教育の理想を求めて
義務教育について
義務教育という事ですが、義務教育について論じる場合、義務と権利についてまず正しく理解することが必要だと思います。
日本人で義務と権利について正しく認識している人は少ないと思います。
日本人と話をしていると義務を義務、権利を権利として別の次元でとらえる傾向があるように感じます。
しかし、義務と権利は一対の概念で、義務と権利は個々独立して存在するわけではありません。これは、権限と責任についても言えます。
つまり、義務は権利であり、権利は義務なのです。この関係を正しく理解していないと義務教育を正しく理解できません。
教育は義務であると同時に権利なのです。そして、教育を受ける義務は、国家の保証する権利に基づくのです。
国家が保証する権利を実現するためには、教育は義務でなければならないのです。
それを理解することで、義務として何を学ばなければならないのかが明確になります。そうしないと義務教育の目的が定かでなくなります。
特に、国民国家は、国家そのものが観念的、思想的なものですからその思想、観念を学ぶ必要があるのです。国民国家における教育は、国民の権利に根差していなければならず。国家統制を目的としたものではありません。これは国防という概念も然りです。
独裁国や全体主義国と同じ次元で教育というものをとらえてはならないのです。
民主主義教育は無思想な教育というのは、全くの誤解で、民主主義教育こそ思想教育なのです。ですから、民主主義を思想として正しく認識しておく必要があります。
義務は、権利です。
義務教育を考える場合、教育の権利について考えた方がわかりやすいかもしれません。
なぜ、教育は権利なのか。それは、民主主義、国民国家というところまで遡ります。
国民国家という概念、つまり、近代的国家、国民という概念は、比較的新しい概念で、基本的にはアメリカ独立戦争、フランス革命だと言われます。国民国家が成立したところから国民という概念が成立します。ですから、フランスやアメリカには憲法においてフランス国民、アメリカ国民という概念は存在してもフランス民族、アメリカ民族という概念は、存在しません。それが国民国家であり、また、そこに法の下の平等が成立します。
そして、国民国家が成立した時、制度としての民主主義は確立します。つまり、民主主義という思想は、制度によって実現し、制度や手続きによってその正当性が保証されるのです。
日本人は、民主主主義は、話し合いだ、話せばわかるという間違った認識の上に立っているように思われます。民主主義の根本は、話しても分かり合えない。だから、まず法に基づいた会議を開き最初に決めた法に従って決めた事に従うという前提があって成り立ちます。
ですから、どの様な手順段取りで法を定めるのか。代議制にするのか、直接民主主義にするのか。憲法をどの様に定めるのか。裁判はどのような仕組みで行うのか。選挙のありかたはどうするのか。議論の仕方はどうするのか。そういうことをいちいち決めそれを周知する必要性が国民国家には生じます。それを知ることは国民の権利であり、権利だから義務でもあるのです。
私の息子はカナダに留学していますがディベートが正式の授業として設定されています。
この事の意味が日本人に理解出来ていない。
公民として社会生活を送れるような知識情報、また、自分たちがどのような権利を持っているのか。法制度、司法、立法、行政といった民主主義の基礎となる制度を教わるのは権利であり、義務なのです。
国家はどのような理念、仕組みで成り立っているのかを知る事は、国民の権利であると同時に義務なのです。義務なのは、納税や選挙が義務であり、権利であるように。
なぜ、税を納めなければならないのかを知るのは権利であり、義務なのです。
そして、法の条文を理解したり、生産物を計算したり、換金したり、お金を借りたりするときに必要な最低限の技術知識を習得するのも権利であり義務なのです。
アメリカでは当然のごとく、金利の計算方法や契約の仕方、憲法の意義、アメリカがどのように成立したか、国家に生い立ちや成り立ち、歴史的な演説、公用語である英語等を教えています。
それは、アメリカ国民として生きていくための最低限必要とする知識だからです。
教育は義務であると同時に権利なのです。権利によって保障されているから義務化ができるのです。
教育の義務は親が負わなければならないのか・・・。
親でなければならないというのも一つの思想です。
この事も一つの思想から発しているという事を明確にしないで、いきなり、そう決まっているんだよ式の議論を始める傾向が日本人にはあります。それは短絡的です。
日本人は、妙なところで暗黙の了解を前提とする。決まっているとか、当然とか、そうなっているといった事ですね。しかし、基本的に概念は、民主主義は、厳密に一つひとつ要件定義することが要求されます。
なぜ親なのかというのは、成人と未成年との区分に基づきます。つまり、国民とは何か、市民とは何かを法的に定義し明らかにする過程で生じた事です。
未成年というのは、国民としての権利を与えるだけの人格、能力に至っていないという考えに基づいています。権利がないから義務を課せられない。
未成年者は、養育者がその権利を代行する。故に、養育者も義務を負うのです。だから義務教育なのです。その養育者が親がいる場合は親です。親がいない場合は、法の定める事に従って国家、あるいは国家に準じる機関が指名した者がこれを代行します。これは手続きによって正当性が立証されます。ですから、教育するしないを決めるのは親の義務ですが、教育は権利でもあります。
親は、子供がアメリカ国民として困らないように養育する権利と義務を有していますので、義務教育を拒むことは許されません。ただ義務教育を誰がするのかは、別の問題です。
では、成人、未成年の境界線をどこにひくかは、議論の分かれるところですが、この事は、要件定義、正式な手続きによって定められた法に基づいて定義するという事です。
これがプラグマティズムですね。
ただ一方に、成人、未成年の区分をすべきではないという考えも、確かにあります。また、選挙権や閲覧の自由も段階的に境界線を引くべきだという議論もあります。ただそれは選挙で決着をつけるというのが民主主義の思想です。これも思想です。
この点を日本人は理解しないで、少年法がどうのこうのと議論する傾向があります。特に、子供の人権とか権利とか、何の根拠もないままに議論する。そして、それぞれの思惑で都合がいいところで子ども扱いをしたかと思えば、大人扱いしたりする。
根本は、法は法だという事です。法治国家である以上、法に定められたことに従う義務がある。だから立法は国民の権利なのです。それが、民主主義の大原則です。
あくまでも、民主主義は、民主的手続きに従って、法の下に権利と義務が保証されているのであり、きちんと法的に定義されていない事の正当性は保証されていないのです。それが法治主義であり、民主主義です。
そして、民主主義は一つの理念に過ぎない。
アメリカではいまだにモンキー裁判が行われているのです。その事を非科学的というのは、日本人が民主主義の本質を理解していないからです。
中東でジャスミン革命が起これば、中国で民主化運動がおこれば、自然に民主主義は成立するというのは、自分たちの血で民主主義を勝ち取った事のない国の人間のたわごとなのです。
民主主義も革命思想の一つだという事を忘れてはなりません。それが今もフランスやアメリカでは息づいているのです。
自由主義国の前提は、自由主義国には、自由人と異邦人しかいないという事です。そして、一定の条件を満たせば誰でも自由人になる権利を与えられているというのが、自由主義国の原則です。自由人というのは、立法、および、国政に参画できる権利を持つという事で、当然、権利から義務が生じます。立法、国政に参画できるという権利から、選挙に参加するという義務が生じます。選挙は権利でもあり義務でもあります。投票という権利を行使せず義務を放棄すれば、国家の決定に一方的に従う、隷属しなければなりません。
アメリカ人のが銃の所有を権利だというのは、自分の身を自分の力で守るのは、権利だという思想に基づく者であり、自分の身を守る事は国を守る事になるので自分の国を守るのは、権利でもあり、義務だという事になる。そのために、武装をするのは、権利でもあり義務だという思想があるからです。国を守るのは、国民の権利であり義務である。
それは、国を守るから、国から守られるという考え方が生じるのです。
異邦人というのは、基本的に義務も生じないが権利も与えられない。だから、義務はないけれど権利を主張することは許されず。
その国の法の権限が及ぶ領土にいる限りその国の決定に従う事が求められます。
国は国民の生命財産を守る責務があります。国民は、国に対して生命と財産を保証させる権利を与えられているが、異邦人はその権利を与えられていません。
国民は、国家に自分の生命財産を保証させる権利を与えられる代わりに、国家の主権、および独立を守る義務を負います。
異邦人は、国の主権、および独立を守る義務を負いません。
国家権力に隷属するのが嫌ならば、国法に従う事を自分の意志で正式に神に誓約し、国家と契約しなければなりません。
成人に達した者が正式にそれを表明するのが成人式です。
だから、国家の法に従うのは、根本に契約に基づく。注意しなければならないのは、法に従う事を誓約しなかった場合でも、権利を主張することが許されないから法に従う事を強制されます。
その辺の事が日本人には、理解できない。誓約しようとしまいと法は執行されるのなら同じではないのかと、考え違いをしている人が結構いる。
それは自由意志という事を理解していないからです。自分の主体的意志によって国民としての義務を負う事を誓約するから権利を保証される。
だから本来義務は強制される事ではないのです。ところが日本の民主主義は、与えられた民主主義、戦争に負けた事によって強制された民主主義だから、義務を強制だと勘違いするのです。義務は強制ではなく。進んで自らの意志で従う事なのであり、義務によって権利が担保される。自由は、権利によって実現し、義務によって守られている。だから、憲法は権利章典なのです。それが自由主義国の自由なのです。
もう一点注意してほしいのは、誓約は神に対してなされる事だという事です。つまり、契約は、神に対する誓約に基づいている。神との誓約に基づくから契約は神聖不可侵な事として信任されるのです。この点は、日本人が最も誤解している事です。
日本人とって契約は人と人との約束ごとの延長に過ぎません。つまり、処世術、人間関係人づきあいの延長線上でしかない。
しかし、思想信条の自由を前提とした以上、宗教や価値観の違う人間関係を前提とすることになります。
信条・価値観が違う人間関係の上に成り立っている人と人との間の信頼関係はあやふやな関係、不確かな関係、相対的な関係、対立的関係であることが前提になります。
大体、人と人との約束なんて生きるか死ぬかの窮地に陥れば反故にされるに決まっている。少なくともあてにはできない。しかも、相手の価値観や信じている神が違ったらどうなるかわかるはずがない。
価値観の違う者同士にいかに信頼関係を築くのか。絶対的なのは神への信仰だという事になる。これは、絶対神を持たない日本人には、到底理解できない。しかし、絶対神を信じる者たちの間では当然の帰結なのです。
神との契約を介することで、信頼関係を担保する。神を介する契約によって成り立っているのが自由主義国です。故に、基本的に誓約、契約は神前においてなされます。
近代民主主義がキリスト教国を母体にして成立した由縁です。
結婚式も神前、教会で誓いを立てるのです。それは法よりも強い拘束力を持つ場合がある。結婚相手に誓うのではなく。神に誓うのです。神に懸けて守る。それが契約です。
最近、人前結婚式なるものが日本では流行っていますが、欧米人から見れば不可思議。友情だとか、人情なんて当てにならない不確かなものに誓っても何の保証にもならないのにと・・・・。大体、人間は、神にはなれない。
キリスト教徒は、ユダヤ教徒やイスラム教徒を信用していないなんて日本人は、思っていますが、それ以上に彼らが信用していないのは無神論者です。
その意味では、欧米人に「私は神を信じていない」なんて得意げに話している日本人をよく見かけますが不見識甚だしい。
「私は神を信じていない」なんて欧米人に言ったら信用をなくしてしまいます。
神と言われて迷信だと思っているのは日本人か社会主義圏の人間くらいなものです。旧社会主義国でも多くの宗教は復活している。
日本人が無神論を科学的だと錯覚するのは、共産主義の影響です。戦後、日本の知識層は、共産主義一辺倒になりました。しかし、社会主義国を除く他の国の多くは、無神論を是としているわけではありませんし、科学者の多くは神を信じています。
ありていに言えば、人は信頼できないが、神は信頼できる。人は騙せても、神は騙せないそれが民主主義の大前提なのです。
だから、裁判でも、大統領就任式でも神への誓約によって始まるのです。
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