教育の理想を求めて

社会に出てから困らないわうにするためには


教育の基本というのは、社会に出た時に一人の社会人として生活ができるようにすることであり、社会に出た時に困らないように躾をしておくのが親や保護者、学校の先生の勤めだと教えられてきた。
ところが、我々以後の世代は、間違ったことを学校で躾られたために、仕事の基本が狂ってしまっている。常識が狂ってしまっているのである
この点を理解していないと社会にでてからまともな生活ができなくなる。
なぜならば社会人として必要な事の根幹を間違って教えているからである。

まず社会に出たら、自分が社会から何を求められているかを正しく認識する必要がある。
そのためには、相手が言っていることを正しく理解する事が第一に求められる。

相手の言っていることを正確に覚え再現するというのは、大変な技能、能力を必要とする。しかし、それがすべての基本である。相手の言っていることを一いち変えていたら、大変な労力を要する。第一、相手の言っている事を理解する事はできない。反論すらできない。

ところが自分の考えが固まらない子供のうちから自主性を重んじてとか、相手の考えを尊重しと言われて自分の考え持つ事や意見を言う事を求められる。酷い時は、小学校に入学する以前、五歳にもならないうちに自分の考えを持てと強要されたり、責任を持たされたりする。一般に、どんなに個人主義的、民主主義的と言われるような国でも基本的には、成人に達するまでは、大人と同等の責任は持たされないかわりに、権利も与えられない。それは、成人にならないうちは、自己が確立されていないとみなすからである。

価値観や道徳は、幼児期は、親や保護者の言動や行い、躾され、模倣する事によって学習し、身につける事なのである。

物心のつかない幼児を大人と同等に扱い、責任を持たせること自体無理があるのである。

ところが我々は、子供の内から自主性だの主体性などと言って自分の意見を持て強要された。

しかも、自分の意見とは、人と違う事とか、反対の事とかだと吹き込まれ。なんでも疑ってかかれとか、相手の言うなりになるな、常識にとらわれるなとか、1+1は必ずしも2ではないとか言われたら、何が自分なのかを見失ってしまう。

自分の意見を持てと言われても自分が確立されていなければ自分の意見なんて持ちようがない。自分が確立されないうちに、人と違う考えを持てとか、まず疑ってかかれとか、反対意見や批判精神を持てなんて吹き込んだら、意味もなく相手の意見に反対したり、疑ったり、違う事を言おうとする。

自分の意見をもてというのは、人の意見を素直に聞いてはならないという事とは違う。
むしろ、相手に対して素直にならないと自分の意見は持てない。

そのために、多くの同世代や後輩たちの多くは、自分の意見考えをもつという事を自分の言葉で言えというように受け止め。そして、自分の言葉というのは、相手の言った言葉と違う言葉に置き換える事だと勘違いをしている。
彼等は、人の言ったことを言い換える癖がついてしまい、ことあるごとにいった事を言い換えようとするのである。こういう癖を植え付けられた子は。素直に相手の意見を聞くなんて馬鹿らしく感じるようにさえなる。

彼等にとっては個性というのは他人と違う事を意味しているのである。これは厄介である。厄介であるうえに、潜在意識に植え込まれているために牢固として頑固なのである。
彼らは、逆らっている意識はないが現実に逆らっているのである。

なぜなら、個性は、他人と違うことだと刷り込まれている。
だから、個性を出せと言われたら人と違った事、変わった事をしなければならないと思い込んでいる。
だから、指示されたことと違う事をしようとしたり、少し変わったことをしなければならない、手を加える必要があると決めつけているのである。

人と同じことを言ってはいけないと決めつけている。
だから意見といえば反対意見を意味する。

皆と同じことをしていたら目立たないよ。
目立つ事をしろ。

他人を尊重しろ。他人の意見に従え一見問題は、なさそうに聞こえるが、裏を返すと強制、強要はするなとなる。しかし、強制、強要のない社会なんて存在しない。なぜなら、どんな社会にも最低限の取り決めや法があるからである。強制力のない取り決めや法は意味がないからである。

他人の意見を尊重しろというのは間違いではない。しかし、その前に自分の意見立場を確立しておくことである。

相手の意思を尊重し、干渉してはならない。
それは、相手の意見に無条件に従う事を意味しているわけではない。

これらの思想はすべて叛逆の思想なのである。
その思想を思想としてではなく、社会一般の常識だと学校もメディアも流し続けているのである。おかしくならないはずがない。

我々の学生自体は、学園紛争の真っただ中にあった。我々の世代が言う、戦前、戦中、戦後というのは、学園紛争の後先を意味する事さえあったのである。

時代はエログロナンセンス。
先生のいう事を聞く奴は、馬鹿だし。
愛国心なんて言うやつは狂っている。

叛逆、反抗。

我々は、反戦、反米、反体制、反権威、反資本主義を是とし、逆らう事ばかりを教えられてきた。根本的に下地となっている思想は革命思想なのである。
テロを是とし、暴力を是とし、謀略、陰謀を是としているのである。
なぜならば、彼らは唯物論者であり、無神論者だからである。
だから、我々の世代の多くは、世界は無神論者や唯物論者が多数派を占めていると思い込んでいる。

しかも、過去の日本人は、悪い事ばかりをしてきたと言われたら、自分を否定的にとらえる事ばかりで肯定的な事は何もない。

この様な思想や発想を我々が体の芯まで叩き込まれた。その一例をあげれば、常識にとらわれるな。なんでも疑ってかかれ。だから素直に相手に意見なんて聞けない。どこか斜に構えての考えに批判的になろうとする。
何かにつけて反論をしなければいけないと思い込んでいる。

考えてから決めろというのも間違いである。
考えたら決められない。
決断というのは感情作用である。決断し瞬時にできる。
よく考えたうえで決断する事を否定しているわけではない。しかし、よく考えたからと言って決断できるわけではない。考えすぎはかえって決断を鈍らせる。
決断は、決して断じるのである。決断は気合でする。

人の迷惑にならなければ何をやってもいいというの考えものである。
こんなことばかり言われたら他人の迷惑が価値基準になる。
戦後の日本人は、他国に迷惑をかけた迷惑をかけたと責められる。
しかし、自国の独立・主権を捨ててまで、迷惑をかけないように気遣う必要があるのか。
それは欺瞞である。

話し合えばわかるりあえるとなんでも話し合いで決めようとする。
しかし、信じている事や価値観が違えば話し合って分かり合えない事もある。
民主主義は、話してもわからないという事を前提として成り立っている。だから、話し合いのルールを決め、そのルールに従って話し合い決定するのである。

相手の言っている事、指示した事を正確に再現できなければ、指示されたことを正確に実行する事はできない。
また、相手の真意を理解する事もできない。

しかし、言われたことを言われたまんま言うように指示すると馬鹿にされたようにすら感じるようになる。これは、我々の世代以後の宿痾のようなものなってしまっている。

こんな考え方をしていたら指示されたことを言われたとおりにできなくなる。
言われたとおりにやってはならないとか、言いなりになってはならないと思い込んでいるからである。
自分の考えを持つという事、自分の言葉で話すし言う事を勘違いして言い換えたり、一言付け加えたりする。こうなると相手の言っている事や指示を正確に再現する事ができなくなる。

一番障害になるのは雑音である。
いろいろなノイズが組織の指示命令系統に入り込んでくる。それが、時として組織全体の統制や規律を乱すからである。

次を意識して仕事をすれば仕事の目的が見えてくる。特に誰に報告するのか。誰の指示を仰ぐのかを意識すると仕事の筋道が見えてくる。

リーダーは自分に合わせさせるという事ができなければ駄目である。
リーダーは、仕事作業の基準であり、中心にいなければならないからである。

組織においては、頭がいいとか、なんでもできるという事は必ずしも褒め言葉にならない。逆に、馬鹿だとか、できないというのは、必ずしもけなしたり、誹っている事にはならない。

それもまた個性であり、個性に従って組織は、それぞれに役割を準備する事ができるからである。
そして、それが組織の効能なのである。



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