教育の理想を求めて
議論するにあたって
哲学的な話、思想的な話をする場合は、まず名を名乗れが礼儀です。
名というのは、自己紹介を意味します。
少なくとも匿名で議論を吹きかけるのは、卑怯だし、非礼です。
自分は安全なところにいて相手の立場を考えずに何でも言えるからです。
自分がどのような考え持ち、何を信じ、どの様な立場の人間なのか。年齢は、職業は、宗教は、日本人は、この点をあいまいにしたままで唐突に議論を吹きかけてきますが、哲学を志す者にとっては、命がけの大事なのです。
思想信条の違い、宗教が違えばそれこそ命がけになります。
いつどこでどのような事に対して相手が激高するかわかりません。
また、相手がどのような心境で、また、動機で問いかけたかによっては、相手の一生や命にかかわる事もあるのです。
哲学は安易に答える事がむずしい問題が多いのです。
哲学者も思想家も命がけなのです。
テロリストに殺されたり、権力者に、拷問され、迫害を受け、虐殺された哲学者は数知れないのです。
日本人は、言論の自由をあたかも自然の摂理であり、何の犠牲も払わずに平和的手段で実現したと思っているみたいですが、言論の自由一つとってもすさまじい戦いと犠牲の上に勝ち取った権利なのです。
その権利を言論の自由を振りかざす一方ででメディアはいとも簡単に手放そうとする。
言論の自由を行使する者は、相応の覚悟が必要なのです。許されるから何を言ってもいいというのでは、言論の自由を守り通す事はできません。
まず、言葉の定義を明確にし、確認する。
私は、主体とはこのような意味で使いますとか。私は、神をこの様に定義しますとかを明確に相手に示す。
日本人には錯覚があって哲学とか、科学というのは、難しい問題を扱っているのだから、抽象度が高くて意味不明な事から始まるのだろうと思い込んでいる節があります。しかし、哲学も科学も万人が了解できるところ、例えば、自分は生きているとか。物は存在するとか、点や線とは何を指して言うのかとか、ごくごく当たり前な事、(そのごくごく当たり前な事と思っている事が、実は、突き詰めてみると深遠な意味があったりするのですが・・・。)から始めるのです。
次に、論拠を明らかにする。何を自明な事とするのか。任意な命題に基づいて論をするのかを宣言する。これは一種宣言です。それを否定されると論理が成り立たなくなってしまいます。つまり、議論が成り立たなくなる。例えば神を信じるものと、信じない者は、まずそこを話し合わないと以後の議論が成り立たない。そこで科学は、形而上の問題はいったん棚上げにすることで論理を組み立てています。
そして、どの様な前提に立ってどの様な論理的手続きによって展開するのかを明らかにします。背理法を用いるのか、三段論法で行くか、弁証法に基づくかを示します。
また、議論を相手に吹っ掛ける場合は、自分のよって立つ思想信条を相手に伝える。自分が信じる宗教、思想、また、所属する団体、生い立ちなどを明らかにして相手ら伝える。
敬虔なキリスト教徒やイスラム教徒が対して神や律法、教祖を冒涜したと囚われかねない言動や行為をすれば命さえとられかねない。また、共産主義者、社会主義者、自由主義者、資本主義者、独裁主義者、民族主義者、全体主義者、国家主義者とではよって立つ思想的基盤が違います。同じキリスト教徒、イスラム教徒、共産主義者でも宗旨が違えば命がけで対立する。
フランスで雑誌社が襲われ多くの犠牲者が出ました。言論の自由か、信教の自由かの対立が根底にはあります。
9.11はアメリカがイスラム教の聖地を汚したからだという動機があります。
今でも世界中で皆命がけで哲学を語り合っているのです。ムハンマドを侮辱したと言って殺害された日本の翻訳者もいるのです。
だから自分がどのような考えに立ち、どの様な論拠に基づいて、何を主張したいかを相手に示す事が最低限の礼儀です。
議論をするための前提を明確せずに自分の考えを相手に押し付けようとするのは、独りよがりな行為です。
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