教育の理想を求めて
形で考える
最近形で考えるという習慣がなくなりつつある。
これは、仕事をするうえで、深刻な影響をもたらしている。
団塊の世代が何でもかんでも形は悪い、形式が悪いと刷り込んだことにもよるが、それにしても仕事を段取る時、障害になっている。
かつては、課長や担当者クラスでもイメージを共有しなければ、チームワークはできないと解っていた。
だから、絵を描くとか、形を作るとか、学があろうとなかろうと当たり前に話していた。
しかし、今は、形と言っても通じない事が多い。
困ったものである。
仕事には、始まりと終わりがある。
仕事には過程があり、始まりがハッキリしなければ始まらない。始まらなければ何も達成できない。
それなのに、始まりは曖昧模糊として、つかみどころがない。
だから、先人たちは、出だし始まりを形式化してきたのである。
よく我々は、自分の仕事の形を早く作れと指導された。特に、始まりと終わりの形は大切だと…。
最初は、何事も曖昧としていて何もわからないのだから。
例え、わかりましたと返事をするにしても、何がわかったのかを自覚しておく事である。
解りましたと言ってもわかり方には幾通りにも形がある。例えば、困っているのがわかりました。指示された事がわかりました。どこが悪いのかわかりました。やらなければならない事がわかりました。言っている事がわかりました。主旨がわかりました。目的がわかりました。誰に言っているのかがわかりました。概要はわかりました。
部分的にわかったとしても全てがわかってわけではないし、大概は、肝心な事は理解されていない。
指示した側にしてみればわかりましたと言われても何がわかったのかは確認しようがない。
だから、わかったと言ったら、それを形で示し必要がある。例えば、指示された事を確認したり。内容を確認したり。作業計画や段取りをしたり。質問をしたりする事で形で示す。
そして、それを行動に現わす。それではじめてわかったという事が伝わる。これも形である。
形を示さなければ怒られる。これも形であるが、形がわからなければ、いつまでも相互のコミュニケーションが取れなくなる。
仕事は、指示に始まり、報告で終わる。これが形である。
大体、最初にわかりましたというのは、指示された事がわかりました程度である。詳細はペッと打ち合わせる必要がある。問題は、その形である。まずその場でやるか、時間をおいて場所を改めてするか。基本的には、時間と場所を変えるのが正式である。少し時間をおく事で指示された事を整理し、次に何をすべきなのかを考えてくる時間を作る。
会議をしろと指示された時は、会議を開けるようにしろと言うのが本来の意味である。
だから、会議を開くために必要な要件は何かを確認していく。その手順、段取りに幾つかの定石・定型がある。
会議をやるとか、資料を作っておけ、現状を調査しろと言われただけで会議が開けたり、資料が出来たり、現状が調査で来たら世話はない。
どうしたらいいかを指示さ入れた直後、最初に詰めておかなければ仕事は始まらない。
同じ指示でも、指示を受けたものや指示の仕方、受令者の環境、状況によって受け取り方が違ってくる。状況、環境によっては、受け取り方が正反対になる事もある。
最初に確認しないで放置していたら仕上がったものがバラバラで統制がとれなくなるのは、火を見るより明らかである。それで受令者を馬鹿の間抜けのと言ったところで始まらない。
我々は、最初に確認しなかったお前が悪いと帰って叱られた。
スタッフの仕事は、漏れなく、重複なく、全ての作業を洗い出し把握しておく必要がある。
だから形が大切なのである。仕事は形で覚える。
指示通りの仕事をしないと言っ部下を叱っている上司の多くは、一回言えばわかると思い違いをしている。我々は、指示しても指示通りの仕事はしない、できないものだと教えられてきた。だから、指示通りの仕事をしているかどうかを監視する、管理する必要がある。勝手に仕事をさせたら指示通りの仕事はできない。多くの場合、足りないか、余計なことまでしてくる。
その為には、支持者以上にスタッフが仕事の内容や指示者の意図を理解しておく必要がある。わかったつもりになるのが一番怖い。
理解は、仕事を通じてされる者であり、仕事もしないうちにわかったもないものである。我々は、それ自体わかっていないと叱られた。
指示命令書を出したから、報告書提出したから間違いなくできるとか、理解できるはずだというのは大きな間違いである。
文書で出すのは、複数の人間に指示を出し場合、受令者によって指示の内容が微妙に違ったり、勝手に解釈され、後で言った言わないといった揉め事が起こるのを防ぐ為であり、ある意味で形式である。手続きも形式である。
事務は、管理を形式化した事である。
兎に角、ボールを投げさせてみろ、竹刀を振らせてみろそうすればそいつの実力はある程度わかる。同じ様に、とにかく仕事をさせてみろそうすればそいつの実力はわかる。
その上でできる事からやらせろ。始めから無理させることはない。だからといって舐めてかかる事もない。
実力に合わせて仕事を組み立てればいい。それだけである。その先は、当人の自覚次第、努力次第。
自分に何ができて何ができないか、直視させる。自分から逃げている限り成長はしない。それも形。
車の運転を習うのと車を運転する目的は違う。運転の仕方を習っている時に自分はどういう目的で運転しているのかを延々と説明されても困る。かといって目的もなく運転するのも困る。
今自分は何をやっているのかを自覚する事なのである。
また、運転は、運転して覚える。ただ頭の中だけで理屈をこねくり回しても運転が上達するわけではない。
自分は、運転をする立場なのか、運転をさせる立場なのか。それをわきまえていないと相手に何を聞かれているのかわからない。会議の内容を聞かれているのか、会議の結論を聞かれているのか、会議の準備をどうするのか聞かれているのか。
我々は、指示された直後、指示した直後にどうすると聞かれた。これも形。
この時、内容を聞かれているのか。どうするのか聞かれているのか。誰に準備させるのか聞かれているのか。質問の仕方・形で理解する事を求められた。
同じ質問でも回数を重ねられることで変化する。
どうすると質問されて段取りを応え。どうすると聞かれて責任者と担当者を応え。どうすると聞かれて当座やることを言う。これも形。
仕事には、一日の始まりと終わり。週の始まりと終わり。月の始まりと終わり。季節の始まりと終わり。半期の始まりと終わり。一年の始まりと終わり。仕事の始まりと終わりがある。その時々の形が大切なのである。
仕事と言うのは、一本筋で進むものではない。
始まりには始まりの形、終わりには終わりの形がある。
物事を収めるには収める形がある。
仕事は、言葉で段取るものではない。というより、言葉では段取れない。
情報量が多すぎるし、言葉で説明できるものではない。また、言葉で説明しようとすると簡単な事も難しくなる。
だから、お互いに何らかの情景やイメージを共有するのである。
それが形である。特に、始めは、何もわからないし、漠然としていて言葉では表現のしようがないし、纏めようもない。
だから、目に見える形にして仲間に知らしめるのである。
だから、儀式をしたり、旗、指物で形を作ったのである。
それが嵩じて結婚式にもなり、葬式にもなった。
今は、結婚式も葬式も省略しようとする。
要するに形がなくなってきたのである。
昔は、どうやって形を整えるか。作るかを考えたんですね。
歴史は、形の作り方のオンパレードですよ。
宣戦布告の仕方、終戦の仕方。
今の戦は汚い。だからダラダラといつまでも終わらない。
人は美しく終わりたいのです。
切腹は究極の美学ですね。
争いごとをどうやって収めるか。どういう形で収めるか。
だから、歴史は美学ですね。
特に、日本人は、それを重んじた。
葬式だって、結婚式だって、綺麗か汚いかです。
葬式や結婚式に主旨目的なんて求めたところで何の意味もない。
結婚する意義なんて言葉で言ったところで虚しいだけですよね。
ただ、綺麗でいたいんです。
でも結婚式の形は、いろいろな意味がある。結婚式の形によって新郎新婦は出席者にいろいろな情報や意味を伝えているんです。
日本なんかだと最後に新婦の父親を泣かす。お決まりだというがそこに万感の思いが込められる。それが形なんです。
それが厭なら、厭と言う形を示す。
なんであんなに金かけて結婚式するのか、その意味が薄れてきた。
だから結婚式が虚しいものになってきてしまったんですね。
文化は、形が作ってきたから。
善悪だけが価値観ではない。真偽、美醜と言う価値観もある。
お前のいう事は正しいよ、でも汚いとか。
日本人とって義理人情なんて将に美学でしかない。
形でしか伝えられない世界がある。
本来、論理だって形なんですけれど、筋張ってしまって伝わらない。
主義主張、思想は、言葉だけでは相手に伝わりにくい事を多く含んでいるんですね。
特に一番コアとなる部分ですね。それは言葉では伝わりにくいし、強いてやれば、陳腐になる。
神聖なものは、神聖に、高貴なものは高貴に扱わないと誰も理解できないんですね。
だから、日本人は、秘伝にしたり、免許にしたりしたんですね。
ある一定のレベルに達した者にしか伝えない。
それも、伝え方に凝った事をした。形で伝えたんですね。
日本神道は空間ですね。それが茶道、華道を生んだのだと思います。
形式美ですね。厳かで神聖にさせる空間やシンボルをですね。使わないとコアの部分の本質が伝わらない。
十字架は雄弁なのです。
よく言われました。レーニンは、革命が起きた時、書斎に閉じこもったか。群衆の前に立ったかって。これも形ですね。
日本人にとって株主総会は形でしかない。だから内容より、綺麗にやりたい。汚い総会屋なんかに荒らされたくないんですね。議決よりも、手打ちが日本人の形。だから手打ちの会に過ぎない。皆、形式だと思っていますよ。実質なんて誰も望んでない。
それが日本人の形ですけど、外人にはわからない。当の日本人もわかっていない。
昔なら宗教儀式とか、集会とかですね。
今でもハーケンクロイツは使えないし、旭日旗に難癖もつけられる。
キリスト教の十字架やイスラムの目は多くのことを意味しているし、神道は結界によって空間的に何かを暗示している。
神前か人前かどうでもいいように思うますが、それが文化の本質を変えてしまっている。
怖い事です。
私たちは、仕事だけではなく。物事には形があると教えられてきたんですね。
そして、仕事に就くと早く自分の形を作れと言われたものです。
つまり、言葉では言い表せない事。
一日の始まりや仕事の始まりの形。会議や打ち合わせの形。報告する時の形。通知する時の形。決め形。決断する時の形。役割分担をする時の形。辞令任命の形ですね。責任の取り方。責任をとる時の形。指示、命令する時の形。連絡・相談する時の形。正式に謝る時の形。あいさつ。正月を迎える為の形。一日の形。一週間の形。一か月の形。シーズンの形。一年の形。冠婚葬祭の形。食事の形。リーダーシップの形。
こういうことを論理や言葉として理解するのではなく。形として覚える。基本的な形ですね。そして、それが美学になるのです。
形には、公の形もあれば、私の形もある。
礼節と言うのではなく。礼儀作法は、それを洗練して一体の社会やコミュニティが暗黙に共有している部分ですね。
ただ形と言うのは、コミュニティや組織内部で暗黙に共有し、企業や文化や仕来りみたいなものを構成しています。
暗黙にと言うのが味噌なんですけれど。
それを常識とか言う部分の大部分を閉めている場合があります。
形を読め。形を作れ。と言うのがチームワークの基本ですね。
軍で言えば陣形。スポーツでいえばフォーメーション、将棋や囲碁では定石ですね。
序盤の形、中盤の形、終盤の形。
段取りにも、組織にも、事務にも、資料にも、口の利き方や服装、姿勢、席次にも、管理にも、計画にも、式典や儀式、株主総会にも形がある。参拝にも形がある。この形を覚えておかないと段取りも準備もできないし、意思決定に支障をきたす。公の席にも出られない。かといって礼儀作法と言った形だけではなく。もっと非公式だけで暗黙に働いている不文律なんです。
これは何も非科学的でも古い事でもなく。
組織が上手くまとまらないといった場合、形が整っていない事が多いんですね。
形が作れない。形の作り方どころか、形そのものがわかっていない。
現在のAIやシステムの基本となる事ですね。だから、数式、図式とかアルゴリズム、プロトコルと言うのですが。
でも、我々の後輩は、頭から形を無意味な事として否定し、とにかく耳をふさいでいましたね。とにかく、三無主義世代は、形式を馬鹿にしていましたね。古いとか言って。
それが今深刻な問題を引き起こしている。
形が悪いんですよ。綺麗でない。でもそれを言ってもわからない。わからないですね。深刻ですよ。
現場とか、現業部分を担う連中は、理屈で仕事をしているわけではないから、形をよく呑み込んでいる。
逆に、屁理屈を捏ねるな。世の中理屈で動いているわけではないんだよと理屈を受け付けない。形も理屈もわからなくなったらお終いである。引き籠るしかない。
僕らは兎に角、形を作れ、形を読め、形を覚えろ、形で納めろ、形を整えろ。形が悪い。筋か悪いと躾けられてきました。
しかし、残念ながら、我々以下の連中、僕の仲間は形はうるさかったですけれど。
後輩たちは、形を受け付けなかったですね。どんなに教えてもはじめっから舐めていた。
だから、なぜ、組織を動かさせないのか、仕事がうまくいかないのかがわからない。
自分たちが軽視し、馬鹿にしてきた事が原因だとは認めがたいですからね。
例えば形には、五W一Hといった構成、構造があります。これらの事を一つ一つ指図していたら仕事にならない。言葉で説明する内容ではないですし。日時場所に特段の意味があるわけではない。無論、場所をどこにするかは、形が意味を持ちますが。それがわかっていない。
だから形の話ができないんですね。
今度、大切なお客様が来るからねと言えば形のわかる人は形で応えた。来る相手に応じて店を選んだり、土産物の算段をした。
でも、今の人手形の話ができる人がいない。はじめっから取り合わない。だから準備にかかれないし、段取りも組めない。チームも編成できない。
僕らは形で読む。会議や打ち合わせをすると言われたら。場所をどこに設定し、出席メンバーを誰にし、いつするか。それが持つ意味を形で読むですね。だから、形を間違うと舐められたと怒るんですが、間違えた側は、なぜ相手が怒っているかがわからない。辞め形になっている事も気が付かない。
しかし、わかる人間に形を話せば即座に反応する。
始末が悪い事にインテリ程形が通じない。
形を軽視する者は、形なんてどうでもいい些細な事じゃあないかと馬鹿にする。しかし、実際に仕事をしている者にとってどうでもいい些細な事が決められないのが問題なのである。どうでもいい些細なことだからこそ現場の担当者には決められない。どうでもいい些細な事で苦情を言われ、責任を問われたら堪らないからである。どうでもいい些細な事なら決めてくださいよと言うのが本音である。
しかし、こまごまとしたことまでいちいちその場て決めていたら手間がかかるし、その場に常に立ち会わなければならなくなる。だから形をあらかじめ作って、形で処理するようにするのである。この場合の形とは、暗黙の決め事である。
物事を変革しようとする者は、形から入れ。形を改めろ。形を変えろ。形を整えろと教えられた。
また、本音は形に表れる。言っている事と形として現れた事が違えば、大概は、本音は形として現れた方にある。自分がいっている事と表に現れた形が違い過ぎると必ずおかしくなると言われたものである。思想と組織(形)が違えば組織は分裂する。内部の者には、凄まじいストレスがかかる。
言葉遣いを変えれば性格が変わる。規律をよくしようとしたらまず服装をよくしろ。
この様な発想は、洋の東西を問わず語り継がれてきた。
今の日本は形が伝わらない。
我々は、仕事を段取り時は、先ず、ファイルを作れと教えられた。
ファイルの作り方は、仕事の構想を練ることである。
第一に、最初にファイルを作る目的は、ファイルを作る過程、完成させる過程が作業を現わしている。故に、ファイルによって進捗状況を管理する事が出来る。
つまり、ファイルを作る事は、仕事の段取りに結び付く。だから、最初にファイルの外枠を作れば、仕事の全体像が見えてくる。
第二に、ファイルは、作業や計画を見える化(実体化)する。ファイルは、仕事、組織の概要を整理した者であり、仕様を表している。
第三に、資料を作る工程が作業工程を現わしている。作業の工数を計算する下地となる。
第四に、ファイルは、頭の中を整理すると、同時に複数の人間に一つの構想を共有する為の決定的な手段になる。ファイルを共有する事で、チームは一つの計画を共有できるようになる。
第五に、記録を残す事で責任の所在が明らかにされる。
第六に、情報を一元化する事が出来る。
これも一つの形である。
ビジョンと言うのは、形ですね。典型的な形です。なぜなら、ビジョンこそ言葉では言い表せない。ビジョンは論理ではない。ですから美学なんですね。国には国の形があると思うんです。
では日本と言う国は何か、それは、論理では表現しきれない。だから、形で示す必要があるんです。
国家、国旗もそうですけれど、憲法もですね。
正月とか、節句とか、お雛様が意味する者とか、初詣が何を表しているのかですね。でもそんなことは、論理的に理解しようとしても無駄なんですね。
形で理解しないと・・・。十字架とか、仏とか。
そういう象徴的な物や行為、祭り、儀式ですね。日本人としてのアィデンティを高め、統一性を保っている。それを失えば日本人としての一体感もなくなる。
だから、敵対するそれを破壊しようとするんですね。
伝統とか仕来りとか歴史とか。
もっと原始的なものは、宗教ですね。
言われる通り形而上学です。
科学は、関数とうい形ですね。数学は形式なんです。
それを論理と言う狭い世界に押し込めようとするから、世界が見えてこない。
だから、その背後に存在する神も見えてこない。
自分で自分の目をふさいでいるんですね。
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2019.1.29 Keiichirou Koyano