教育の理想を求めて
仲 間
最後に頼りになるのは、仕事仲間だと思っている。
仕事仲間は自分たちの意志で結成される集団だという事である。
それが家族との決定的な違いでもある。
仲間作りで何を最初をに決めなければならないのか。
それは指導者である。リーダーである。
つまり、誰が仲間を仕切るかである。
この点を最近の若い人たちは理解していない。
最近困るのは、打ち合わせや会議を提案書を提出された時、メンバーは列挙してくるのだが、責任者や担当者を書いてこない。彼等は、責任者だの担当者を明らかにする決める必要を感じていない。感じていないというより、リーダーを必要としていないのである。
しかし、会議の議題を誰が決めて段取りをどうするのか、打ち合わせや会議が終わった後どの様に始末をつけるのかを打ち合わせる者がわからない。
野球やろうという時、ただ人を集めれば゜できると勘違いしているのと変わりない。
野球をしようとしたらまずマネージャーをそして、監督を決めなければならない。
マネージャーを決めなければ段取りをつける事ができないし、監督を決めなければ、役割を決める事ができない。
ところが、皆、そういうことは親が決めてくれると思い込んでいる。
だから、何も始まらないし、かといってやめる事もできなくなる。
ただ、集まってワイワイガヤガヤ好き勝手な事を言っているだけに終わってしまう。
つまり決めるという事ができないのである。
締りがない、始末が悪い。けじめがつかない。
それが今の日本人であり、教育がそうしてしまったのである。
船頭がいなければ船は漂流するのである。
仲間に指導者がいなければ、仲間はまとまらない。
指導者を誰にするか。それは最初に決めなければならない。
ボス、親分、親方、頭、差配、仕切り、支配人、なんでもいいからリーダーが必要なのである。
仲間を作りためには差をつける必要がある。
誰と話して誰と打ち合わせていいのかわからない。大体、誰が責任を持つというのか。
社会には形がある。
その形は仲間によって作られる。
その形を敗戦後の日本は捨てたのである。
なぜ、捨てたのか、それは戦争に負けたのである。
だから、日本人としての魂も、誇りも捨てた。
それを捨てさせたのは戦後の教育であり、組合系の教師である。
だから、彼等は、先生としての尊厳も、権威も、自尊心も捨てた。
その結果、生徒は、先生を尊敬も、村長もしなくなったのである。
仲間には、指導者がいる。
そんな事は、学校に入る前の子供だってわかる。子供たちが集まって遊ぶ時、まず、誰が仕切るかを決める。
仲間には掟がある。
何かを決めようとしたら、決める為のルールがある。
なにも独裁的に決めるだけがルールなのではない。
じゃんけんで決める。くじ引きで決める。サイコロを投げて決める。勝負して決める。
それでもどうやって決めるかのルールはあるし、それを取り仕切る者もいる。
麻雀でも親決め、場決めの形は暗黙に決められている。それがルールである。
ルールは守らなければならないのも子供でも分かる。
それを否定したのは学校である。
だから、教室は乱れ、先生の言いつけを誰も守らくなったので゜ある。
しかし、それは自業自得、先生が自分でルールを守らなくてもいい、守る必要がないと教えたのである。その証拠に終礼も始礼もない。
どんなゲームや遊びでも誰かが仕切らなければ始まらない事ぐらいわかる。なぜならも皆で遊ぶためには、暗黙のルール、決まりがある事は子供でも肌でわかるからである。
それができないのは、誰かが、強制的に矯正したからである。
リーダーを決める事、選ぶことは悪だというのである。
だから、指導者が決められない。仕切る奴が決められない。
仲間としての仕来りがあり、掟がある。この様なルールや掟も頭から否定された。悪い事だというのである。民主的でないと言われるのである。これは明らかに悪いである。
なぜなら、民主主義は、法、即ち、掟や手続きを前提とした仕組みだからである。
これらの事を否定する事は仲間づくりそのものを否定する事なのである。
だから、今日、日本人は仲間を作れなくなった。
これは、日本を敵視する者にとって大きな成果であり。彼らの方策が成功した事を意味している。
仲間には、暗黙であるかないかは別にして誓いがあり、掟がある。
裏切りや背信行為は、例え指導的に立場にある者も許されない。それが掟である。
仲間こそ力の源である。
その誓いも否定され、決まりも堅苦しいと退けられた。
仲間とは、仲間が困っている時、助け合い。助けを求められてら決して見捨てない。困難に向かっては、一致結束して事に当たる。仲間同士の約束は絶対であり、違えてはならない。
自分に万が一のことがあったら、自分の妻子を託せる。家族を託せる。後事を託せる。それが仲間なのである。仲間には定年退職はない。
だから、背信や裏切りは許されない。それはリーダーも例外ではなく。リーダーこそ厳格に守らなければならない。それが掟なのである。
それが戦う集団の掟なのである。
今は、戦う事さえ許されない。
戦後、掟は、処罰ばかりが強調され、その根本理念を故意に無視されてきた。
仲間にとって誓いや掟が大切なのは、誓いや掟が守られなくなったら、仲間は仲間でなくなってしまうからである。仲間を守れなくなるからである。
仲間は自分の命よりも大切なのである。
なぜなら、仲間がいるから、自分の愛する者が守れるのである。
だから、仲間が大切にしているもの、愛する人々を命かけて守るのも仲間の掟、義務なのである。それが仲間である。
先頭に立つ者がいれば、背後を守る者もいる。それが仲間である。
仲間は仲間を最後まで見捨てない。それが仲間である。仲間の約束は命かけて守る。それが仲間である。だから、使いが必要なのである。儀式が必要なのである。形が必要なのである。仲間を信じ守るために、仲間を見分けるために仲間の証・印が必要なのである。
仲間が必要とする形は、先輩から、後輩へ、親から子へと伝承してきた。それが伝統となったのである。
その伝統や仕来りが否定された。そして、日本人は脆弱に軟弱になったのである。
そして、日本の国力は弱まろうとしている。
日本の伝統も仕来りも戦後の教育者は否定し、捨てさせた。
封建的だから、古いからと。しかし、伝統やしきたりによって日本人の名誉や魂は守られてきたのである。それが日本の文化なのである。それを捨てたら、日本人は日本人でなくなる。文化を否定する事は日本を否定する事である。
誰の指示で、なぜ捨てたのか。それは日本を占領した勢力の指示で、日本の伝統を否定するためにである。
日本人を日本人でなくするために捨てさせたのである。
それは日本に敵対し、日本を怖れる者たちが、二度と自分たちには向かわないようにするために、日本人としての伝統や誇りを教育を通じて捨てさせたのである。
それでも日本人の魂や誇りを捨てない者たちもいる。
日本人の証は恩義である。日本人の魂を学校が捨てさせた証に、師の恩を否定した事がある。自分たちは師ではない。恩に値する人間でないと自分たちを卑しめたのである。
わが師の恩という歌も自分たちの手で葬り去った。
それによって自分の責任を軽くした。自尊心も、自負も、誇りも捨てた。その結果、誰も教育者を師とは思わなくなった。
師は友ではない。師は師である。
日本のリーダーは進み時は常に竿頭に立ち。退く時は、殿(しんがり)を見届ける。それが日本の象なのである。
誓え。仲間となる事を誓え。仲間に忠誠を誓え。そして、日本人の魂を誇りを取り戻すのだ。
2017年 元旦
結局、これから時代は、家族なんてあてにならない。
歳をとって厄介な存在になれば、結局、どこかの施設に預けられてしまうのが落ちである。
年寄りなんて足手まといになるだけである。
先があるわけで見ないし、期待もできない。
独居老人も孤独死も増える一方であろう。
そんな家族を当てにしても仕方がない。また、そういうように育ててしまったのだから、自業自得である。子供を責めたところで意味がない。。
行政だって問題とするのは、介護施設だの、介護制度ばかり。
人の気持ちなんて一向に顧みようとしない。倫理とか人生観なんて関係ないのである。
それが近代的だとする。人情だの、恩だ、義理など何の意味もない。
それが、現代人の典型である。養老猛のような、脳科学者に言わせれば、生きるなんて生理現象の一種にしか過ぎない。
しかし、人は人だ。自分の人生は自分で責任を持つしかない。
だからああだこうだ思い悩んだところで何にもならない。
結局、自分の事を認め、理解し信じあえる人間、心の許せる人達、信じあえる人、助け合える者、志を同じくする者。
だから、最後は仲間なのだと思う。
お前に死に水をとってくれと言える仲間なのである。
なぜ生きているのか、それは、志を同じくし、共に生きてきた仲間である。
どんなに貧しくとも仲間に見捨てられるような生き方だけはしたくない。
なぜ生きているのか、その答えは仲間にしか見いだせない気がする。
仲間というのは、友というのとは、また違う。
なぜなら、仲間には、仲間に対する責任や義務がある。
だから、仲間に対する裏切りや背信は許されないのである。
心を許し、信じあえる仲間。それこそが掛け替えのない存在なのだと私は思う。
だから仲間を命かけて守るのである。
それが仲間なのだ。
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