教育の理想を求めて
サラリーマン
サラリーマンというのは、基本的に事なかれ主義で日和見主義である。自分の給料異常の仕事は、しようとしないし、元々、できないと思っている。
サラリーマンが自分の給料以上の仕事をする時は、別の動機が働いている時である。
サラリーマンの典型は、お役人である。お役人仕事というのは、それこそ、何千年もの前、組織の形が出来上がったころから言われてきた。ある意味で組織の宿痾ともいえる。
先生もまたサラリーマンである。サラリーマンどころか自分たちを労働者だとすら規定している。これは私が言っているわけではない。先生自体が自分たちは労働者なのだと言っているのである。
しかも多くの先生は公務員、つまり、お役人でもある。
サラーマンというのは、一定の賃金が保証されている。定年退職もある。今でこそリストラとか、解雇なんて当たり前になりつつあるが、高度成長時代は、簡単に解雇できたわけではない。また、定年退職があり、退職金ももらえる。ある程度勤め上げれば、年金だってもらえる。
これがお役人になるともっと凄い。お役人は身分保障されている。犯罪でも犯さない限り、解雇されない。むろん定年はあるが、定年まで勤めれば退職金がもらえる。昇進も欲を出せばきりがないが、適当に仕事をしていればある程度は保証されている。
先生は、更に、身分保障がある。役職に階級があるわけではなく。管理職と言っても部下を解雇したり、降格する権限はない。要は、管理職と言っても指導、監督の権限しかない。教え方が下手だからと言って降格させられるわけではない。
かつて、痴漢や生徒に対する猥褻行為で問題になった教師が別の学校に転校されて自体が隠蔽されていたことが発覚して問題になった事がある。しかし、それは問題となるだけで当人が辞表でも出さない限り辞めさせることはできない。
テレビで熱血先生のドラマが流行ったが、今時、下手な正義感に駆られて自分の考えなど生徒に押し付けようものなら、反対に生徒に反発を食らい、果ては、PTAからつるし上げられて学校にいられなくなるのがオチである。
教育熱心な先生程ノイローゼや鬱に陥りやすい。
先日も先生が生徒から一方的に暴力を受け、他の生徒から囃し立てられ、嘲笑されている動画がラインに流されて社会問題になっていたがあんなものは氷山の一角に過ぎない。
ある意味で先生の立場というのは、社会的に認められていないのである。
自分たちは、ただの労働者だと卑下した責任はあるとはいえ、それを容認している社会にも問題がある。
こうなると、事なかれ主義、日和見主義に先生が陥るのも保身のためいたしかたないのかもしれない。
なるべく目立たないように管理職にもならず、無事勤めあげれば老後は保証されている。
こうなると、段々、事なかれ主義、日和見主義に陥るのは、当然の成り行きである。
先生でなくともサラリーマンは、事なかれ主義で日和見主義である。
サラーマンが自分のサラリー以上の仕事をするとしたら別の動機があると言った。
かつて黒澤明の映画に「生きる」という作品があった。しがない役人が自分ががんで余命が短いと宣告されてから、生き甲斐を求めて自分の給料以上の仕事をやり遂げるという物語である。
サラリーマンが自分の給料以上の仕事をするとしたら、それは、仕事に自分が生きている事の意義を見出した時だけだ。
ただ、大多数のサラリーマンは、自分の仕事に生きる事の意義を見いだせずに死んでいく。
だから、サラリーマンは、事なかれ主義で、日和見主義的生き方が習い性になってしまうのである。
「生きる」という作品の中でも主人公の葬儀の時に同僚が一時的に奮起するシーンがあるが、それも日がたつといつもの状態に戻ってしまうところで終わっている。
教育は、教育者の思想そのものである。教育は、教えるものの思想によってきまる。教育者が日和見主義、事なかれ主義に陥れば、教わる側も事なかれ主義、日和見主義に染まっていくのである。
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