教育の理想を求めて

チーム・リーダーとして


おはようございます。

リーダーというのは、つくづく不思議な存在だと思います。
リーダーは、自分一人では何もできない。でも、最期は自分一人の意志で従えなければならない。
だから、皆の受け入れなければリーダーにはなれない。しかし、自分の考えで統一しなければ、全体は保てません。リーダとしての責務は果たせないのです。
リーダに求められる事は、常に、矛盾しています。

リーダーは己の限界を知り、皆の力を借りなければなりません。部下の助けがなければ組織を維持する事はできないのです。だから、自分の弱さ、欠点を直視しなければリーダーにはなれません。
しかし、リーダーは、一人です。そして、一人で決断しなければなりません。部下は、リーダーに強さしか求めません。部下は、窮地でリーダーの弱さを見せられることを望みません。

いつも自分は一人でしたが孤独を感じた事があのません。それは部下がいたからです。部下を信じたからです。
部下が信じられるかと聞かれたら、信じられるものかと答える。信じられるかられないかの問題ではない。信じるのであり、それは意志の問題である。
リーダーは、最期は一人になる覚悟なければ務まりませんが、でも最後まで皆を信じていなければまた務まりません。

安倍さんも小池さんも前原さんもリーダーとはどんな存在か、組織はどのような原理で動いているかがわかっていない。

自分が決断したら部下は黙ってついてくるなんて思うのは、大間違いである。部下も人の子、考えも、感情もあるし、柵(しがらみ)もあるのです。だからといって皆の顔色を窺っていたら何もできなくなる。組織には、組織として通しべき筋、名分、礼節、手続きがあるのです。いかに部下を納得させるかもリーダーの責務です。
日本人流に言えば、リーダーは、常に、義理と人情の板挟みに苦しめられます。
孔明は、泣いて馬謖を斬りました。馬謖を斬らねば泣くこともないでしょう。
しかし、斬りもできず、泣きもしない者はリーダーにはなれないのです。

組織を構成する者は一人ひとり考えが違う。
所詮組織は人の集まりなのです。人の気持ちが理解できなければ組織は統御できません。しかし、同時に組織は、リーダーの考え方で統制しなければなりません。
リーダーが皆の考えに合わせる事はできないが、皆は、リーダーの考えに合わせる事はできる。だから、リーダーの決定に従わせるのです。
リーダーは、自分の決定に皆を従えるためには、自分の考えをよくよく説明しておかなければならない。そうでなければ、皆はリーダーに合わせる事が出来なくなるからです。
リーダーは自分一人合点がいっても仕方がない。よく先輩に言われました。自分ひとり理解しているだけでは駄目だぞ。自分一人だけわかっていたらかえって手前勝手なる。全員に理解させるのがリーダーの役割なのだからと…。

リーダーは、多くの人間、特に、部下の意見を聞いて判断し、自分一人で決断し、指示・命令を出す。
他人の意見を聞かずに判断するのは独断です。しかし、最後の決断は、リーダーが一人でするのです。不決断は、最大の誤判断です。

リーダーは、事前に決断し、指示しなければならない。結果が出てからでは遅い。結果が出てから後付けで批判したり、理由をつける事は容易い事です。しかし、それはリーダーとしては無責任です。部下が望んでいるのは、決断であって、評論や批判ではない。間違っても決断するリーダーの方が何も決断できないリーダーよりましなのです。リーダーとはそういうものです。部下とはそういうものです。
結果が出ている事に対しては何とでもいえる。しかし、結果の出ていない事は、責任をとる覚悟がなければ何も言えない。
リーダーは、結果が出る前に、結論を出すのです。だから、責任が取れる。

リーダーは、皆の支えがなければ、組織を維持できない。メンバーに求められるのは、従うべきところは従い、諫めるところは諫める事です。いずれにして、リーダーにも、メンバーにもそれなりの覚悟が必要です。メンバーは、全体の中で己を尽くさなければならない。全体に埋もれても、我ばかりを通してもメンバーとしての責任は果たせません。克己復礼こそ心する事です。
我々以降の世代は真逆の教育を学校で受けている。これは教育ではなくて洗脳ですね。だから進んで責任とって決断しようとしない。そのために、真のリーダーが育たないのです。迷ったら決断できなくなります。疑る事が出来なければ、真実を見極める事はできない。

リーダーは、常に次の一手を考え続けている。捕球してから投げる先を考えても遅い。起きてから考えたのでは間に合わない。常日頃から状況を想定し、その時とるべき行動を決めている。しかし、常に事態は流動的で想定外の事が起こる。実際にその時になってみないとわからない事ばかりである。
何も決断しなければ、間違いは犯さないと錯覚するが、何も決断しなければ、何も解決できない。進むべきか、退くべきか、リーダーは常に岐路に立たされているのです。

リーダーは、自分が厭になったからと言ってやめる事は許されない。自分を信じついてくるものがいる限り、彼らに責任があるからです。次のリーダーを常に用意し、育てていなければならない。
次のリーダーは自分の意志を継ぐものであると同時に、自分を否定する者でもあるのです。厳格さと寛容さがなければ次のリーダーは育てられません。
いずれにしても矛盾した存在がリーダーなのです。最後まで…。

僕は、ある社員に言ったのです。
お前は、会社にいる限り一人ではない。お前は一人ではない。皆はお前のことをいつも思っている。
だから、皆のために働け。お前は皆のために働いていない。そんなことをしていたら仲間を失うぞと・・・。

一人になる事がどれ程怖い事か。仕事仲間の絆は、家族より強い。家族が見捨てても仲間は見捨てない。
変な話ですが会社を離れた人がなくなった時、これは経営者を含めてですがその葬儀は寂しいものです。現役の時は、たくさんの人が集まってくれる。
社畜になるななんて無責任な事を言う奴がいますが、会社は、二十四時間、三百六十五日、社員を見守り続けている。事故をすれば事故処理や保険の手当てをし、病気になったらすぐに飛んできて、場合によっては、いろいろな家族への連絡や病院の手配をしてくれる。なのに、会社の奴隷になるなという。奴隷のように働いているのは、会社なのにです。

部下がトップに従わなくなるのは、トップが会社を私物化して裏切っている、背信行為をしているからです。旧丸善の社員は、会社がなくなったというのに、何十年にもわたって会合を開き続けたのです。
矢崎は、自分の会社の社員が過激派に誘拐された時、国が見捨てても結果は不幸な事になったとはいえ、最期まで救出に力を尽くしました。。

会社が新規事業に挑戦するのは、皆の居場所を確保しようとしているからです。
会社の事だけが考えていれば、余剰人員は解雇すればいいのです。
会社は運命共同体でもあります。必要なくなったからと言って簡単にやめさせることはできません。なんとか、雇用を維持し、社員が路頭に迷わないように力を尽くすのです。その点を理解していなければ、理解させなければ、新規事業なんてうまくいくはずがありません。
簡単に軌道になるわけではありません。執念がなければ新規事業など成就するはずがないのです。
最初からうまくいったとしてもどこかでつまずきます。
皆、結果しか見ていませんが、事業は、一種のリーダーの妄想から始まるのです。
そのリーダーを支えるのは仲間たちなのです。
その点をよくよく理解するよう新規事業のリーダーに伝えておきました。

これからのリーダーは大変だなと思います。
学校で逆らう事ばかりを教えられてしまったから、素直にまっすぐ物事を見る目が養われていません。
しかし、だからこそリーダーの真価が問われているのだと痛感する今日この頃です。





リーダーというのは、人の上に立って仕事をする。
人の上に立つなどというと、やれ差別だの、人に上下関係をつけるのかといった批判をする者がいる。
特に、左翼系の人間に多い。
しかし、上下関係のない社会主義国家、共産主義国家など実現したためしはない。
むしろ、上下関係が強化され階級化された国の方が圧倒的に多い。
大体、共産主義には前衛思想があり、一党独裁という方針が確立されている。

人の上に立つと言っても役割の事を言っている。
日本の組織の根本は超制度でピラミッド型の体系が圧倒的に多く、役割や機能が地位や利権と不可分に結びついている。しかし、本来の組織は、より機能的な体系であって根底を成すのは、指示・命令、即ち、情報系統である。

スポーツのチームを見ればわかるが、必ずしも監督に特権があるとか、評価、報酬がいいとは限らない。ただ、組織の統制の頂点に監督がいる事だけは確かである。
この点を理解しないとチームリーダーは務まらない。

チームワークの原則はシンプルである事を旨とする。
なぜならば、チームは集団である。チームワークの原則や決まり事はチームのメンバー全員が共有する必要があるからである。

チームは、集団である。つまり、人の集まりである。人の集まりを束ねるのがリーダーの役割である。この点を忘れてはならない。

リーダーに最初に求められるのは、チーム作りである。体制作りである。
この点を勘違いしている人が現代の日本にはたくさんいる。
チームワークそのものを戦後の教育では否定しているからである。

その理由は、日本の弱体化にある。忘れてはならないのは、日本は戦争に負けたのである。戦後日本を支配したのは戦勝国の思想である。それに阿った者たちだけが戦後の文化人となれたのである。
彼らの多くは、反体制、反権威、反権力を装った。その代表は、北野たけしである。

信仰は迷信ではない。
神なんて信じるな。それは迷信である。
科学と、神は無縁である。繰り返し、繰り返し学校やメディアは繰り返してきた。
反倫理、反秩序主義者を英雄扱いをし、テレビも、映画も、漫画も喧伝してきた。
その欺瞞、偽善に人々は気が付き始めてきた。
信仰は迷信ではない。
信仰なきリーダーは自分を抑制できない。自分を絶対視する以外に自分を保てなくなる。
それは独裁の始まりである。独裁者は自分で自分を許す事が出来なくなる。それは破滅を意味する。

まず、リーダーに選ばれた時に最初にするのは人事である。
つまり、人の問題である。人をどの様に使うかの問題である。
この事も理解していない人が増えてきた。

監督を任された時、どうすると聞かれた時、私が四番打ちますとも、ど真ん中に速球を投げ込みますとも言わないだろう。
がんばりますと答えたら相手を納得させられるだろうか。選手を集めてしっかりやれなんて言わないだろう。

野球でも、サッカーでも真っ先に問題とされるのは、誰を選抜するかである。また、誰をどの様に起用するかを見れば勝敗の行方はある程度読める。

人の問題、人事と言っても手順がある。
手順段取りを間違えたら組織はできない。

監督が決まったその時に、四番バッターを決めたり、先発ピッチャー指名したりもしないだろう。

まず、リーダーを任されたら選ぶのは、自分の仕事を補佐する者である。
補佐するというのは、自分の仕事そのものを補佐する者か、マネージメントをする者かを指す。できれば自分の代わりをできる者か、マネージメントをできる者を一人ひとり選べたらそれに越したことはない。
ただリーダーは一人ではなれない。少なくも二人以上いなければ組織は成立しない。言い換えると、二人いれば組織は成立する。

組織では、打ち合わせも組織的になされなければならない。
打ち合わせには、組織としての目的、組織としての働き、組織としての役割がある。それが、打ち合わせの役割構成、段取り、手順、次第、進行を形成する。

最初の打ち合わせでそれぞれの役割・位置づけを仕事を通してやる。それがリーダーの最初の仕事である。
この点もよく理解していない者がいる。
リーダーが自分の考えを一人でまくし立てても組織は機能しない。

まず、リーダーが自分の考えを示した後、誰から具体的な内容を説明させ、誰から指示・命令を出すかを予め決めておく。メンバーは、それを見てリーダーの考えを理解するのである。メンバーは観念で動いているわけではない。組織は、指示・命令で動いているのである。言い換えれば、指示・命令が出せない者をチームはリーダとしては認めない。
組織は、正式にリーダーが指示・命令を出した時に起動するのである。

これは経験的に覚え、修得する以外にない。

リーダーは、組織が育てるのである。

リーダーとして必要とされるのは、適正や実力を見抜く能力である。仕事や勝負は、最初の接点愚で決まる。
人事は非情なのである。人事に情実を交えたら、人は従わなくなる。
為政者が公共投資をする時、親戚知人を優先したら、国は腐敗する。
国家のリーダーに求められるのは高潔である。高潔なリーダを持たない国は不幸である。

野球の監督が先発ピッチャーが打たれそうだと思ってコーチに、どう思うと聞いた時、コーチは、彼は良い人だからとか、彼は頑張っていると答えるだろうか。
また、調子悪そうですねと他人事のように言ったらコーチの役割が果たせるだろうか。

明後日の方向に走るな。今やらなければならない事を考えろ。
一歩外へ出たら何をするか結論を出さずに散会するな。
自分がいなくてもわかるようにしておけ。
聞かれたらわかるようにしておけ。
言えない事はできないし、やらない。
自分がすぐにやらなければならない事は聞かれたらわかるようにしておけ。

我々は、徒弟制度的に、日常的に、親や親せき、また、先輩達から社会生活、集団生活に必要な事を躾けられてきた。
これは躾けの問題である。だから、社会人としての常識がないのは、まともに生活できないのは、親の躾け、家庭の躾が悪いからだ。親の顔が見てみたいと言われたものである。

ところがこういう躾は、団塊の世代のところで全て中断してしまった。

権威とか、上下とか、差をつけるとか、秩序とか、統制とか、規律とか、規則などを頭から否定した。
これらは、組織や社会の秩序を否定する考え方である。
社会主義者や共産主義者だってすべてを平等だとしてはいない。仮にそう唱えていたとしてもそれこそ欺瞞である。社会主義国や共産主義国の実態を見れば歴然としている。
彼等は明確に差別をしている。少なくとも敵と味方の差別ははっきりしている。

差をつける事、即、差別ではない。差をつける事に躊躇してはならない。ただ、人種とか、家柄とか、男女とかでいわれなき差をつける事は間違いだと言っているのである。人と人との間に差がある事は明確であり、その差を認める事は差別ではない。

学校でもこれらの事は必要のない、悪い事だと教えるようになってしまった。

反抗、反論は美徳であり、意見は反対意見。
言われたとおりにしては駄目だ。人と違う事をしろ。常識を疑れ、常識を持つな。

反体制、反権威、反権力を善として、素直に従順に従う事を悪と教えたのである。
その根本には、道理はない。ただ、上のやる事、体制がやる事は悪であり、反対である。
なんでも疑ってかかれ。常識にとらわれるな。
個人の意思を尊重しろ。
人に迷惑をかけなければ何をしてもいい。
考えてから決めろ。
そう繰り返し繰り返し教え込んできた。一種の洗脳である。

その結果、学級崩壊、家庭崩壊である。学校も家庭も無秩序になり統制を失ったのである。


組織というのは、自分一人では何もできない環境、状況を作る仕組みである。


やる事(ミッション)が決まったら構想を立て、メンバーを選んで役割分担をしてチーム作りをする。

昔、スパイ大作戦というテレビ番組があった。そこでは、リーダーが指令を受けると構想を描きつつキャストを決めシナリオを描いていく。そのシナリオ通りに作戦が遂行されるという筋書きだった。筋鍵通りに進むのであるが、それがドキドキとさせるのである。
リーダーとはそういうものである。


教育は、教育者の思想そのものなのである。
それはごまかしようのない事である。


己の無力さ、未熟さを知れ。一人では何もできないと悟った時、リーダーシップは発揮される。




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