教育の理想を求めて
いかに次世代の指導者を育てるか
今の日本は、指導者を育てる為の仕組みがない。
自分で考え、状況を判断し、衆をまとめ、責任をもって任務を遂行する。非常時緊急時には、自分の身に換えても全体の安全を確保する。そんな強い使命感と信念を持った人材を育てようていう気概が社会にない。
だから指導者が育たない。植民地教育の極みである。
今の学校教育では、人を使うとか、動かすという事を罪悪の如く教える。自分も多分に後遺症がある。
自分でできる事は、自分でしろと躾ける。
それでは指導はできない。だから指導者は育たない。
なぜならば、組織は、一人では何もできない。自分一人できても、他の人が出来なければ、チームワークは取れないのである。自分だけがわかっていてもしようがない。自分の考えや思想をどうやってチームに浸透させ、共有化するかが肝心なのである。
自分一人、野球のルールがわかっていても野球はできない。チーム全体が一定のルールを理解してなければ、チームプレーはできない。一人でもルールを知らない者がいたらチームプレーは成り立たない。
また、野球が自分一人で来てもチームプレーはできない。九つの守備を分担してプレーしないと野球はできない。キャッチャーが二人いてもピッチャーがいなければ試合は成立しない。
ところが学校は、全員同じだと躾ける。
自分でできる事は、自分でやれと教える。
確かにできる者やわかっている者は、自分でやった方が確かだし、速い、楽である。
でもいつまでたっても一人仕事しかできない。
自分ができるからこそ、人にやらせ。自分がわかっているからこそ人の意見を聞くのである。
人を使えなければ、人を指導する事が出来ない。
だから、学校の先生の指導力が低下するのである。
違いを認めなかったり、上下関係を否定されたら組織は成り立たなくなる。強制は悪い言われたら組織は、機能しなくなる。何故ならば、組織は、指示・命令で動くものである。
やってみないと解らない事は、やってみればわかる。
自分が何によって立っているかを忘れない。
言ったて始まらない事は言うな。例えば目の見えない人に見ろといったって始まらない。口のきけない人に話せというのはむごい事である。運転免許を持たないものに運転させるのは違法行為である
お互いに至らないところがあるから、助け合う必要がある。
実際の話、些細でどうでもいい事が障害になって意思決定が滞る事が度々発生する。それは、担当者は、些細でどうでもいい事で責任が問われることを回避したがるからである。一見些細でどうでもいい事こそ責任者が捌かなくてはならない。なにも自分で決める事はないが、誰が決めるかは指名してやらなければならない。責任者は常に自分が責任をとれるようにしておく必要がある。
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