教育の理想を求めて

何事も最初が肝心


何事も最初が肝心なのである。
何から始めるか。それがわからなければ何も始まらないし、始めに間違うと後ずっとその間違いが尾を引くことになる。

何から始めるのか、どこから着手すべきなのかそういった肝心な事は、誰も教えてくれない。

だから何時までたっても、何も始まらないし、とんでもない方向に進みだすし、予期せぬ結果ばかりが出されて、自分の希望はいつまでもかなえられない事になる。

始まりは実際的である必要がある。しかも始まりは鮮明でなければならない。
具体的にいつどこで誰が始めるのかが明らかにされていなければ始まらない。

始まりには形がある。
終わりの形は判然としない場合があるが、始まりに明確な形に則って始める必要がある。

始まりとは開く事だからである。
始まりは開始である。終わりは終了、納める事である。

始めで開いて終わりで閉じる。
それが原則である。

始まりとは道筋をつける事である。
最初にボタンを掛け違うと最後まで合わさる事はない。
何事も最初が肝心なのである。

ところが今の学校では、始まりを曖昧にし、判然としない事にしようとしている。だから、けじめがなくなる。子供たちが無計画で無責任になる。

始まりとは、最初に何をするかである。
子供たちは、一人で勉強をさせらせれる。共同で勉強をするわけではない。
一人の先生が前に立ってひたすらに教える。

出だしの作業なんて難しい事はない。
ところが何をしていいかわからない人は、結末を考えて今できないという。
結論を出せと言っているわけではない。最初をどうするかを聞いているのである。
ところができない人は、結論が出ないからできないという。
最初から結論が出せれば苦労はしないのである。
仕事のできない者の多くは、その辺がわからない。

我々は、最初の処でまごまごしていると四の五のの言わないでとにかく始めろと叱られた。
ああでもないこうでもないと言い出したり、つまらない思惑に囚われたら始まらないのである。

勝手にああだこうだ想像して悩みだす。
それで、できないと泣き言を言い出す。
やってみなければわからないのに、やる前から投げ出してしまうのである。

まず最初に何をやるかを明確にしないと始まらないのである。

始まりを難しく考える必要はない。始まりは簡単にしておくことである。始まりを難しくすると誰も始めなくなる。

始まりを難しくすると始めない口実を作るだけである。

だいたい、仕事がうまくできない者は言っている事とやっている事が違うからである。しかも当人に自覚がない。だからいつまでたっても改まらない。

言行一致というけれど難しい事を言っているわけではない。言っている事と行動を一致させければいいだけである。
約束を守ると言ったら約束を守ればいいだけである。

始まりを明らかにするのは、チームワークの鉄則である。
しかし、一人仕事に慣れたものは、始まりを曖昧模糊としたものにしたがる。

そして、仕事を管理しようとすると干渉だと言い出す。
始まりを明らかにすることは干渉ではない。

団塊の世代は、頭をつぶした。
違うとか、そんなこともできないのかと最初に馬鹿にしたり起こったりした。
だから、団塊の世代後の者は、頭、つまりは、始まりがわからない。
なんとなくはじめて、なんとなく終わる。
ダラダラ始めて、ダラダラ終わる。

学校から始礼、終礼を失くし。
とどめに予鈴を失くした。
団塊の世代に言わせれば形式だからという事である。
なぜ形式は悪いのか。

封建的と、軍国主義的と訳の分からない事を言う。

頭をつぶしたとこで集団は規律を失くして、制御できなくなった。
しかし、その事を認めようとしない。
彼等は、組織の統制を嫌ったのである。

今、やる事は何か。
今、できる事は何か。
それがわかれば始められるのである。
少なくとも、最終結論を出す事ではない。
最終結論を出したら始める前に終わってしまうのである。



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