教育の理想を求めて
忠誠心
忠誠の反対語は、隷属、隷従、服従である。
忠義とは、義を尽くす事。忠誠とは、誠を尽くす事。
忠実とは実を尽くす事であって、絶対的服従を意味していない。
絶対的服従は、むしろ忠誠に反する。
忠誠とは、真心を以て仕える事である。
盲目的服従は、むしろ、忠誠を蔑ろにする。
隷属は自分の意志に逆らって力によって従わされる事を意味する。
忠誠とは、自分の意志で従う事である。
忠誠も隷属も主従関係を意味する。
同じ主従関係を表すと言っても忠誠と隷属とは本質が違う。
忠誠は、自ら意志で主を選び従う事を意味する。
奴隷根性ではない。
忠誠とは、他人のために生きる事を覚悟する事である。
隷属は盲目的服従、絶対的服従である。隷属には、当事者の主体的意志はない。隷属する者の意志は全く尊重されない。隷属者は、主人の所有物なのである。
隷属は奴隷根性であり、植民地根性である。
それに対して忠誠心は士の精神である。
忠誠心は武士の魂である。
忠誠心は、信仰心に近い。
日本人は忠誠心によって自らを律してきた。それ故に、忠誠心によって道徳を守ってきたのである。
忠誠心という武士の魂を戦後の日本人は抜き取られたのである。
戦後の日本人の主従関係は、奴隷根性や植民地根性に基づく。
要は,今の日本人には魂がないのである。
忠誠心の本質は、独立不羈である。
従うのは、自らの意志である。相手の力を怖れて従うのではない。
故に、忠誠心は強要できない。
忠誠心は自らの意志において誓うのである。
忠誠を誓う相手は、予め定められているわけではない。
忠誠心は養う事なのである。
この点を現代の日本人は誤解している。
忠誠を誓う相手は、自分で選ぶのである。
即ち、忠誠の根本は契約にある。
忠誠を誓った相手が約定に背けば、忠誠心は失われる。
忠誠を誓う相手は人だとは限らない。国や組織、団体、仲間に対して忠誠を誓う事もある。
忠誠は、絶対的服従を意味しない。
主が誤った決断をすれば、命がけで諫めるのも忠誠である。
場合によっては、絶対的権力者を除くのも忠誠心である。
忠誠は、忠義につながるのである。
忠誠とは、義を尽くす事でもある。
故に、主が過ちを犯そうとした時は、逃げ出すのではなく身命を賭して諫めるのも忠である。
義を見てせざるは勇なきなり。
戦で戦うのも忠ならば、反戦を称えるのも忠である。
忠誠とは、己の誠を尽くす事である。それは正直である。
愚直なほど正義を貫く事である。それが武士である。
克己復礼。
忠誠の忠は、心に中(あた)ると書く。中とは、中庸の中である。
日本人と中国人の状況の差は、中国人は孝を重んじるのに対し、日本人は忠を重んじると言う点にあると言われる。
忠誠心があったから、日本人は、明治維新後に近代化ができたのである。
それは忠誠心の根底に公という思想があるからである。義とは公義である。
忠誠心が欧米人の信仰と同じ働きをしたのである。
日本人は、本来、忠誠心が高い民族だと言われる。
日本人の忠誠心は、信仰心に近いところにまで至っていた。
それを日本と敵対した、あるいは、敵対している勢力が怖れたのである。
そして、戦後の教育や世論を使って忠誠心とか、忠義という言葉を日本人が生理的に嫌うようになるまで洗脳したのである。
見事にそれは功を奏した。日本人の文化から、忠誠心は消え去ろうとしている。
そして、忠誠心の根本は、恩と義であるが、恩と義も失われつつある。
しかし、まだ日本人の遺伝子の中に忠誠心の魂は残っているように思える。
おもてなしという言葉の中に、忠誠心は残っている。
忠誠心は、おもてなしという精神につながるのである。
忠誠心は、ものの哀れである。
忠誠心こそ武士道である。
忠誠心は、大和魂なのである。
忠誠は死して後已む。
友が過った道を進もうとした時、友情をかけて私は、友を殴る。
殴った瞬間、友は、私のもとを去るかもしれない。
しかし、殴れなかったら最初から友ではない。
友への忠誠は、友情をかけて殴る事である。
忠
忠
武士道
愛国心
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