教育の理想を求めて
指示・命令
我々の後輩達は、奴働きだけをさせられて、仕事を差配するような仕事をなかなか任されてこなかった。
奴働きというのは、言われたことをただ、忠実に実行する事を求められるような仕事である。
何らかの全体的な仕事を任されるのではなく。部分的な単位の作業を任される。その場合限定的な責任しか生じない。
それに対して、組織全体、またはある特定の部署、部門を運用を任せられた者は総括的、包括的な責任が持たされる。それは、組織全体の統制や制御に対して責任を持たされることを意味する。
それ故に、管理者は包括的な権限が与えられる必要があるのである。
我々の後輩、団塊の世代以降の世代の者は、団塊の世代の層が厚かったために、組織全体や一定の部門に対し責任を持たされるような仕事を与えられてこなかった。
彼らがまかされたのは、限定的で、部分的な作業である。この様な仕事を奴仕事という。
この様な仕事は、定型的で限定的であるために、主体的な判断を求められることはない。
指示された事を忠実に履行する事だけを求められる。
責任ある判断、自分独自の判断、主体的な判断は要求されない。必然的に問題意識を持つことは禁じられる。
これは、今の学校教育にも適合している。
生徒は、予め正解を設定された問題を与えられ。与えられた問題をただひたすらに解く事のみを要求される。
それは、単純反復的な作業でしかない。
この様な作業を管理するためには、定型化された手法によるのが最も効率的である。
それ結果、管理は定型業務だという錯覚が生じたのである。
本来の管理は、創造的な作業であり、独自の考え方や主体的な判断が求められる。
なぜならば、主体的な判断に基づかなければ、変化する内外の状況に適合できなくなるからである。内外の変化に対応する事ができなければ、責任を果たす事ができなくなる。内外の変化に対応するために、管理者や指導者は包括的な権限を持たされるのである。
権限と責任、権利と義務は一対の働き、表裏の働きなのである。
包括的な権限を与えられたものは、必然的に立場的に、指示する側ではなく。指示される側に立たされる。
包括的な責任を果たすためには、決定権、命令権、報告義務を与えられる必要がある。
すなわち、決定し、指示し、報告をさせる権限である。
管理の要諦は、第一に、決められた守る。
第二に、指示された事はやる。
第三に、やった事は、報告する。
この三つに要約される。
この三つの要件を実現するためには、管理者は、与えられた範囲の仕事に関する強制力を持たされる必要がある。この強制力の根拠が権限である。
決定し、指示し、報告をさせるこの三つの基本的要件が履行されなければ、組織を制御する事はできない。組織を統御できなければ責任を果たす事はできない。
決めても指示しない。
指示されてもやらない。
やっても報告しなければ管理はできない。
この三つの要件が履行されない原因の多くは、個々人の怠慢である。
しかし、この三つが守られなくなれば管理や規律は、維持できなくなる。だとしたら、なおさらのこと、個人の怠慢は許されないのである。
命令権というのは、決定権同様、組織を統御するうえで不可欠な権限である。
決定しても命令する事ができなければ組織は動かないからである。
指示・命令は、発令者と受令者からなる。
発令と受令は、発令する者と受令する者の組織内における立ち位置から規定される。
故に、どの様に指示・命令も発令者と受令者を明らかにする必要がある。
発令者発令した事に対し、受令者は、受令した事に各々責任が生じる。
すなわち、発令者は、命令した事に対する管理責任が生じ、受令したものは、受令した事に対する実現、遂行責任が生じる。
この発令者と遂行者に対する責任によって報告の義務が生じる。報告の受令者の義務であり、発令者の基本的権利である。これは、権限や責任とは異質な行為である。
すなわち、報告は義務である。
決めると言っても組織には、決定の仕組み、仕方、手順、手続きなどの形がある。
この形が頭の中に入っていないと組織的な決定はできない。
また、決めた事を指示する為にも仕組み、仕方、手順、手続きがある。
そして、やった結果を報告するのにも仕組み、仕方、手順、手続きがある。
この形、形式を現在の学校教育は否定している。
そのために、子供たちは、社会に出てから組織的な行動をとれずに困っているのである。
指示・命令は、指示者、命令者だけで成り立っているわけではない。
受令者の意思や事情と重ねあう事で成立するのである。
だから、指示、命令を受けたら直ちに、指示・命令を箇条書きにして確認し、そのうえで具体的にどう進めるか、段取りについて詰める必要があるのである。
指示者は、決定に際して、いかに指示を出すかを考える必要がある。
奴働きが長かったものは、この点が理解できない。
なぜならば、奴働きをしてきた者は、指示されたことを忠実にやる事ばかりを強制され。
自分が指示を出した経験がないからである。
だから、指示の出し方がわからない。
これが深刻なのである。
単に、指示、命令を聞いただけで「わかりました。」というのは、ごまかしである。
指示・命令は、その内容が履行されて始めて効力を発揮する。実行されなければ指示・命令は無効なのである。
指示・命令は、言葉の意味を理解しただけでは理解した事にはならない。
実際に指示、命令を実行できるところまでかみ砕いてこそ指示、命令を理解したと言えるのである。
行動レベル、作業レベルまで咀嚼して初めて実行される。
指示・命令をわかりましたという場合、最低限、まず指示・命令を確認し、自分が何をいつまでにどのようにするのか、そのうえでいつまでに誰に報告したらいいのかを確認しない限り理解したとは言えない。
作業には、始まりと終わりがある。作業は、指示、命令に始まり、報告で終わる。
一つひとつの指示には、いつ、どこで、何を、なぜ、どのように、誰が行うのかの要件がある。
指示、命令は、必要な要件を満たさないと効力を発揮できない。
指示、命令の妥当性は、一つひとつの指示の前後の作業との関係によって判定される。
一つひとつの判断を検証し、それを決断に結び付けていく。一つの仕事を成し遂げるためには、それを構成する作業単位を構成する要素の数だけ決断をしなければならない。
しかも、作業には順序があり、前後があり、組み合わせがあり、並行作業がある。ちょっとした変更や間違いでも仕事全体に連鎖的な影響を与える。
些細な決断のミス程、かえって動揺を支える。些細なミスだからである。だからこそ、一つ一つの判断を検証する必要があるのである。
そのためには、仕事を成就するために必要な作業を漏れなく、重複なく、全て洗い出す必要がある。
そして、それを手順に並べ、順序を組み立て、人に割り当て差配する。
我々の世代には、指示・命令は悪いと洗脳されている。なぜ悪いのかと言えば、強制されるとか、権力的だとか言う理由である。
しかし、強制的だからと言って意味もなく否定するのはおかしい。大体強制のない社会はないし、強制力のない法は、効力を発効しない。
強権的で、強制的だと刷り込まれた人間は、指示・命令を頭から受け付けようとしていない。そのために組織の統制や規律が失われつつある。
それは組織が溶けているようなもので、組織が土台から崩壊している事を意味している。
組織は、指示・命令で動く仕組みなのである。
命令は、訓令と号令からなる。
訓令とは、命令者の意図を明らかにする部分である。
号令とは、担当者、履行者がやるべき作業の具体的な仕様を構成する部分を指す。
訓令とは、主旨目的、方針、すなわち、なぜを構成する。
号令は、要件によって構成され、必要な要件を満たしていないと命令は、発効しない。
必要な要件とは、誰が、誰に、いつ、どこで、何を、どの様に、どうするのか。それに必要な資源、資金は何か等、俗にいう、5W1Hを指して言う。
訓示と号令が合わさって命令となる。
指導者、管理者がまずやらなければならないのは、自分の考えを部下に写しかえる事である。
これは単に指示を伝えるという事ではない。文字通り、自分の考えや構想を部下の頭にするこむことである。
やるべきことが決まったら、発令者は、誰にいつ誰からどのように伝えるか、指示するかを決めようとした。
しかし、今は、指示・命令を出す事すら否定されているから、ほとんどの子は指示・命令の出し方、受け方を訓練されていない。
だから、やる事が決まるといきなり、何をすべきかという議論を始めてしまう。
そうなるといつまでたっても指示が出ない事になる。
やる事が決まったら速やかに指示を出さなければならない。決定事項には鮮度があるのである。
指示・命令が出ないと担当者は、自分勝手作業を始めてしまう。そうなると作業を管理する事ができなくなる。
だから、仕事は、指示・命令によって始める必要があるのである。
発令者は、仕事の全体像をつかんでいないと指示・命令は出せない。
決定事項には、あらかじめ用意できる事とその時、その場に遭遇しないとわからない事がある。
しかし、何も決められなければそれを実行に移す事はできない。
故に決めるべき事は、その時点で決められることに限定される。
この点も正しく理解されていない。
例えば日程である。最終的期日が決められなくても、方針は決める事ができる。
全行程を決められなくても次いつやるか、次回の打ち合わせの事を決める事はできる。
次いつやるかが決まれば、その時のメンバー、それまでにやってくることを決める事ができる。
この様にして、実際の仕事は、その時点、局面において決められることから決めていくのである。そして、決められた事に基づいて具体的な指示の内容を決めていく。
指示は、その曲面毎の必要性から成立している。
故に、その場、その時点の状況を正しく認識していないと指示・命令を理解する事はできない。
指示・命令を理解するというのは、言葉の上で理解するだけでは不十分である。
指示・命令の背後にある目的、指示者の真意を理解しなければ、真の理解ではない。
発令者の真意を理解しただけでは、指示の正当性は評価できない。指示の正当性は、その場の状況に制約されているからである。
指示者の真意を理解するためには指示されたことを具体的な行動、作業に起こす過程で確認する必要がある。
そのためには、繰り返し指示されたことを確認する必要がある。
指示者の真意、主旨目的を理解し、更に共有するためには組織的な作業が必要となる。
最悪なのは、決定者だけが決定事項の主旨や目的を知っている場合である。
受令者は、発令者の真意を知るためには、発令者の意見を聞いてレポートにするとか、通牒や提案、説明を作業上で繰り返たり、レビュー、会議、オリエンテイション、勉強会等を催して組織に浸透させていく必要がある。それが発令者の構想を共有化する事であり、その手段として見える化がある。
組織的に決め、組織的に執行していくのである。
ところがここに厄介な事がある。
我々の後輩、五十代以降の人間には、一度指示した事を伝えた直後に確認をとるのは失礼だと躾けられている事である。
一度指示したら相手は理解しているはずだから、それを聞くのは、相手に失礼だと思い込まされているのである。
しかし、我々は、一度言ったくらいで理解できるはずがない。一度聞いたくらいでは理解できないというのが前提である。
この差は決定的な差になる。
まず、一度聞いて理解できないという事を隠すようになる。その為に確認とる事、確認をとられることを怖れるようになる。
その上に、相手の自主性、主体性を重んじてという事を言われると指示を出された者は確認をとられることを恥ずかしいと思うようになり、指示した者は、確認をとる事は悪い事、失礼な事だと思い込むようになる。
これは、我々の世代、団塊の世代に責任がある。我々の世代は、組織上の上下関係そのものを頭から否定した。さらに言えば強制も悪い事だと追い打ちをかけている。故に、指示そのものを否定しているのである。
組織は、各自の自主性や主体性で動いているなんて事になったら組織は、最初からバラバラである。
そのために、執拗に最初に確認をとられることを極端に嫌がる様になる。
わかっていないのに、わかっていない事を隠そうとする。
理解していないのに、わかったつもりで作業をすれば、必然的にてんでんバラバラに仕事をすることになる。
そうなると最初に確認が取れないから結果だけを追いかける事になる。結果が出てからでは、行動は管理できない。だから、結果だけで物事を進めようとする。
行動管理は、過程を管理する事である。始まりをしっかりさせておかないと管理はできないのである。
一度聞いたくらいでわかるわけないじゃあないか、一度聞いたくらいでは分からないと思うから、確認・確認・確認になるのである。
そして、最初をしっかりと設定するから管理が可能なのである。
だから復唱する事が励行された。
確認する事は、相手を馬鹿にすることでも疑っている事でもないのである。
指示は、指示された言葉だけを理解しても理解した事にはならないのである。
そんな事言われなくてもわかってますよ。くどくどしつこいなわかっているよと言ってしまえば、後がなくなるのである。聞かれる事も聞くこともできなくなる。当たり前に管理はできなくなる。お互いにわかっていないと思うから、まず理解する事に専念する。
そんなに確認とらなくてもわかってますよ。馬鹿にしないでくださいと思うのは、確認されて馬鹿にされたと思うからである。それはそんなこと一度聞けばわかりますよいう思いからである。
しかし、実際は、一度聞いたくらいでは分からない。
口頭で確認し、紙に書いて確認し、仕事にして確認する。
それが当たり前なのだと思えば腹も立たなくなる。
指示を出す側の人間は、指示を出す前に確認し、指示を出すときに確認し、指示を出し後確認し、仕事を見て確認する。そのために指示を出した人間だけが゜理解しているという事になりかねないのである。
それがはじめ肝心という意味である。
それに分かったと一度言えばわかったといった手前、わかりませんとは言えなくなる。
だから、基本的には、一度聞いたくらいでは分からないという事を前提とすべきなのである。そこで結論や指示事項を紙に書いて確認し、口頭で確認し、そしてさらに仕事に置き換えて確認したうえ、実際の仕事に入っていくべきなのである。
安易にわかりましたなんて言うと、本当にわかってんのかじゃあいつまでにやってくんだ。俺はいつまでにやってこいと言ってないよと、故意に要件を外されて「空返事をするな。」と怒られたものである。わかるまで確認をとってから作業に入れと口喧しく指導された。
わからないのに、わかった振りをしたり。その場で確認をとらずに阿智で確認を取りに行くと叱られたものである。
また、仕事、作業が終わったらすぐに報告しないと、報告はと怒鳴られた。
報告しない事はやっていない事。そう教えられた。
だからやってありますよという返事はあり得ない。なぜならば報告していない事が明らかだからである。
わからないという事は恥ではないが、わからない事をわかりましたと言ってわかった振りして仕事を進める事が悪い事なのである。
とくに、エリートと言われること達が陥る事の一つに、自分がわかっている事は、皆、わかっているはずだ。わかっていないはずがないと思って強引に仕事を進め、いつの間にか孤立してしまう事である。当人は悪気がなく、相手を気遣っているつもりでも、わかっていない者にとって気遣いそのものが馬鹿にしていると捉える者もいるのである。
基本は一度聞いた程度では分からないし、実際、やってみないとわからない事だらけなのである。
戦後学校では、指示・命令は、強制的だから悪だと決めつけている。なぜ、指示・命令は、悪なのかというと強制力があるからだという。
しかし、強制力のない組織、社会はない。強制力が悪いのではなく、強制的な働きを制御するための相互牽制の利かない仕組みが悪いのであり、正当性のない、理不尽な指示命令が悪いのである。
権限や責任、義務や権利が明らかでない組織、公の権力を認めない社会は、個人の力、暴力的な力、私的な力に依存せざるを得なくなる。
公の力を否定する事は私的力を無条件に肯定する事を意味する事を忘れてはならない。
法に基づかない力は、公的な力にせよ、私的な力にせよ、無法な力である。法治を前提とする社会では無法はな事は、正当性を持たない。更に、国民国家では、公的な力と私的な力では、公的な力しか正当性がない。
今の学校教育は、無法を承認し、私的な権力を肯定しているような事である。それは無政府主義である。今、学校教育の改革を担っている者たちの思想は無政府主義的なのである。無思想の思想というのは、無政府主義の亜流である。
我々は、学校に入るとすぐに号令の出し方、受け方を教えられた。
しかし、今日の学校では、号令そのものを否定している。
だから、予鈴、始鈴、終鈴すらなくなってしまった。
だから、今の子は号令の出し方儲け方もわからない。
それは今の子が悪いのではなく。号令の出し方、受け方を教えなかった我々が悪いのである。
国民国家、民主主義国である今の日本の義務教育において教えなければならないのは、国民国家、民主主義国家において何が正しくて何が間違っているかである。ところが、今の日本の学校では、これは教えてはならないと思い込んでいるし、我々もそのように教えられた。
これは、反体制、反権力、反権威主義の思想である。しかも、強烈な思想である。
彼らが、学校教育で民主主義の基本を教えてはいけないと主張するのは、一部の思想に偏っるのは民主的でないという理由だが、そう主張する彼等こそ、思想的であり、しかも、偏った思想の持ち主なのである。
中でも、社会や組織の一員になったら、指示命令に従わない事は、悪であるという事はしっかりと理解させておく必要がある。むろん、無条件に指示・命令に従えというのではない。
違法な行為や自分の倫理観に反する指示・命令を除くという前提の上で、権限、権利のある者の指示・命令に従はなければ犯罪としてみなされる。これが契約社会、法治国家の前提であり、国民国家、民主義は法治を前提とした体制だという事を、社会人となる前にしっかりと教えておく必要があるのである。
ところが、今の学校は、指示・命令は、強制だから、全体主義、独裁主義、軍国主義につながる事だから、従う必要がない。さらに進んで従ってはならないと教えている。
その象徴が、予鈴、始礼、終礼の廃止である。
その結果、学級は崩壊し、先生の権威は失墜したのである。
学校の先生は自分で自分の首を絞めている。
指示・命令においてやってはいけない事がある。
指示・命令においてやってはならない事の第一は、実現不可能な指示・命令は出してはいけないという事である。
実現不可能な指示・命令は、第一に、物理的に不可能な事である。第二に、能力的に実現不可能な事である。人間の能力には限界がある。その限界を超えるような事を強いてはいけない。第三に、技術的に不可能な指示・命令である。第四に、時間的に不可能な指示・命令である。第五に、倫理的にできない指示・命令である。受令者の人権や名誉を傷つけるような指示・命令も含まれる。第六に法的に不可能な事である。第七に、立場上不可能な指示・命令である。立場上というのは、権限を越えているとか、序列が逆転しているとか、権限が明確でないといった場合である。
また、要件を満たしていない指示・命令も指示・命令も無効である。
また、気まぐれや思い付きで出される指示・命令である。この様な指示・命令は、指示・命令の安定性を損なう。
それから不必要な指示・命令、余計、余分な指示・命令も出してはいけない。
公私混同の指示・命令も指示・命令の権威を失墜させる。
この様な指示・命令は、指示・命令の信頼性を喪失し、指示・命令の効力そのものを消滅してしまう危険性がある。
権利と義務
チームワークを学ぼう。
仕事の論理
執務要領
報告・連絡・相談
手順・段取り
形を重んじる
仕事を学ぶ
チームワーク・集団活動を学ぶ
段取りをとる
仕事の論理
井戸端会議と会議は違う
仕事には始まりと終わりがある。
基本
仕事の基本
報告書の書き方
企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。
事前の準備
躾
基本は形にある。
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