教育の理想を求めて
パーソナリティ障害
反権威、反体制、反権力的な教育をすれば、生徒が先生のいう事を聞かなくなるのは、必然的な事である。
なぜならば、学校において、先生こそ、権威であり、権力であり、体制だからである。反権威、反権力、反体制というのと、自由、平等という思想とは違う。その点をはき違えると教育は成り立たない。
学校で、十年以上も反権威、反権力、反体制思想を叩き込まれたら、社会に出てからまともな生活が送れるわけがない。
価値観は、自己の内面の世界と外界とが自己の行為、行動を通じて形成される体系である。つまり、外的環境と内的状況の相互作用によって形成される。
人格は、成長過程において経験によって段階的に形成される。
物心がつく頃に、社会や体制と相いれない思想を刷り込まれれば、成長段階で形成された価値観と社会に出た後に形成される価値観と相容れないものになるのは、仕方がない。
今の学校は、人格破綻者を大量生産しているようなものである。
パーソナル障害というのは、アイデンティティの問題でもあると思うのです。
人格の統一というのは、簡単そうで難しい。
一般に人格というのは、一人の人間の内面に統一的に存在している。一人の人間の性格は一つ、能力も一つ、才能も一つ、価値観も一つだと思われている。しかし、実際にそうならば言行は一致し、矛盾はしないように思われる。
現実は、言っている事とやっている事に違いがあるし、複数の価値観が一人の人格に混在している場合が多い。
そして、環境や状況に合わせて局面局面で違った価値観、性格が露出するのである。
しかも、複数の価値観や性格が一人の人格に別々に存在するのではなく、危うい均衡を保ちながら統合的に存在する。
複数の価値観や性格が一つの肉体にバラバラに存在したら人格は分裂する。現に多重人格という症状もある。しかし、一般に大多数の人間は、統一的な人格を保っているし、統一的な人格を保てなくなると社会生活が送れなくなる。
例えば、生活者と兵隊とは、同じ人間でも全く異質な価値観を強要される。
人の肉体は一つである。生きるという事はこの肉体の生存を何らかの形で持続させなければならない。
戦後の日本人は、予め問題が設定されていてまた、正解も一つと決められた問題を解く事ばかりを十年以上も学校で刷り込まれている。
しかし、現実の世界は、予め問題も設定されておらず答えもない。問題は、自分で探さなければならないし、答えも自分で創造しなければならない。問題はあらかじめ設定されていて答えも決まっていると錯覚している人は、自己の人格の統一性を外に求めるようになる。
自己の人格の統合を外に求めるようになると内面の世界の統一性が損なわれるのです。
なぜ、一つの人格に複数の価値観や性格が混在するのかというとそれは生れて育った環境や人間関係、何らかの事件、置かれる状況、その人の持って生まれた性格や気質、また、遺伝的要素等、色々な要素が複雑に絡み合って形成され一概にこれが原因だと一意的に決める事ができない。
大体、因果関係を一意的に決めつけられないし、決めつけてしまうのは、現代人の悪癖である。
一般に人は、人格を構成する複数の要素が複雑に絡み合っていると思うのです。
複数の要素とは、先天的な性格、遺伝子、能力、養育環境、親との関係、生活環境、幼児期の体験、身体的な障害、欠点、他人から言われたちょっとした言葉等、多種多様で何が切っ掛けなのかも特定できない場合がほとんどです。
ただ何かの事象、出来事に鋭敏に反応していることが原因だと思われる。
ですから、パーソナル障害というのは、感受性が高く、知的な能力の高い人ほど、深刻な形で抱え込んでいる場合が多いと思われます。
近代は、科学を絶対視する事で成り立っているように錯覚している人たちが多くいる。
しかし、科学の全体は相対性であり、絶対性ではない。
科学というのは、矛盾した事なのである。
矛盾していることを前提として成り立っている。
科学に絶対性を求めるのは愚かである。
かといってこの世の出来事全てが移ろいやすいと思ったら、目が回ってしまう。
パーソナル障害が深刻なのは、当人以上に周囲の人間が巻き込まれ。その結果、巻き込まれた人間までもが、何らかの精神疾患に陥る危険性が高いという事です。
典型的な事は、境界性パーソナル障害の原因が幼児期における母親とのかかわりが何らかの形で関係しているのではという事です。
ただ、全ての原因を母親に帰す危険性もあり専門家間でもかなり意見が割れていて慎重な対応が必要だと考えられています。
むろん、パーソナル障害があるから即問題だというのではない。むしろ、それを武器にして、あるいは、バネにして大きく飛躍し、社会に貢献している人も多くいる。
しかし、それが負の作用を及ぼすと周囲の人間に甚大な被害をもたらすという事である。
深刻なパーソナル障害を抱えている人がいると、当人以上に周囲の人間が傷つけられます。その結果、当人だけでなく、関わった人たちの人間関係に重大な影響を及ぼし、家庭の崩壊、友人関係が壊れたり、生活に支障をきたりします。要するに振り回されてしまうのです。
また、過度に精神にストレスがかかり、無力感、虚脱感、うつ等の症状が現れ、最悪の場合、人格の崩壊等を招きます。
ですからパーソナル障害がある人とかかわる場合は、一定の原則を作ると同時に長期にわたることを覚悟する必要があります。
最近は、当人以上に周囲の人間をケアする体制の必要性が叫ばれはじめました。
実際にかかわってみないとわかりませんが、一般の理解というのは受けられにくい。
インターネットにも載っていましたが、家庭は大変みたいよ。普段接触している人は何も気が付かないみたいだけどという状態になり。事実を言っても相手は、周囲の人間は誹謗中傷としか受け取らず。そのために、大切な友人を失ったといことは、よくある話です。
特に、境界性パーソナリティ障害の人は、自分を庇護してくれる人の気を引くために、故意にその人が嫌がる事、その人の自尊心を傷つけたり、また、浮気、リストカット、過食、拒食などをします。
愛すれば愛するほど愛する人を自分に引き付けておくために、愛する人を傷つけ、誹謗中傷をして孤立させるようなことを故意にも無意識にもやります。
今では、むしろ、パーソナリティ障害に係る人はいかに自分を保ち守りながら、矯正していくかが問題になっています。
パーソナリティ障害のある人といかに上手に付き合っていくか。いかに自分が傷つかずに接していくかそれが重要なのです。
パーソナリティ障害の問題は、障害者当人よりも障碍者を支えている理解者、庇護者、支持者に対する影響、影響というより被害が問題なのです。
境界性パーソナリティ障害の人は、見捨てられるのではという勝手に思い込みで、ひたすら、相手に必死に縋りつく。相手が右と言えば、左、ああ言えばこう言う、とにかく自分に関心を向けさせようとするから逃がしてもくれません。
しかも質が悪いのは、彼らの行為というのは全体的な事ではなく、部分的な事なんです。全体から見たら大したことない。ただ、部分にかかわった人間は救いがない。精神科医だって自分がかわいいから関わりたくないという事なのです。
パーソナリティ障害の人と問題は、価値観とか、倫理観の問題ではなくて、愛憎の問題です。
つまり、理屈なんて通用しない世界です。説明がつかない事です。周囲の人は、説明しても誹謗中傷としかとらずに、説明している人が消耗してしまいます。
ですから、悪党と遭遇するより、もっと始末が悪い。悪党ならば善か悪かの問題で片付きますが、パーソナリティ障害の人とのかかわりあいは、善とか、悪とかいう次元を超えているのです。
ですから、論理的に、または、倫理的に突き詰めても解決しようがない。だからエンドレスですし、理不尽なんです。
発達障害と決定的に違うのは、発達障害というのは、ある程度客観的に見れるのですが、パーソナリティ障害は、そういう訳にはいかないという事です。
ですから、善悪、犯罪といった類ではなくて災害の類で、被害なんですね。被害者の会があるくらいですから。
ただ、被害にあった人間も人になかなか相談しにくく、相談しても理解されにくいという事で、あまり表に現れる事はありませんが、かなりたくさんの人が被害にあっているのが実情です。
人格障害の多くの人は、学歴も高く、普段日常生活をおくるのに支障があるわけではない。
才能豊かで、不思議な魅力を持った人が多いです。
でも、ターゲットなった人間は、精神的にも物質的にも、経済的にも暴力的、破壊的、破滅的なほどの被害を受けます。
とにかく誰に説明したくても説明つかない事です。
しかも、当人は、周囲から見て率的で能力も高いとなると、話せば話すほど誹謗中傷にとられ、かえって自分が傷ついてしまう。嫌の事ですが、それが現実です。
被害に遭遇する人の多くは、善良なんです。人をなるべくなら傷つけたくない。悪口を言いたくないという人が多い。その善良さに付け込まれるのです。
しかし、決して悪口ではなく、事実なんです。
多くの人は後遺症が残り、中には、正常な生活や精神を保てなくなった人もいるくらいですから。
しかも、社会的に孤立し、地位も、名誉も、友達も、家族も、精神状態も、壊滅的に破壊されてしまう人もいるくらいですし、多くの人はPTSDや対人恐怖症等の後遺症等に悩んでいるみたいです。
被害にあう人は、優しくて思いやりがあって面倒見がいいタイプだけに結果は悲惨な場合が多いですね。
自分を責めたりしない事です。これは災害にあったような事で、一体何があったかを理解する事だと思います。理屈では理解できない事があると思います。
ただ、ターゲットとされた人の名誉のために言っておきますが、まったく責められるような事は何もありません。親子関係といったそれは強いて原因を辿ればという事で、いわゆる犯罪とか、虐待とかでないかぎり理不尽な言いがかりに過ぎません。
ですから、当人よりも周辺で被害にあった人の事を知った方がいいと思います。
いやせない、癒されない傷を負っている場合が多いですから。
体験者以外説明がつかない事ですら、理解できないというのが実情ですね。
でも理解者がいないという事が一番つらい事です。それほど理不尽で、暴力的なんです。
今日、人間関係上で、起こっている問題の多くは、同一性の問題だと考えられる。
自分の同一性を保てる人間は、少ないと思われる。
複数の相矛盾した価値観が混在していてその統一性を保つ事が困難な状態に多くの人は、陥っている。
人格の統一というのは、簡単そうで難しく。
ほとんどの人は、人格を構成する複数の要素が複雑に絡み合っていると思う。
これは一人の人格上だけでなく、社会にも言える事である。
同一性というのは、全体との一体感であるが誤解してはならないのは、個々の部分は個々の部分の個性や主体性を保ちながら全体との一体性を保つという事である。
パーソナル障害の一番の問題は自己がないという事である。
自分を保てなくなり価値観の統一性、アイデンティティが崩壊する。そして、自己としての統一性が取れなくなると複数の価値観の間を自己が揺れ動くことになる。
理性では統一性が保てなくなるから、自己以外の何者かに依存するようになる。
個々の主体性や個性を尊重性を保ちながら全体の統一性を保つという事は、個々の主体性を超越したところに存在する、個々の個性を超越した存在を想定する以外克服する術かありません。
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