教育の理想を求めて

チームワーク



チームワークは、チームとワークによって構成されてる。まずチーム作りから入り次にワークを洗い出し、チームに振り分けていく。
組織も一種のシステムである。人によって構成されるシステムである。この事を理解できない人がかなりいる。システムであるから、最初に仕事の段取りや手順を設定しておく必要がある。そうしないと組織は正常に作動しない。

先ずチームワークの基礎はチームであるチーム作りからチームワークは始まる。
チームが出来たら、次はワークである。基本的にワークは、MECE、即ち、漏れなく、重複なく、全て洗い出す必要がある。
これが難しい。作業の洗い出しは最初の共同作業である。
かつては、役割分担をしたらすぐに其々の役割立場に応じて作業を洗い出した。.

この作業の洗い出しが出来なくなった。始めから仕事を段取って組み立てるのではなく。過去の仕事を踏襲するだけで仕事をこなしてきたからである。また、システム化も自分達で仕事を組み立てるのではなく、システムにお任せしてきた結果、仕事の仕組みがわからなくなったのである。
典型的なのは会計で、会計機に任せていた結果、仕分けや記帳と言った複式簿記の基本を理解している者がいなくなった。お陰で試算表も精算表も区別がつかない事になる。
AI化を怖れる以前の問題である。仕事の基本ができていないのである。

組織はシステムなのである。コンピュターがプログラムで動くように、システムもあらかじめ決められたルールや段取り、順序、手続きによって動いている。
故に、組織は、予め規則や手順・段取りを決めて周知しておく必要がある。これは、組織がシステムだからである。そして、組織は指示、命令で動く。また、組織は強制力を有する。独裁だとか、封建的と言う事とは次元が違う。組織は、チームワークで動いているからである。

チームは、リーダーとメンバーからなる。リーダーにはリーダーシップ、メンバーにはメンバーシップが求められる。それは何も差別だのパワーハラを意味しているわけではない。

チームにおいてリーダーの役割は大きい。チームはリーダーで決まると言っていい程である。戦後の日本では、リーダーと独裁者とを混同するように仕向けられてきた。学校でも、先生は、リーダーであってはならないというような間違った指導がされてきた。(意図的か、故意によるものかもしれない。)その為に指導者としての教育が疎かにされてきた。
先生ですら、リーダーシップを発揮してはならないような風潮がある。
その為に学級の統制や規律、秩序が失われた。なぜならばチームワークがとれないからである。これは社会に出て致命的となる。
現実に社会に適合できない人を増やしている。(占領軍の占領政策か?)

かつての日本企業も強烈な個性を持ったリーダーに率いられていた。
本田宗一郎、松下幸之助、出光佐三とむトップの名前を聞けば企業の事がわかった。トップと企業は一体だったのである。いまは、会社の名前を聞いてもトップの名前は思い浮かばない。トップのサラリーマン化したのである。トップがサラリーマン化するにつれて企業の個性も消えた。

戦後教育は、個性重視、主体性重視と言って見事に個性や主体性をなくした。

組織は、意思決定の連鎖であり、指示に始まり、報告に終わる。この筋が重要となる。
チームは、決定者は一人、指示する者も一人、そして、その他の者は、決定してはならない。指示してはならない。
指示、命令は、強制権があって初めて効力を発揮する。強制権には、軽重は別に罰則がなければならない。指示・命令は守られなければ意味がないからである。
それが規律であり、秩序である。強制力のない法はない。

リーダーとメンバーは、表裏の関係にある。
担当者の立場が長い者は、決めてはならないと長い間躾けられている。指示してもならないとも叩き込まれている。だから担当者の仕事が長くなると決められない。指示待ち。指示がなければ何もできない。誰かが決めてくれなければ何も決められないというようになる。

ママがいなければ何もできない子供のようなものである。

組織のトップ層は、方針を示し、部門長は、大項目、中項目と租借し、担当長は作業に噛み砕いて担当者に指示する。
実行されてはじめて組織は効力を発揮する。どんなにいい考えでも実行されなければ意味がない。意味がないどころか弊害にすらなる。話すだけならば誰でもできる。実行されてはじめて成果が問われる。話すだけで何もしないのは卑怯である。組織に評論家はいらないと言われる由縁である。

かつては、トップの名前を聞けば会社が思い浮かんだ。
次に重役の時代となり、部長の時代になり、課長の時代になり、そして、今、担当者の時代となった。リーダーが不在どころか、組織は烏合の衆となった。
纏まりも、規律も、統制もない。ただの集団、群衆に過ぎない。組織は群集心理で動いている。

最近、チームワークの本当の意味を理解している人がいなくなった。
団塊世代が現役を去って引退した。

団塊の世代は、層が厚く、リーダーの立場を長く独占してきた。
かつては、30代で課長、部長といった管理職になれたのに、いつの間にか万年課長、万年平。
そうなるリーダー的な立場に立たされるのは、50代半ば、そうなるとゴールの定年退職が見えてくる。

我々が若い頃はなるべく早く責任ある立場を任せて、経験させろと言われたものだ。そうしないといつまでも奴働き、仕事を束ねたり、組織を仕切る事が出来なくなるぞと教えられた。
現実に、気が付いてみれば、仕事を束ねたり、仕切る事のできるものがいなくなってしまった。

組織には役割があり立場がある。組織的な仕事を覚えれば、自然に、役割や立場に応じた仕事ができるようになる。
しかし、長い事使いぱしりをやらされていると人を使う事が出来ない。何でもかんでも自分でやってしまう。それがいい事だとも思いこんでいる。人を使うなんて悪い事だと思い込むのである。

これは仲良しクラブ、友達の間では通じるかもしれないが、社会に出たら通用しない。

野球でも、監督は監督、選手は選手、審判は審判、応援は応援と立ち位置も居場所も決められている。
試合開始時に所定の位置にいなければ試合は始まらない。審判が決められた位置で決められたように宣言をしないと試合は始まらない。
監督は、試合中、勝手にフィールド内をうろついてはいけないし、打者は試合が始まったらバッターボックスにいなければならない。

選手も、監督も、審判も最低限のルールはマスターしていなければならないし、少なくともルールに従うのを当然だと思っている必要がある。

試合が始まってから打順を決めるのでもなければ、守備位置はあらかじめ決めておく必要がある。

それすら今の学校や親は封建的だの、強権的だと言い出しかねない。決められ堕時間内、先生の許可なく歩き回ったり、私語をしてはならない。こんなことも強権的だという。こうなったら教育なんて成り立たない。

社会にとってチームは必要であるし、チームワークを身につけていなければ社会生活は送れないのである。


チームワークを学ぶ
リーダーシップ
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チームワークとは自分をさらけ出す事
先生は指導者
チームワーク

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