教育の理想を求めて

リーダの在り方。奴働き。


日本の歴史を見てみると強力なリーダシップを持った指導者をあまり認めてこなかったという傾向が読み取れる。

唯一強力なリーダーと言えるとしたら織田信長くらいかもしれない。

強力な指導者とか、権力というのは、忌み嫌う傾向がいい意味でも悪い意味でも随所に覗われる。

ただ日本人は、何事も集団で行動するともいわれる。
つまり、日本人の行動は、指導者なき集団に付き従っているという構図が見て取れる。

その結果、リーダーシップの在り方という者を指導されてこなかった。

自分たちは、奴働きばかりさせていたら人は育たないよとよく注意されたものである。
奴働きというのは、一人で決められた事を決められたとおりにしかできない者たちの働きを言う。

つまり、奴働きというのは、単純反復作業や定型業務に適している。

確かに、仕事を習い始めた当初は、単純反復作業や定型業務によって仕事の基本を身につける。
それによって仕事の基本、形を修得するのである。

仕事には形がある。しかし、その仕事の形を理解していない。認めようともしない者が増えている。そのために、仕事のリテラシーがわかっている者が少なくなった。

組織的に仕事を進めようとしたら形を作る必要がある。
特に、仕事を組織的に進めようとしたら仕事の形をどう作るかが、仕事の正否を握っているといっても過言できない。

特に、組織的な意思決定、組織的な意思の統一、それに基づく統制、規律といった問題、権限や責任、手続き、形式、常識が悪いという思い込み、先入観、偏見があり、組織の規律が保てなくなっている。

意思決定の場を設定する必要がある事さえ理解していない。
物事をどのような手順に従ってどのように処理するかの基本が理解されていないのである。

組織というのは、複数の作業が常に、同時並行的に進んでいる。
それが前提である。同時並行的に進んでいる仕事が個々パ゛ラバらに何ら関係性もなく、連携もされずに進行すれば、収集つかなくなるのは明白である。
故に、要所〃を調整し、差配し、束ねていく必要がある。それがマネージメントである。
要所〃を束ねるためには、それなりの仕来りや掟がある。それらが公式化されれば、慣習となり、礼儀ともなる。この様な規範、掟、慣習、礼節を古い因習だとして否定してしまえば、組織が成り立たなくなる。それを形式的だとか、伝統的、因習だと否定してしまったのが団塊の世代である。しかも彼らは、次の世代に仕事を引き継いでいかなかった。
なぜならば、彼らは、反体制、反権威、叛逆の世代だからである。

だから、団塊の世代の下で奴働きをしてきた者には、組織の規律や掟、定石といった決まり事わからない。

常識にとらわれるなと指導しておいて常識がないと責めるのはお門違いである。

資料や段取りをするにしても責任者、中心を明らかにする必要がある。
ところが個人のために仕事をしたり、個人に権限を与えるのは、独裁的だと否定して、責任の所在を明らかにできないように、公立の学校で教育している。これは深刻な問題である。

誰のためにというと皆のためにとか。人々のためなどと言ったら中心を欠いてしまう。
指導者は誰かを明確的にするのと、独裁的というのは、本質が違う。

同様に、組織的に行動する事を強要する事と、全体主義や独裁主義とも違う。

集団活動をするためには、それを束ねる指導者が必要なのである。その指導者がいかに組織を運用するかは、主義主張の問題ではなく。技術的問題である。

まず責任の所在、担当者を明らかにする。

会議を開く際も、責任者や担当者を明らかにすることができない、嫌う傾向がある。これも学校教育である。人を同等に扱う事と平等に扱う事の意味が理解されていないのである。

誰が中心か。誰のために作る資料か。誰のために準備するのか。
また、誰が責任をもって準備するのか。誰が、責任をもって作成し、誰が責任をもって確認をするのか。
それを明らかにしないと、実際的な仕事の準備はできない。
会議を主催する者、責任者の仕事は、会議が開ける状態にすることなのである。
会議の日と時間を決めるだけで、会議が開けるように準備をしなければ、会議を主催しているとは言えないのである。その基本的な事さえ理解されていない。
だから、会議の出席者だけ書いて責任者も事務局も明らかにしない会議、打ち合わせが横行するのである。

それに何の不思議も感じない。異常である。

皆為とか、社員のためというのは一般論としては成り立つが、個々の作業を確定する為には意味をなさない。
実際の作業をするにあたっては、それぞれの役割、分担、更に、責任と権限を明確にしないと実際の段取りはできない。

会議は、決定権者、責任者のために開くのである。決定権者が決定できないような会議は開く意味がない。
故に、資料も準備も、決定権者の目的にそうものでなければならない。
ところが何の準備もせずに、あるいは、自分勝手な資料を作ってなんの恥じる事もない。これでは仕事をしたとはいえない。
準備や資料を必要している者の目的に沿って必要としている者の指示に従って資料も準備もするのである。
それを任せられたからという理由で、責任者や決定権者の意向を無視して作業を進めてしまう。これでは本末転倒である。

まず主催者の目的や主旨を正しく理解する事から仕事に取り掛かる必要がある。
また、そのための主旨目的である。
ところが主催者にもなぜ、主旨目的を明らかにしなければならないのかを理解していない者がいる。
そのために、会議が本来の主旨、目的から逸脱し、とんでもない結論を出したり、会議が単なる茶飲み話に終わってしまっているケースがよく見受けられる。

これは、仕事以前の問題である。



執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。
事前の準備

基本は形にある。



                content         

ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2016.8.19 Keiichirou Koyano
教   育