教育の理想を求めて
世代
最近世代の違いを強く感じるようになってきた。
世代の違いというとまたという人が多くいる。
しかし、戦後、六十年もたつとそれぞれが育ってきた環境がそれぞれの世代に色濃く反映されているのも否定できない。
かつては、戦前、戦中、戦後世代なんて言われた。
現在は、終戦直後に教育を受けた者、戦後生れ、高度成長世代、三無主義世代、バブル世代、ゆとり世代なんて言われる。
第一世代は、自分で何でも決めてやってきた。
第二世代になると、上と相談して決めるようになる
第三世代になると決める人間と実行する者とが別々なり分担するようになる。
第四世代になるとあらかじめ決められている事をやるようになる。
第五世代になると決められたこと以外できなくなる。
組織的階層でいうと、経営者に相当するのが第一世代で、役員幹部に相当するのが、第二世代、第三世代になると部長、第四世代になると課長、第五世代は担当者という感じである。
段々に、
方針を定められない。
全体を統括できない。
決められない。
決められた事しかできない。
決められた事もできない。
という具合に落ちていった。
何もない時代なら、惰性でも組織は動いていくが、変化が激しい事態や新しい事に挑戦しようとした時、全く組織が機能しないという状態になる。
現代という時代は、先人たちがあらかじめ決めた路線を惰性で進んでいるに過ぎないのである。
基本的にいうとかつては、目的に応じて指導教育をしてきた。
やって見せ、やらせて見せという具合に徒弟制度的に教えてきた。
それを反権威、反権力、反体制的思想によって封建的だと全否定したのが団塊の世代である。
だから、団塊の世代を境にして組織や集団の運用術は、断絶している。
それぞれの世代には、それぞれの世代の癖や特徴がある。だから、昔の人は良かったなんて回顧主義的な事は言いたくない。
ただ、我々の世代は、先人たちが培ってきたことを構成の世代に伝える事を怠ってきた。
今の若い者はとこぼす前に、自分たちの怠慢を恥じるばかりである。
団塊の世代は、ある意味で高度成長時代の繁栄を享受してきた世代である。
先日たちの尊い犠牲の上に成り立っている我が国の独立と繁栄を享受したものが先日たちを馬鹿な奴だと侮蔑するのは許されない事である。
そのような事をすれば自分たちの怠慢のつけを子孫に残す事になる。
残念な事にその可能性だけが高まってきている気がする。
物事には、順番がある。筋がある。段取りがある。これは、頭だけでは習得できない。経験的に修得する必要がある。
方針を示し、全体を統括し、方針に基づいて段取りをつけて、作業を洗い出し、仕事を割り振る。仕事の進捗にあわせて管理していく。
担当者時代が長い者は、全体の構想を作ったり、段取りを組み立てたり、組織を差配することができない。
大体、団塊の世代が物事を考えたり、組み立てたりすることを躾けてこなかったし、教えてこなかった。教えるどころか、意思決定の場や差配の場から排除し、自分で物事を決められない、決める事を怖れるように躾けてきた。だから、物事を決められない人が増えてきた。それは精神に異常をきたすほど、自律性を失わせてしまったのである。だから鬱の人が増えた。
自分で決めたり、差配したりしなければ組織の運用は覚えれない。実際に組織を動かさなければいつまでたっても指導者にはなれない。
目を瞑っても次の者に譲らなければならないのである。
計画を立てさせても計画の核となる部分、主旨とか、目的とか、責任者という部分、つまり、頭が欠けた計画を立てるのである。そして、その事の異常さに気が付いていない。
頭が欠けているという意味で、まるでゾンビのような企画である。
どう段どったらいいのか、どう指図したらいいのかわからない。大体、指図する事自体悪い事だと言われ続けてきたのである。
なぜ、指図する事、決める事が悪い事なのか、それは、既得権を犯すからである。既得権者の勝手な理由である。
とにかく信頼して任せる。後は失敗した時責任をとる。その覚悟がなければ人は育てられない。
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