教育の理想を求めて
平 等
現代は、自由と同じくらい平等という概念が重視している。
しかし、自由の概念は難しいが、自由以上に平等な言葉は難解である。
平等、平等とがなり立てる人間に限って平等という言葉の意味を分かっていない者が多い。
平等というのを同じ処遇待遇、扱いにする事だと勘違いしている人が多い。
しかし、平等というのは、同じ処遇、同じ扱いをすることを意味していない。
例えば、子供と大人を同じ処遇待遇、扱いにしても平等にはならない。同様に、素人とプロの選手とを同じ条件で戦わせても平等にはならない。寒冷地に住む人と熱帯に住む人に同じ家を与えても平等にはならない。太った人と痩せた人に同じ服を与えても平等にはならない。
プロレスラーと幼児を同じ条件で戦わせることを平等というわけではない。また、極北で生活する者と熱帯で生活する者を同じ住環境で生活させることを平等というわけではない。
学校は、口では人は皆平等、平等と言いながら実際は、成績によって極端な差別をしている。
これこそ偽善の最たる事である。
平等というのは、存在において、又、権利や義務を等しく与えられているという事である。
言い換えると人は、自己という主体的存在において平等なのであり、この平等という概念は、自由と表裏の関係にある。即ち、自己という主体的存在において自由であり、平等なのである。
その根本には、自己と神との一対一の関係がある。
つまり、自分の人生は、一生、つまり、唯一であり、自己は唯一の存在として平等なのである。又、事故は唯一の主体として自由なのである。
ただ、客観的に見て人は皆違うのである。体つきも、能力も、容貌、容姿、姿形、性格、人種、民族、性別、宗教、思想信条、親兄弟、学歴、履歴皆違うのである。違うことにおいても又平等なのである。
故に、一律同等に扱うことは、かえって差別を増長することになる。
人は、差において平等である。故に差別をつけることは即不平等だとは断定できない。
それぞれの個性や違いに応じた扱いをすることこそ平等だと言えるからである。
不当な差別というのは、不当な根拠に基づいて行われる事を言う。
例えば、人種や民族、宗教、性別などを理由にして差別的な待遇をするのは、不当な差別であり、これは正されるべきである。
しかし、実績や能力、環境や状況に応じて差をつけることは必ずしも不当だと断定できない。実力に応じて差をつける事を差別だとするのは、行き過ぎである。
現に人それぞれ違うのであり、その違いを否定することは不平等につながるからである。
平等と同等
平等と言う事
差があるのは当たり前
極端な格差は、経済に偏りを生む。
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