教育の理想を求めて

セクハラやパワハラ


最近、セクハラやパワハラが、盛んに問題となっている。
ただ、セクハラやパワハラが物事の本質を離れて言葉狩りのような様相を呈し始めているのを危惧する。

セクハラやパワハラは、言葉より文脈の問題である。個々の言葉を捉えてやれセクハラだパワハラだというのは、危険である。むろん、明らかに差別や侮蔑的な言葉は別である。

ただ、センセーショナルな事ばかりが注目されてセクハラやパワハラの背後にある本質が失われつつあるのではないかと恐れているのである。

例えば、お前と言うのは、パワハラだという者がいるが、俺、お前と言うようにお前と言うのは、信頼関係を表す言葉でもある。お前と言う言葉は、パワハラだから使ってはいけないというのは、日本の文化を否定する事にもなりかねない。余程その方がパワハラよりも危険である。

人を育成するというためには、厳しさも必要である。ただ、その厳しさも受け取り方によっては、パワハラになる。

子供の頃、父母に厳しく躾けられた。しかし、躾けと虐待は、紙一重である。一歩間違うと、躾は、虐待となる。虐待をした親の言い訳に躾をしていたというのは常套句である。
何を躾とし、何を虐待とするかは、当事者間の認識によって大きく変わってしまう。

人を育てようとしたら、臆病になっていられない。なぜならば、その人その人の能力をギリギリまで引き出そうとするからである。ところが、厳しさは、いじめや虐待に通じるところがあるから厄介なのである。
厳しさと言えば、仏道修行にも言える。修業とは厳しいものである。言葉尻に囚われたら修行などできない。

セクハラやパワハラの背後には、女性差別や強権性が潜んでいる。そして、それが本来の問題なのである。
それこそ子供を十時間以上も劣悪な労働環境で働かせたり、暴力的に労働を強制したり、女性だからと言って不当な扱いをしたり。
実際、現在でも有能な女性が女性だというだけで不当な評価をされている礼は沢山ある。
男尊女卑の風潮はなかなか改まらない。私も、男であるから全く男尊女卑的な事がないとは言い切れない。言葉つきは慇懃丁重でも本心は、男尊女卑な者はいくらでもいる。慇懃無礼なのである。
だからこそ、言葉の問題に矮小化してはいけないのである。セクハラはそれ以前の問題でもある。

男女同権とセクハラは同根ではあるが別次元の問題である。その点を見誤るべきではない。

今のセクハラ、パワハラで何が欠けているかと言うと哲学である。
何をパワハラとするか、セクハラとするかは哲学の問題である。そして、礼節の問題でもある。
礼の根本は仁である。礼を形式的にとらえるのは、パワハラやセクハラを言葉の問題に置き換えるのと同じ発想である。礼は、相手を思いやる気持ちがあってはじめて成り立つ。礼の本質は、形ではなく、気持である。

セクハラもパワハラも行きつくところは、礼節の問題である。女性に対する礼節、部下に対する礼節を失えば、セクハラやパワハラになるのである。

根本の精神を忘れたらパワハラもセクハラも本質が見えなくなる。


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