教育の理想を求めて
行動しか信じない
私は言葉を信じない。行動を信じる。
人の話を聞くという事で誤解している人が多くいる。
仕事上で相手の話がわかったというのは、人の話を聞いてそれをそれを実行する事である。ただ人の話を聞いて話の内容を理解しただけではだめなのである。
机の上にある本をとってと言われ、それをわかったというのは、机の上の本をとっていった人に手渡してはじめてわかったという事になる。
言われても何もしなければ分かった事にはならない。
いつまでも本をとる行動に移らないと、言った人をかえって怒らせてしまう。
言った意味わかったと言い返されてわかっているよと答えたら、わかっていてやらないのだからかえって始末が悪い。
わかったといった以上、本をとって手渡さなければ相手は納得しないのである。
仕事をやる時、一体だれのためにやる仕事なのかを確認する必要がある。
誰のためにやる仕事かがわかってはじめて仕事の目的や細々とし段取りが取れるようになるのである。
ところが仕事は自分のためにやる事だと思い込んでいる人が時々いる。
いくら自分の過ちを認めたと言っても悔い改めなければ自分の過ちを認めたことにはならない。
何が一番自分を苦しめているのか。それは自分の頑な心である。
相手を認め、許す。それ以上に自分を認め、許す事が出来ず。悔い改められないから苦しいのである。
仕事は、人のためにする。
誰のために働いているのかを明確にする。
戦後、日本人は誰のために働いているのかを明確にすることは悪い事だと教育された。
しかし、誰のために働いているのかがわからなければ人は迷う。
迷い迷って目的を見失う。
働く目的を見失い。終いには、生きる目的も見失う。
多くの子供は、母親のために勉強している。この事を理解しなければ子供の行動は理解できない。
子供は母親の期待に応えようと夢中になるのである。
だから、母親は、子をかわいいと思う。
教育教育というが、教育の本質は愛情である。その愛情がなければ教育なんて成り立たない。
それを錯覚している人や教師が多いのである。親の愛は、見栄や外聞ではない。その子の幸せを願い、育てる事が本来の目的なのである。
教える者に愛情がなければ、最初から教育なんて成り立たない。成り立つはずのない教育を仕事としている者がいるから始末が悪いのである。
誰のために子供は勉強しているのか。それが明確になれば、子も親も勉強の意味を理解できる。その上で何を学ぶかが考えられるのである。
最初に勉強ありきでも、試験の合格ありきでもない。
学ぶ者の幸せとは何かが問題なのである。
目標も目的もなく学んでも空しい。
ただ試験に合格するための勉強程空疎な事はない。
仕事をするためには、目標を持つ事である。
それは誰のために働くのかである。
一つは家族のためである。一つはお客様のためである。一つは、仲間のためである。一つは愛する者のためである。一つは指導者のためである。一つは、愛する者のためにである。
誰でもいいとにかく誰のために働いているのかを明確にし、意識する事である。
目標を明らかにすれば自分の立ち位置も明らかになる。
自分立ち位置を忘れてはならない。
自分は、フィールドの中にいるのか、フィールドの外にいるのか、観客席にいるのか。自分はバッターボックスに立っているのか、ピッチャーマウンドに立っているのか。
投手がボールを投げなければ試合は始まらないし、捕手がボールを投手に投げ返さなければ、試合は滞る。
外野手が前を見ないで観客席に向かって手を振ったり、話しかけたら、試合を放棄しているとみなされても仕方ない。
自分の都合ばかり考えていたら、自分の限界は越えられない。他人のために働くから限界を超える事ができるのである。その典型が母親である。
母親は、子のためにと明確にいう事ができる。
それが核心である。子のために犠牲になる事を厭わない。
だから、自分の限界を超える事ができるのである。
言い訳は、自分のためにはするのである。
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