準備ができない
下準備を生理的に嫌う
我々の次の世代は、下働きとか、下準備とか、下打ち合わせ、下工作、お膳立て、前処理の事、本当にできないというか、生理的に嫌っていますよね。
準備なんて言葉、最近聞かなくなったし、言葉にする事さえ嫌がられるようになってきました。とにかく、耳を塞いでしまうんですね。
最近は、全部、下準備が終わり、お膳立ては済んで、自分は言ってやるだけ食べるだけだと思い込んでいる人が増えてしまいました。
口は出すけど、自分では料理ができないという子たちですね。
この下準備とか、下働きとか、下打ち合わせ、お膳立ては、頭で理解するのではなく、経験的に覚えていくんですね。だから厄介なんです。
我々の世代までは、家でも、学校でも、仲間内でも、職場でも遊びや仕事を通じて躾けられてきました。子供の頃よく言われました。ちゃんと身につけておかないと社会に出た時困るからねって。こういうことを我々は常識として教えられたのです。
でも、今の人は、常識と言うと知識だと思い込んでいる。
でも、基本的に教わるのではなくて、見よう見まねで身につけたものですけれど、当時、教えてくれなんて言うとそんなもの教えられるか、人のふりを見て自分で覚える物だと正式には教えてもらえませんでしたけど…。
でも、実際には、いろいろな経験を積むなかで教えられてきました。だから、我々は、先輩や仲間に感謝し、恩を感じるのです。特に、親よりも仲間と先輩は厳しかったですね。
自分の事は、自分でやれって。いい加減な事するとすぐにやり直されたし、信用されなくなる。仲間外れにされるのは、厳しかったし、当時の大人の社会には、子供の世界に口を出すなという不文律があったから。自分の不行跡、失敗は、最期まで責任を取らされた。後始末なんて当然ですよ。
それが下準備も後始末も全部、周りの人がやってくれると思い込んでいる。
仕事場では今みたいに自動化されているわけではないから、全部、自分達で準備した。だから課長時代に、数人の部下を任されて仕事を仕切る事を覚えさせられた。兎に角、若いうちにある程度責任を持たせて仕事を覚えさせておかないと、責任ある立場に立ったつ時に困るからなと言われ続けてきました。
我々は、指示を受けたらすぐに皆集まってくれ。今こういう指示を受けたけどどうしようかと部下と相談する処から仕事は始まった。
今は、指示があっても直ぐに一人ひとりがパソコンに向かってチームで仕事をする事がなくなった。これでは全体としての統制がとれない。
段取りや大枠のための組織づくりは、縦線、横線を作った後、足下のスタッフ、事務局を使って段取りや枠組みを作っていく。そして、一人では準備はできない。これも経験的な事だから、とりあえず主旨目的がはっきりしたところで、じゃあどうしようかと相談を受ける。組織の基盤ができていないと準備にかかれないので、この下準備をするための仮の組織を作る。だから、どうしようかと相談をする。また、相談を受ける。この段階では何もわかっていないので、信頼のおける身内から話始めるのが基本なのである。
我々の後輩の頃からとにかくこの下準備と言うのを嫌う。ひとつは、そういう事の基本を躾けられてこなかったとし言う事と、集団行動、団体行動が嫌いだという事もある。
もう一つは、学園紛争、仲間割れの影響もあると思う。とにかく、政治的行動が嫌われ、結社を嫌がる様な風潮が蔓延し、三無主義の時代に突入した。
そして、受験戦争で家の手伝いもしなくなり、学校では、規律とか統制がうるさくなくなった。
そして、反権威、反権力、反体制の蔓延である。
下働きと言うのは、導入部分で何もわからないという段階でやらなければならないことを言っている。だから、意味のない形を作れと教えられた。それだけに、経験的に身につけるしかないのです。
例えば会議を開く事になったと言われたら。わかりました。どういう目的ですか。主催者は誰ですか。決まってますか。出席者はどれくらいですか。出席者の連絡はどうしたらいですか。日は決まっていますか。こちらで準備をすべきですか。予算はどれくらいですか。といった事を決めていかなければならないし、ほとんどの事は曖昧である事が多い。目的だって明確でない事がある。
それを段取っていくのが事務方であり、補佐役です。だから、まず事務方や補佐役を決めてどうするって相談から始めるのです。
それが、わからない。
どうするってそんなこと知ったことかって感情的になられると話もできないし、準備もできなくなる。何せ何も決まっていない状態でスタート切るのですが。
でも、三無主義の世代は、本当に生理的に嫌いますね。
自主性とか、個人の尊重とか、任せてくれたとかいって。
そいうい事ではないんです。任せられたって勝手にやっていい事ではないですし。自主性とか、個性という問題ではなくてチームの問題なんですから。まず筋道を造れ、筋を通せという事なんですけれど、共通してありますね。
自分がやるからいいじゃないかと思っている人がいるとしたら本音は一番困るんですね。なぜなら、組織って自分一人では、何もできない。社長だって自分の思い通りにはならない。それを理解しなければ、リーダーにはなれないのです。
上司を信頼し、部下を信頼し、同僚を信頼できる関係を先ず築く事です。
責任者は勘違いしてはならないのは、部下が上司ら求めるのは、決断であり、指示です。責任を取ってくれることです。
自主性を重んじるとか、相談だとかいって話の話にしてはならない。間違っても決断し、指示しなければ、責任がとれない。相談に乗るのはいいが最終的に決断するのは、責任者だという事を忘れてはならない。
何でもかんでも一人でやろうとする人は、一人では何もできないという事がわかっていない。そういう人は、自分だけがわかっていればいいとか。自分が理解すればいいと思い込んでいるが、そういう人に限っても自分がわかっていない事に気が付いていない。
干渉されるのは嫌だというのは、なお危険である。なぜなら、独善に陥るからである。
組織は、考えとか、目的とか、使命とかを共有していくところから形成されていく。考えや目的、使命は、チームワークをする事によってチームに浸透していくのであり、リーダーの考え、言葉だけで形成されるものではない。仕事を通じてわかり合っていく事なのである。
補足 よく上の人間は、細かい事に嘴を挟むなという事と、細かい事を処理してはならないとを混同している人がいる。
細かい事ほど、上が処理したり、決めてやらないと担当者は困る。
どうでもいい事は、上に決めさせろと言うのが原則で、細かい事ほど予め処置しておかないと担当が困るのである。
一番現場状況を理解しているのは現場の人間である。だから、細かい事には、極力介入しないで任せるのが原則であるが、どうでもいいようなこまごまとした事で現場迷う事があったら極力決めてやるのが鉄則である。
例えばランチで迷ったら上に決めさせろ。そんなことを担当に決めさせていたら文句が出た時、担当がかわいそうだ。最低でも、皆の見てる前でお前が決めろと指示をしておけば、担当は救われる。その点を勘違いするとこまごまとした事でトラブルが絶えない。
任せるのは構わないけど、誰も決められなければ責任者が決めろが鉄則なのである。
深刻な対立は、些細な事が原因である事が多いのである。
導入部分は、鬱陶しくて、面倒くさくて、煩わしくて、何にも分らない。だからトップに任せろが原則なのである。だから開会式や閉会式には、最高責任者が臨席をする。権威とは関係ない。あるとしたら権威の力を借りるという事である。
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