教育の理想を求めて

責任という事


責任を取らされる側から責任をとる側に回る必要がある。
責任をとるというのは、責任を持つ事であり、責任をとるためには、責任を持てるような状態にする必要がある。責任が持てないなら、最初から引き受けない方がいい。

これは親になる事に通じる。親になるという事は、子に責任を持つことを意味する。自分の子に対して責任が持てないようなら親などにならない方がいい。つまりは、結婚なんかしない方がいい。責任を持つとはそういう事である。
まあ、だから結婚をしない人が増えているのかもしれない。親になる自信がないのである。

責任を持つ覚悟できれば、どんな結果も受け入れる事が出来る。
責任を持つ為には覚悟が必要なのである。

自分が誰に対して責任を持たされているかに気が付いた時、自分は、誰によって生かされているかが見えてくる。
子供に対して親は責任を持たされるのは、子供によって親が生かされているからである。
指導者が責任を持たされるのは、その組織を構成する者たちによってその指導者は、生かされているのである。

だから、部分は全体のために、全体は部分のためにと言う関係が成り立つのである。
対立を前提としたら組織は成り立たない。

指導者と言うのは、自分の限界を認め、受け入れたものにしかなれない。
何でも自分一人でできる、他の人間が自分より劣っていると思っているうちは指導者にはなれない。なぜならば、指導者は、組織がなければ成り立たないからである。一人で何でもできたら組織はいらない。
組織は、人の集まりであり、人が助け合う事で成り立っている。助け合う必要がない人には組織はいらないのである。
逆に、二人で助け合う必要が出来たら例え二人でも組織になる言われている。

自分の限界を悟った時、人は学ぶ事を覚える。

一回聞いただけでは分からない。一回で指示されたこと全てを記憶する事はできない。全てにおいて仲間より優秀である必要はない。一人で全てができるのなら、組織はいらない。だから、聞いてわからない、覚えきれない、一人ではできない、他人より劣っているところがあるのは、恥ずかしい事ではないし、自分が一人ではできない、生きられない、限界があると悟った時、他人を受け入れ、社会の一員となれる。
ところが頑なにおのれの限界を認めようとしない者がいる。自分の限界を受け入れられないのは、劣等感の裏返しなのだ。この様な人は、往々に高学歴で有能な人に多い。

なぜ、指示の確認をされたり、また、趣旨説明を上司に代わってさせられるのか。上司はわかっているのにわざわざなぜそんな仕事をさせられるのか。
また、自分がやれば短時間に簡単にできる事、企画書を作ったり、報告書や稟議書を作らせたり、面倒くさい手続きをとらなければならないのか。それは、そういう作業や手続きを通じて自分たちがやろうとしている仕事の意義や指導者の考え方を組織に浸透させる必要があるからである。
指導者は自分一人が理解しているだけでは駄目だよ、自分の考えをいかに共同で仕事させる人達に浸透させるか。仕事の意義や目的を理解する事よりも、共同で仕事をする者たちに理解させる方が難しく、労力がいる。しかし、それをするのが指導者である。


人は、強いところでつなぎ合っているわけではなく。弱いところで結びついているのだと私は思う。
自分の弱さを見せまいと、自分の弱さを受け入れられない者にとって組織や社会、要するに、人間の集団は、苦痛以外の何ものでもない。
自分の弱さをさらけ出し、各々の弱点を補い合い、助け合うから組織は成り立つ。
だから、会社の根源は、共鳴共感だと思う。共鳴共感しあう事で信頼関係を作る。その時、人は、自分の弱さをさらけ出す事が出来る。
指導者は弱いものだとつくづく思う。でも、その弱さこそ強さなるのだとも思う。
皆は、責任を取らされるのではなくて責任をとる側に回らなければならないよ。
責任をとるというのは、責任を持つという事で、責任が持てるようにする事だよね。
じゃあ誰にたいして責任を持たされているのか。
そう考えると自分が誰に生かされているかに気が付く。
親は、子に責任を持たされる。だから、親は子によって生かされている。
僕だって皆に生かされている。
皆を見ていると弱みを見せたくないと一人で頑張りすぎていると思うよ。
もっと仲間を部下を上司を信じて自分の弱さをさらけ出していかないとね。
だから、一人で頑張らないで、リーダーこそ一人では何もできないのだから…。
人は、自分の限界や弱点を受け入れた時、社会の一員にもなれ、指導者になる資格も得る事が出来る。
部下に自分の背中を見せられるようになれよ。背中は自分にとって死角だからね。
自分一人では何もできないと悟った時、リーダーになれるんだからね。
自分の弱さをさらけ出せる場所になった時、組織は安心できる場所になる。
今の世の中は、不寛容なんだよ。
何でも許してくれているようで、実は何も許し合っていない。だから、皆一人で頑張りすぎる。
自分の弱点を受け入れた時、相手の長所も見えてくるよ。相手の長所が見えないというのは、自分に対して優しくないんだよね。
自分が許せない。だから相手も許せなくなるんだよ。自分の弱さを直視する事だね。
部下の弱点や短所をあげへつらっているだけでは、仕事は始まらないからね。
部下がわからない。できないというのは当然な事だからな。ただ、実際にできるかどうかは、やらせてみないと解らないし、やってみないと解らない。
よく聞き、よく見る事だよ。
部下の弱さをどう補い指導していくかそれがリーダーに求められている事なのだから…。部下を責めているだけでは問題は解決できない。
直せない欠点を指摘しても相手を傷つけるだけで、何の役にも立たない。
直せない欠点こそ、助けなければならない点だからね。
リーダーこそ自分の欠点を受け入れないとね。
相手を必要とするから、相手からも必要とされる。相手を必要としなければ相手からも必要とされない。

相手を必要だと思うから、相手も自分を必要だと思う。
相手を必要だと思わなければ相手も自分を必要だと思わない。
助けてくれと素直に言えよ。
弱さが問題なのではない。自分の弱さを認めないのが問題なのだ。
素直に頭を下げて自分一人ではできません。皆の助けが必要なんだと伝えろよ。
俺なんかしみじみ思うよ。皆の助けがなければ一日たりともこの会社をやっていく事はできない。
本当に皆が必要なんだと。
忘れるなよ。俺は皆を必要としている。だから、厳しくするんじゃあないか。どうでもよければ適当に付き合うよ。

リーダーは、一人。なぜならば意思統一をするためには、決定は一つでなければならないからだ。二人でも部下がいたら、二人の考え方全てにリーダーは合わせる事はできない。全てにおいて部下の意見が一致する事は不可能だからだ。だから、部下がリーダーに合わせる。だからリーダーが決断したら、リーダーに合わせろ。合わせさせろ。
判断を下すうえでの基準はリーダーに合わせる。
不決断は、最大の誤判断。部下は、リーダーの決断を待っている。


克己復礼。
自分の敵は、自分だと思え。自分の成長を阻んでいるのは、自分の頑迷さと傲慢さ、そして、根拠なき自尊心である。頑迷や傲慢、根拠なき自尊心と劣等感は、表裏の関係にある。
頑迷さは、自分の弱さや弱点を認めようとしない事の裏返しである。
それでも、頑迷さや傲慢さは、若いうちは、先輩や親、兄弟によって抑えられているが歳をとると抑える者が居なくなると自制できなくなり手が負えなくなる。


男と女の決定的違いは、肉体的な差にある。
肉体的差によって男は、常に、責任をとる側の存在であり、女は、責任を取らされる側の存在だという事である。
子供を作る時、男は、決断しなければならない。女は、自分の意志に反しても子供を作られてしまう事がある。
だから、男は、子供に対して責任をとる覚悟が本来なければならない。男は、子供に対して常に能動的であり、女性は受動的にならざるを得ない。
だから、プロポーズは男の側からする者と言う不文律があった。
この事を我々の世代は、子供の頃から植え付けられてきた。男は、女性を守り、子供育てなければならない。
ところが今は、違う。決断も覚悟もなく、ただ欲望や成り行きに任せて女性と関係を持ち。自分の行動に責任を持とうとしない。
そして、それを美徳とさえする風潮がある。
これでは責任感など育ちようがない。

我々は、男は責任をとれ、責任を持てと躾けられ、我々も責任を持ちます。責任を取らせてくださいと応じてきました。
親父達の世代の映画やドラマ、小説は、男女が同じ部屋に泊まっても何事もない。そんなことを言われるのは心外だという前提でつくせれています。それに対して、我々の世代は、男と女が同じ部屋に泊まったら何もないはずがないという前提に変わっています。それは、我々の世代の行状を見れば致し方ない事ですが、恥ずべき事です。
我々は、どんな些細な仕事でも、また、人から指図された仕事でも自分で決めた事だと覚悟しろ。さもないと責任をもって仕事をやり通せないぞと躾けられてきました。
最近、男より女の方がしっかりしてきたのは、男より女の方が決断しなければならない局面が増えてきたからです。
女は、進学する時、就職する時、結婚する時、選択肢が多く決断しなければならない事が多く。結婚する時は、男より圧倒的に多くの事を捨ててこなければなりません。
子育てにあたっては、多くの事を責任とらされていく事になります。
今は、親になる覚悟もないままに子供を作る男女が増えてきました。子供が生まれてから、こんなはずではなかった悔やむから虐待や育児放棄が絶えないのです。



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