、根本から教育思想が、変化したことを意味する。

 親の教育に望む事と、学校で教えている事が、大きくずれている場合が多い。それに対し、親が抗議することも許されない。子供を学校に質にとられているようなものだ。民主主義において、子供の養育責任のある親に、教育の主権があることは明白である。その親が著しく反社会的であるとか、当事者能力が欠如していると認められた場合を除いて、基本的に教育に対する主権は、教師や国家ではなく、親にある。

 どんな人間が、どのようにして、どのような事を、子供達に教えているのかを知る事は、保護者にとって当然の権利である。少なくとも、民主主義国においては、基本的な権利である。その権利が、守られていない。この問題と思想、信条の自由とは、別の問題である。しかも、学校の先生は、自分の教室内において絶対的な権力を与えられる。問題は、このことに、学校も保護者も無自覚なことである。

 親の意志に反した事や、親が、望まない事を、自分の子供に教えられたとしても、親は、文句一つ言うことさえ許されない。子供の名誉や意志が踏みにじられたとしても、知る事もできない。しかも、教育者は、教室の中では、絶対者である。この様な権力をいったい誰が、何を根拠にして与えたのであろう。

 その根本にあるのは、現行の試験制度である。

 与えられた問題と作られた答えが、絶対的なものである世界では、問題を与え、答えを作る者が、絶対的な権力を持つことになる。それが、学校の権威の源である。そして、それが実際に行われる時、試験を採点し、内申書をつけるものは、絶対的な権力を持つことになる。しかも、この権威や権力を監視することは、現行の教育制度では、誰にもできない。

 先生は、教室の中では絶対である。この様な絶対的な権威を握った時、人は、独裁者になる危険性を孕む。教師は、自分の教室の中では、当人が望む、望まないに関わらず、独裁者に変貌する可能性が、あるのである。
 このことの是非を論ずる前に、このことの意味するところを、正しく認識することが先決なのである。

 この様な、絶対的な力を持って、子供達の未来に、確実な影響を与える教育者の採用に関し、なぜ、保護者は、関与することができないのであろうか。教育の主権は、子供と子供の保護者にあるのである。これは、教育を義務としている民主主義国においては、基本的な権利である。

 教師を監督できるのは、保護者だけである。なぜならば、保護者は、大切な自分たちの教育を委ねるのであるから。しかも、義務教育の場合、教育を受けるか否かの選択肢は、保護者には与えられていないのである。教師を監督する権利と義務が、保護者に必然的にあるのである。

 教師に必要なのは、理想と情熱、そして何よりも子供達に対する、愛情である。こうした理想や情熱、愛情を現場の教師達が持ち続けることができるであろうか。教育者の多くが、理想や情熱を失いつつある。それが、現行教育の危機を象徴している。

 理想や情熱、そして、愛情を支えるのは、志である。最初からないのでは、理想も、情熱も、愛情も持ちようがない。

 教育者から理想や情熱が失われていく遠因は、教育現場の孤立化にある。
 教育者にとって一番大切なのは、保護者の理解と支持である。つまり、教育者は、保護者から選ばれ、保護者を代理する者でなければならない。教師が、学校の中では親の代わりをするのである。そのような立場におかれた教師が、保護者から理解と支持を受けられなくなれば、瞬く間のうちに、理想と情熱を失うだろう。
 教育者と保護者は、志を同じくしなければならない。だからこそ、保護者と教育者との間の志の違いは、速やかに解消されなければならないのである。そのためには、子供達の未来や可能性について、親たちと絶えず意見を交換し、お互いの理解を深めるように努力しなければならない。

 保護者の理解と支持を、得るためには、教育者は、何よりも常識人であるべきだ。なぜなら、学校は、社会に出るための準備をするところだからである。問題なのは、教育者が社会から隔絶し、世の中の動きに取り残されることである。

 教師は、もっと教育について、保護者や地域住民と話し合うべきである。それによって、一般社会との接点を増やし、一般常識を身につけるべきである。

 教育で重要なのは、仕組みである。仕組みがしっかりしていれば、試験にしても、教師にしても、それぞれ、与えられた役割を果たすことができる。

 教育者を、誰が、選ぶのか、問題は、その仕組みである。民主主義では、教育者を選ぶ仕組みと手続きが、重要なのである。

 民主主義的な教育を実現するためには、保護者を何らかの形で、学校の運営や教育者の人事に関与させなければならない。確かに、いろいろな問題が派生するであろうが、民主主義とは、そういう思想なのである。それが嫌ならば、民主主義体制を覆さなければならない。

 今の学校では、教える人間の意志も尊重されない。教えたいことを教えるためには、障害が多すぎる。本来は、保護者の理解と支持が、得られればそれだけでいいはずなのに、いろいろなところから圧力がかかる。結局、自分の生活を守るためには、妥協しなければならなくなる。いっそ、学校も市場の原理に任せた方がいいかもしれない。
 先生も、教科書も、カリキュラムも利用者、すなわち、保護者に任せてしまうのだ。そして結果に対しては、それを選択した者が全て負う。

 少なくとも、保護者が、教育者を選ぶ権利と忌避する権利だけは、認めるべきだ。

 教育の主役は、子供である。教育者は、子供の中にある可能性をのばすことが役目である。
 人を教えることの喜びは、子供の中に眠る、才能を見つけだし、それを花、開かせた時である。それは、草花を育てるのににている。種をたたいても、根はでない。芽を引っ張っても、葉は、茂らないのである。
 子供の才能は、子供の中にあるのである。才能を伸ばすのは、その子自身である。教育者は、それを手助けするだけなのである。それを忘れ、子供を自分の思い通りにしようと
すれば、教育は、挫折する。

 教育は、子供の能力を認めることから始めなければならない。小学生でも先生より優秀な子はいくらでもいる。子供の力を認識する事から始めなければならない。子供の潜在的な能力を、認める能力がある者が優れた教育者なのである。
 つまり、自分より優れた子供を見出すことである。子供を服従させ、支配することは、教育の目的に反する。子供を隷属させ、主体性を崩壊させるのは、教育的には、敗北である。

 そのためには、子供の話を忍耐強く聞き、子供を観察することが、教師が、まずやらなければならないことである。

 教えるという事は、学ぶことである。だから、教育者は、まず自らが、生徒から学ばなければならない。それが、人を育てることである。人を採点したり、序列をつけ、選別することではない。それは、二義的なことである。
 一番、大切なことは、人に自信と誇りをあたえ、生きる希望と勇気を持たせることなのである。そして、自分の未来と可能性を信じさせることである。だから、人を教育するのは、すばらしいことなのである。

 人を教育するというのは、寛容でなければならない。人を認め、受け入れなければならない。人を教育するためには、人を受け入れなければならないからである。人が好きでなければ、教育はできない。そして、観察眼が、優れていなければならない。
 自分の考えや主張を相手に押し付けるのではなく、相手の才能を最大限に認める。こう考えると、人格者でなければ、教育者はつとまらないかもしれない。


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