教育の理想を求めて
規 則
誰も守ろうとしない規則は、守り切れるものではない。
我々の学生時代は、規則、規則で規則に縛られ雁字搦めだった。
学園紛争の原因の一端も規則に対する反発だった。
だから、我々の世代には、規則に対する反発が根強く残っているように思える。
その延長線上に規制緩和もある気がする。
何でもかんでも規則、規制は悪い事だ貸せなくしてしまえ。
我々の先輩である団塊の世代は、とにかく、規則や規制をなくす事、打ち壊す事に、全力を投じてきた気がする。
我々が高校時代に校則は、緩められ、制服もなくなり、坊主頭もしないでよくなった。大学によっては試験もなくなり、簡単な小論文を書けば卒業できるようにもなった。
しかし、それで本当に世の中良くなったであろうか。
いまでも、規則は良くない、体罰は悪だ、勉強なんて意味ない、休め休めと休日ばかり増やしている。そりゃあ誰だって楽な方がいいと言われれば楽な方を選ぶさ。その結果、いつまでたっても社会常識が身につかない。世間の常識がわからなければ、他人との付き合いだってままならなくなり、結局、世の中とのかかわりを絶って生きていかざるを得ない。
それができるうち、通用するうちはいいが、一度通用しなくなったら、お終いである。
組織には、規則が不可欠である。規則がなければ組織は成り立たない。社会にとって組織は基盤である。社会の骨格は組織によって作られる。組織を否定したら社会は成り立たない。
人間は、社会的動物である。人間は一人では生きていけない。規則を守る事は人として必然なのである。
だから、規則に対して人はどうかかわっていくかを覚悟しなければならない。
確かに、規則規則では息が詰まるし、規則そのものが効力がなくなる。しかし、総ての規則を失くしてしまえと言うのは極論である。
規則・規則に縛られていたときは、規則から解放されることが自由だと錯覚したものだが、今になればそれが間違いだという事に気が付いた。
権利は義務であり、義務は権利である。それが自由を支えている。
規則は、強制される事ではなく、自由意志で従う事である。だから、規則の制定改廃に係る権利があって規則を守る義務が生じるのである。
自由主義や民主主義は、無条件に人を信じる事によって成り立っていると間違った思い込みをしている物がいる。
むしろ、自由主義やむ民主主義の根本は人間不信によって成り立っている。
人は、神にはなれない。
人は、間違えを犯すというのが前提である。間違いを犯す人間をいかに規制するかによって生じたのが、民主主義であり、自由主義である。当たり前に規則を重んじるのが民主主義である。それが法治でもある。
罰則のない規則は、効力を発揮しないし、守られない。
罰則があるから規則は嫌われる。
人は、間違いを犯す。規則も嫌う。
だから、ええは、ええはにしたら、すぐに綱紀は緩む。
規則は、全体を守るためにある。
全体は、部分、即ち、個人を守るためにある。
人は、どうでもいい事を変えたがる。
煩雑な手続きは、手続きそのものを形骸化し、陳腐化する。
最初から守られない、守れない規則は、規則の威力を損ない、効力を失墜させる。
手続きは、本来業務を効率化させるためにある。
事務は、管理。規律は統制である。
規則は、人間関係を円滑にするためにある。
手続きによって仕事の効率が低下したり、時間がかかるようになるようだとその手続きに問題がある。
誰も守ろうとしない規則は、守られないのである。
規則が守られなくなれば、組織は維持されない。
組織が瓦解すれば社会は崩壊する。
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