教育の理想を求めて

報告は、礼儀である。



一番の問題は、決断力のなさ。
決めるべき時に決めるべき人間が決めるべき事を決めない。あるいは決められない。
それがすべて。
後で決めますというのは、逃げ。
今決めるべきことを決められない者が、後で決められる保証はない。決められない事は、決められない理由がある。
その時、何を決めなければならないのか、見極めるのが決め手。基本は、その時に決められる事を決める。
決めるというのは、決して断じる事。すなわち、気合の問題。
決して断じる事ができなければ、冷静さを失い、感情的にもなる。
決断すべき時は、決定権者に求められるのは、明鏡止水の心境。平常心である。
周囲の者は、決定権者の心を乱さないよう配慮すべきなのである。
ただ、決定権者は逃げてはいけない。

何か、誤解をしている人がいる。
決定というのは最後にする事だと…。
それは最大の勘違いである。決断というのは、全ての行為に先立ってする事なのである。
考える事でも然り。考えてから決めるのではない。
決めてから考えるのである。
考えたら決められなくなる。決めなければ何も始まらないのである。

何か、問題が生じた場合、また、問題が明らかになった場合、決定権者は、速やかに頭を実際的な事、決めなければならない事に向けて切り替えなければならない。頭を切り替えることができないと冷静さを失ったり、感情的になって全体が進むべき方向、道筋を見失い、間違った決断、指示を出すからである。
注意しておくが、不決断こそも最大の御判断である。間違ってもいいから、決断をして、指示を出す。そうしないと組織はたちまち統制を失い自壊してしまう。
自分は、いつ、だれと、何を、最初に打ち合わせ、その時、その場で何を決めるのか。その場の責任者はだれか、自分はどこを担当するのか。それまでに自分は何をしておかなければならないのかを各々が各々の立場で結論を出して行動する。
打ち合わせに臨んでは、打ち合わせの時、誰が、いつまで、何をしなければならないのか。それを誰が決めて、誰に指示を出すのかを予め想定しておく必要がある。
足下で決める事を絞り込んでおく。決めるべきことが決められない状態にしないよう、打ち合わせに加わる者全員が心掛けなければ足元は固まらない。何も決められない事のないようにしなければならない。そうしないと打ち合わせの実効力が失われ、かえって障害にすらなる。
仕事は、足元を固めておかないと、仕事を途中で空中分解してしまう。仕事というのは、真に建造物を建築するようなもので、土台をしっかりしておかないと最初から仕事全体がぐらぐらして安定性を欠いたものになる。
よく先達者に言われたのは、仕事というのは、鰻のようなもので、首根っこを押さえないと捕まらない。首根っこを押さえないとヌルヌルとしてとらえどころがなくなる。
だから、打ち合わせをしたら、打ち合わせが終わった直後に絞めておけと・・・・。

最初にきちんと決めることを決める。決めるべき事を決めておかないと何も報告できなくなる。
その時、決められる事を兎に角も決める。逆に決められない事は決めてはならない。決められない事があったら、いつ決めるかを決めればいい。わからない事、不確実な事は調べないで、確認をしないまま報告しない。憶測、推測に基づいて予断をしない。決断は事実に基づいて行う。だから報告は、事実関係だけでいい。
自分の意見は、聞かれた時、聞かれた事のみを応えればいい。そう厳しくしつけられたものである。

事の成否は初期設定にかかっている。初期設定は前提となるからである。

決断力のない者は、飛躍する。
決めるべき事が見極められずに責任を回避しようとするからである。
それが間違いの元。責任も取れなくなる。また、報告もできない。

決断できない者は、臆病、卑怯なのである。
だから、臆病者、卑怯者は、怖いし、嫌われる。

組織において決断しない事は悪なのである。考えたら決めれない。決めてから考えろ。決断は、体得するしかない。決断力を養うのは、修練だ。

実行できない決断・指示は不誠実。嘘である。最初からやる気がない。やると決めたら必ずやる。

何が決められるか。
下の者は、決められるべき者が決められるよう準備する事が仕事である。
決める決めない事は、決めるべき者の責任なのである。
ただし、全員は、結果において責任を取らされる。
それだけは忘れてはならない。

私は、報告をする習慣がなくなる一番の理由は、上司にあると思っている。
報告を受けた時、上司は、それに対応する責任、義務があると思う。つまり、結論を出してしかるべき指示を出す。これをきちんとしないと部下は報告を渋るようになる。
私は、報告を受ける時は、ものすごく緊張する。
私は、誰であろうと私が報告する際は、後先、筋道を明らかにしてから報告するように心がけている。
自分が責任を持てない事に対しては、なるべく慎重にし、要点を見極めてから報告をするようにしている。なんでもと言われたからと言ってなんでも報告していいとはいかない。

報告がされない原因の多くは、報告を受ける側の問題がある。指示と報告は表裏の関係がある。報告を受けた者は、速やかに、報告に基づいて指示を出さなければならない。報告は、報告を聞いただけで責任が派生するからである。報告を聞いたら、それに対して適切な指示を出すのは、報告を受けた者の義務である。
報告を受けた者が適切な行動、指示を出さなければ、部下は、報告を渋るようになる。
報告をしても、上司から適切な判断がされなければ、意味がないし、かえって障害となるからである。また、責任の所在もあいまいになる。

報告を受けた者は、速やかに決断し、指示を出す。それが原則です。
指示を出し、出した指示に基づいて報告を受け、報告されたことに対して指示を出す。この循環によって組織の統制は維持される。

報告は、組織の統制・秩序の基なのである。

報告と指示は裏腹の関係にある。
報告をする時は、指示されることを前提とする。逆に、報告を受ける時は、指示をすることを前提としていると言える。
指示するという事は、その前に指示者は、決断しなければならない事を意味する。すなわち、報告する側は、相手が決断できる状態にするという事が条件になる。
そのためには、報告する事がある程度整理され、しかも要領よく段取りをつけて報告する必要がある。

決められた守る。
指示された事はやる。
やった事は、報告する。

決めても指示しない。
指示されてもやらない。
やっても報告しなければ管理はできない。

報告のない指示・命令は、出しっ放しだと窘(たしな)められた。
締りがない仕事だ。報告を受けずにどうやって仕事に責任が持てる。無責任な仕事はやめろと叱られた。
報告のない仕事はやってないのと同じ。終わっていない。報告をしてない事は、いくら仕事自体は終わっていても終わったとはみなされなかった。

気まぐれ、思い付きの仕事は、指示・命令の効力を失わせる。指示者、発令者に対する信認が失われるからである。
報告はなおさらである。気まぐれや思い付きで報告されたら報告される側がたまらない。仕事は、単独の作業で成り立っているわけではなく。また、一人でやる事でもない。複数の作業を複数の人間が分担して行っている。しかも、マネージャーの多くは、実際に何らかの実作業を担っているわけではない。プレーヤーを兼ねている監督やコーチがいないわけではないが、本来監督は監督としての仕事が主なのである。
監督の仕事は、選手全体の動きを制御する事で、そのためには、選手一人ひとりの仕事や状態を把握している必要があるのである。そのうえで、いつ選手を交代させるかそれに集中しているのである。
思い付きや気まぐれで報告されたら、その担当者がやっている仕事の状態を正確に把握することができなくなり。管理不能な状態に陥るからである。

報告に嘘があったら論外である。即刻処罰の対象と見なされた。嘘があれば、仕事そのものの信認がなくなるからである。

基本的には、込み入った報告をする時は、ワンクッションを入れる。
また、打ち合わせや仕事には、糊代をつける。
ワンクッションというのは、報告する事を整理しないで上司に報告するのは、それ自体が上司に対して失礼だという自覚を持つ、持たせなければならない。

ワンクッションというのは、報告をする前に打ち合わせのような何らかの一作業や一呼吸を入れる事である。
上司に報告する場合は、なるべくワンクッションをおいて報告するのが礼儀である。
ただし、緊急を要する事とか、深刻な事はこの限りではない。
報告を受けた者が混乱したり、間違って判断をしないようにあらかじめ整理して報告をするようにする。
報告するための要件、結論、要点を簡潔にまとめ、それに基づいて当面の見通し立て、次回いつやるか、それまでに何をするかぐらいは決めてから報告する。
それに時間がかかる場合、口頭にて最小必要限度の事柄、状況報告にとどめ、その代わりいつ正式な報告をするかの目処を立てておく。状況報告は、必要最小限の事実関係にとどめ、含みやもってまわった言い方や仕草は控える。相手を不必要に不安に駆り立てるからである。
それが、報告者の最低限の礼儀だと厳しく私は、しつけられてきました。

糊代というのは、打ち合わせや会議を開く際、あるいは、作業を始める時、いきなり、本番に臨むのではなく。事前、事後の打ち合わせをする事を意味する。事前の打ち合わせを置き、事前の打ち合わせまでに、全ての作業を一旦終了させる。そして、最終確認から本番までの間に、最終調整、内部手続きなどをするのである。また、会議、打ち合わせの、作業が終了した直後に最終的な詰めの作業を入れる。作業は打ち合わせでもいい。

仕事というのは、深刻でこみっ言った話が多いから礼儀作法が重んじられてきた。しかし、戦後は、儀礼的な事、形式主義的な事が嫌われ、何でも簡略、略式が持て囃された。
日本人は、自由というと礼儀や法の様に拘束する事を嫌うと考えて。民主主義的な国は、法や儀礼を否定していると思っているが、実際は、欧米では法や礼儀は重んじられている。
欧米では、軍だけでなくビジネスの世界でも迅速な判断が求められる組織では、礼節、式典は重んじられている。
報告で重要なのは、礼儀であるから、礼節が守られなくなれば報告も廃れる。
礼節は権威によって守られている。そして、礼節は、儀式典礼、式典などによって顕在化し、修行、訓練などによつて守られている。かつては、親しき中にも礼儀ありと親子の間でも厳しく躾けられた。

よく誤解があるが、上司というのは、報告をあまり聞きたくないものなのである。報告を聞けばそれだけで責任が生じる。
だから、報告を求める上司、報告をよく聞く上司というのは、責任感の強い上司である。
それを一々報告を求める上司をとかく部下は疎ましく感じるものである。

指示、命令は、間違っているかいないかではなく。従うか従わないかの問題である。
力づくの問題である。

報告した事に虚偽がある事が明らかになったら速やかに判定する。これは話し合いの余地がないからである。スポーツの判定に相当する。判定を逡巡したら試合が成り立たなくなる。抗議があったらあとで受け付けるのである。その場は判定に従う。

近代になって一番疎まれた徳目は、礼かもしれない。

礼は、序列を明らかにし、階級秩序を固定する働きがある。
しかし、それは、礼に問題があるのではなく。その根本にある思想が問題なのである。

礼には、封建主義的な礼もあれば、民主主義的な礼もある。

礼は根底にある思想によって変わる。
礼は、思想を実体化し、顕在化させる。
共産主義国を見ればわかるが、いくら民主主義を装っても礼が絶対主義的、封建的であれば、実態は、絶対主義体制であり、封建主義体制である。

かつては、礼儀知らずと言われるのは恥とされた。今は破廉恥な人間ほど持て囃される。

礼が廃れれば秩序が乱れる。

礼が廃れると礼に変わって法に重きが置かれるようになる。
礼が守られなくなれば、法でもって取り締まるようになる。
それは世の習いである。
しかし、賢者が礼を定め、愚者は礼に囚われるといいます。

些細な事でも礼儀に反すれば相手を怒らせるが、礼に基づけば、かなり厳しい意見でも許される。

かつて報告は礼儀だとされた。
なぜならば、礼だと言われれば報告を怠る事は恥だと感じたからである。
礼が廃れた今は、礼儀だと言われると報告を怠るようになる。礼は守る必要がないと教え込まれているからである。
だから、報告を規則だとした。今度は、その規則を破ろうとする。
規則に縛られるのは不自由だというのである。
しかし、規則を失くしたら本質的に自由を失ってしまう事に気づいていない。

我々は、基本は礼儀だと言われてきた。
礼に始まり、礼に終わると。
そり礼をやれ形式的、儀礼的、封建的だと否定し、壊してしまった。
基本を壊しておいて、基本ができていないとは言えないだろう。
礼を否定していながら、礼儀知らずだと誹るのはお門違いである。

礼も、基本も上から崩れるのであり、上の者が礼や基本を守らなくなったら、不祥事を正す事はできなくなる。

報告は、責任があるとされるようになった。
故に、報告責任が生じる。

法の根本は、善悪である。礼の根本は、美醜である。
法の精神は、正義であり、礼の精神は、忠恕である。

何を重んじるかによって礼は定まる。

神への礼。徳への礼。権力者への礼。能力への礼。位に対する礼。富への礼。恩義への礼。功績に対する礼。仕事への礼。友への礼。同胞に対する礼。客への礼。上司への礼。部下への礼。
何を重んじるのか。それは礼によって明らかにされる。礼はあからさまであり隠しようがない。

権力者に礼を払えば権力者に対する隷属を意味し、金に礼を払えば、金の亡者となるのである。それは礼の問題ではなく。何に対して礼をとるかの問題である。何を重んじているのかの問題である。

礼を払うべき相手を間違えば、礼をとった相手に囚われるのである。
礼は、逆に自分を自由にもしてくれる。
徳に対して礼を払えば、徳を高める事にもなる。友をに礼をとることは、友誼、信義を重んじる事になる。親に礼をとることは、孝心を高める事となる。
神に礼をとることは、聖を崇拝する事を意味する。

礼は、自分の立場をも明らかにする。礼は立場を定める。
師への礼。年長者への礼。指導者への礼。商売人の礼。職人の礼。社会人としての礼。指導者としての礼。

我々は、報告は、礼節の範疇でしつけられた。だから、義務として強いられた事はなかった。報告しない事は礼儀に反するとされたのである。だから、報告を怠る事は悪い事というより恥とされた。
報告しなければ、すぐに報告ぐらいしろと叱られ、帰ってきて報告せずに自分に席に戻ろうとすれば、報告はと怒鳴られた。
しかし、上下関係が否定されるようになるとすぐに報告する習慣も廃れるようになった。
報告は、象徴的な行為なのである。報告を否定する事は、統制や規律を否定する事につながるのである。
この国を占領し、支配しようとする者は、礼儀を捨てさせた。
あるいは、礼をとる相手、対象を変えたのである。
礼は文化なのである。

報告の仕方、報告のタイミング、報告の手順、報告の段取り、報告先、報告内容等、厳しく躾けられた。
子供の頃はまたまだ軍隊経験者が多くいたから、指示・命令、報告の重要性が十分認識されていたのである。間違った指示・命令・報告によっていくつもの部隊が全滅したのである。

報告というのは、上司の利きたくない内容が多く含まれている。報告の仕方を間違うと重大な判断ミスを招く。いい加減な報告をすると烈火のごとく怒られた。
上司をはめようとしたら、重要な事を報告しなければいい。それだけで、上司は責任を問われることになる。

報告の作法は、実地教育でしか教えられない。なぜならば、報告をする状況は一律ではないからである。報告内容は、ケースバイケース、一つ一つが違うから経験的に覚えさせるしかない。

話の話とするな。話として聞くな。仕事として聞け。仕事にしろとよく言われた。

基本的な事は、無意識なところまで行く。基本を身につけた者は、できて当たり前であってそんなことをことさら教えるまでもない。かえって失礼であると思いがちである。
自分たちが基本だ、常識だと思っていることが社会一般で基本なのか、常識なのかを定期的に見直しする必要がある。常識は、不変的、普遍的とは限らないのである。

人は、朝起きてから仕事に行くまで一定の形を持っている。また、出がけや帰宅時、車の運転をするときも形がある。それがその人の形である。

話の話にせずに、話を仕事にするためには、形を作る必要がある。
しかし、この形という意味が理解できない。
仕事の初めには、定型的な形、作法がある。その作法を覚えないと組織は、話を仕事として認識できないのである。話を仕事に置き換えるためには、正式の指示・命令に置き換える必要があるのである。

今の学校では、上下関係を否定している。
天は人の上に人を作らず。人の下に人を作らずという言葉を曲解しているところがある。
組織上の上下関係と人としての上限関係は違う次元の事である。組織上の上下関係というのは、組織の役割、働きに基づくものであり、人の人格、品性品位を表した言葉ではない。
言葉に対してもひどい言葉狩り横行している。しかも、これらの大元、つまりは、弾圧者を探っても闇に消えてしまう。きわめて不気味な話なのである。

学校では、物事の道理とか、社会の仕組みなんて教えてはくれない。ただ、人間は平等なんだ、自由はいいことだと観念的に植え付けるだけである。平等とは、どういうことを意味するのかとか、社会に出て自由な生活をするためには何が必要なのかなどと教えてはくれない。

礼節なんて儀礼形式に過ぎないと教え込む。
だから、礼節などというと今の子は、ものすごく嫌がる。学校の先生が礼儀に反する事を教えているのだから…。
報告の仕方が悪いと叱るとあからさまに嫌な顔をする。報告の仕方なんてどうでもいいじゃあないですかと面と向かって言う。その結果、日本は堕落した。それほど報告の仕方というのは大切なのである。

私も礼だ作法だとガミガミと叱られるのは、死ぬほど嫌だったけれど、今は、ガミガミと叱ってくれた人に感謝をしている。
私にとって礼節に一番厳しかったのは、仲間、友達だった。親や先輩も厳しかったが、今の虐めとは違う意味で友達が一番厳しかった。
我々は、友達が何に対して厳しいかを知っていたからである。

いつの頃か、ガミガミ叱っても効果がないし、ガミガミ叱ること自体が悪い事のようにされてしまった。厳しく叱ると周囲から孤立してしまうし、言っても聞かないから諦めてしまった。叱っている方がめげてしまうのである。
しかし、礼節作法というのは、徒弟制度的に実地に教えるしかない。

仲間や友達は、嘘をつく事、約束を違える事、仲間を見捨てる事、仲間との誓い、困っている仲間を助けようとしない事、弱い者虐め、汚い事、特に金に対して、不誠実な事、道徳に反する事、時間を守らない事、仲間に対する裏切り行為は絶対に許さなかった。
仲間の信頼を裏切ることは許されなかった。それが礼に通じていた。

恥と言えば、臆病、卑怯が一番恥だとされた。臆病者、卑怯者と言われることを最も嫌った。
臆病というのは、いざという時、肝心な時に決断できないでしり込みする事、苦しい時、追い詰められた時に仲間を見捨てて逃げ出すものを言う。
逆に、勇気ある者、決断力のある者に対しては、自然に皆、それなりの礼をとった。

それは学校に上がる前の子供ですら、自然に身につけていた。
臆病、卑怯な態度はとるまいと…。

報告を重視しているのは、何も日本だけではない。欧米のビジネスではプレゼンテーションが重視されている。プレゼンテーションの技術というのは、いわば報告の技術である。

言っていいこと悪い事この事も厳しくたしなめられたものですが、今は、なんでも心に思ったことは口にする。
言っていい事、悪い事を見極めるそれが礼の根本である。
それを叱ると今度は何も言わなくなる。だから、報告を黙って受けろという論法になるのですが、これも困った事です。
まあ、言っても詮方ないと思うのですが・・・。

それに、最終的には、その人その人のモラル、人間性に帰結するのです。
そこを正さない限り、何も解決できません。だから、信仰や道徳の重要性を言うのですが、それもなかなか理解されない時代になりました。

なぜ罪を犯すのか。最初は、悪気なんてない。悪いと思ってはいない。

罪の始まりは嘘をつくことかもしれない。

嘘にも二種類あってとっさにつく嘘と確信をもってつく嘘ですが、とっさについた嘘だからと言って甘く見ることはできません。嘘は嘘なのです。
とっさにつく嘘の多くは、言い訳ですが、嘘をつくと言い訳がいいわけでなくなり、不正になってしまいます。
人はなぜ、不正、罪を犯すのか。突き詰めてみると人間性や人の弱さに行きつく。

要するに最初は、出来心なのである。
これくらいならという甘さなのである。
自分は大丈夫という傲慢さ、油断である。
そういう心の隙をついて罪は忍び寄る。気が付いた時は抜き差しならないところに追い込まれているのである。

自分の弱さを克服する手段の一つが礼節なのである。

克己復礼。

礼節を忘れる事は、自分に負けた証拠。
礼がなくなれば、けじめもつけられなくなる。
指示。命令も威力を失う。そうなったら、指示・命令を執行するに際しても暴力的にならざるを得ない。
礼節のない指導者は、暴力的なのである。だから抑えがきかなくなる。それを暴君というのである。




執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。

形に学ぶ。形を学ぶ。形で学ぶ。
形について
管理はプロセスである。

決めてください。



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