教育の理想を求めて
確 認
記 憶
確認をとることが、なぜ、必要なのか。
それは、人間は、社会的動物だという事に関係がある。
人は一人では生きていけない。
だから、人は社会を必要としている。
社会の一員になるというのは、何らかの組織に属することを意味する。
そして、組織が確認を必要としているのである。
組織は、組織として記憶しておくことがある。
組織に記憶をさせる手段として、指示、命令、確認が必要なのである。
人の記憶には、限界がある。
むしろ何もかも覚えていたら神経が持たなくなるだろう。
忘れることも大切である。
しかし、だからといって肝心な事まで忘れられては困る。
人の記憶ほどあてにならないことはない。
人は、聞いたそばから忘れていく。
人の記憶は、エビングハウスの忘却曲線では、20分ほどで58%になり、1時間後には44%になり、1日後には、26%に、その後安定して1週間後に23%に、1か月後に21%になるとしている。
また、短期記憶に記憶できる個数は、7±2個程度だといわれている。
このような記憶力を補強しているのが確認である。
科学的な根拠がなくても一回聞いただけで指示・命令の内容を細部まで記憶するのは不可能である事は、誰でも経験的にわかっている。
わかっていると思い込んだ時から失敗は始まるのである。
しかも、確認をしない限り、当人は、自分の認識の間違いに気が付かない。
だから始末が悪いのである。
後で確認すると皆自分が正しいと思っている。
記憶は曖昧なものである。しかし、出された指示・命令は、細部に至るまで正確に履行されなければならない。一人でも一か所でも間違いがあるとその間違いの影響は全体に及ぶ。
曖昧模糊とした記憶に基づいて確実に履行されなければならない指示・命令が出されるのであるから、確認は、不可欠な事なのである。
しかも、指示・命令は、一人に出されるとは限らない。原則として仕事に関係する者全員に周知されなければならない。その意味でも確認は不可欠なのである。
短期記憶を長期的記憶に置き換えるためには、反復的な確認が効果的である。
だから確認は繰り返し執拗にとる必要があるのである。
人は忘れるのである。
人は、忘れるのである。
言われたこと、指示されたことでもすぐ忘れる。
忘れる事を前提として準備する必要がある。
人は、忘れる。一日経つと言われたこと、指示されたことの三割も覚えていたらいい方である。
しかし、指示した側にしたら指示した事は、正確かつ確実に、百パーセントできなければ納得しない。注文したものが届かなかったら、忘れましたでは許されない。
レストランで注文した料理と違う料理が出されたら客は怒って帰ってしまうだろう。
指示された側の人間は、すぐに確認をしなければ忘れてしまう。
しかし、指示した者は、忘れたでは済まされない。
また、人間は、集中と弛緩を繰り返している。集中していられるのは、ただでさえ三割位のものである。
要するに、人は、聞いて記憶できるのは、三割位のものである。
記憶力も集中力も限界がある以上、一遍に覚えられる事象は限られているのである。
だから、繰り返し確認をする必要がある。
言われたことは、漏れなく全て正確に実行する必要があるのである。
三割できればいいというような考え方では仕事がうまく回るはずがない。
記憶には、三つの要素がある。第一に記銘、第二に、保持、第三に、想起の三つである。
第一に、覚えて、第二に、忘れずに、第三に、思い出す。覚えるだけでは記憶した事にはならない。大切な事は、忘れない事である。また、いくら覚えていても肝心な時に思い出さなければ、意味がない。歳をとって記憶力が衰えるというのは、覚えられないというより、思い出せなくなる場合が多い。記憶力というのは、思い出すことも重要なのである。
入力だけでなく、出力も大切なのである。
確認は、記銘、保持、想起、いずれの局面でも重要となる。
また、記憶には、短期記憶、長期記憶がある。短期記憶は、復習することで長期記憶に変わっていく。
確認の基本は記憶に通じる。
第一に繰り返す。第二に、分割する。第三に、順序立てる。第四に箇条書きにする。第五に関連付ける。第六に声に出して言う。第七に書く。第八に行動する。第九、手順、段取りにする。第十、組織、制度、手続きとする。
基本は、指示されたことは、メモを取ったうえで、その場で声に出して復唱し、席に戻ったら箇条書きにして整理し、確認をし、作業に置き換えたうえで所定の手続きに沿って指示を出し、実際に作業に取り掛かる前に再度確認をする。
確認というのは、個人的な行為ではなく、組織的行為である。
確認を通じて、組織的に記憶し、情報を共有していくのである。
簡単な指示でもすぐに確認をしなければ、指示を出された直後から忘れていってしまう。
指示された事は、すぐに確認を取らなければ確認をとる切っ掛けも無くしてしまう。なぜなら、人は指示された直後から忘れていくからである。
打ち合わせた事も、会議で決めたことも、決めたそばから記憶が薄れていく。それに、打ち合わせて出した結論や会議で決めたことは、結論を出した時点、決めた時点でも人それぞれまったくちがっった受け取り方や解釈をしている場合が多い。むしろ、一致している事の方が稀である。
人は、会議で決められた事も指示された事も会議を散会した直後、指示された直後から忘れていくと思っていい。
最初のボタンの掛け違いというが、指示、命令、決定が出された直後の確認を怠れば確実にボタンを掛け違う。忘れてはならないのは、確認をしないのは、単なる怠慢にすぎないのである。
しかし、最初にボタンを掛け違うと後々、単なる怠慢では、許されない事に陥りやすい。
指示・命令が出された直後、物事が決まった直後、確認は直後にされなければ意味がない。
なぜならば、確認したことに基づいて仕事の段取りは組まれるからである。
だからこそ、直後に記録して確認する必要があるのである。
指示された直後、結論を出した直後に確認する事を怠ると確認するタイミングを失い。仕事を始める切っ掛けも失うの。
そうすると事後の段取りにも仕事にも甚大な影響をもたらす事になる。
注意してほしいのは、確認は、確認する事が目的なのではないという事である。
確認をした後に何をするかが肝心なのである。
確認した後に何をすべきかを明らかにするためには、確認の前と後では何が違うのかを理解する必要がある。
確認する事で、前提条件や問題点が現れる。確認する事で問題が整理される。確認する事で何をすべきかが明らかになる。
確認には目的がある。
だから、漫然とただ確認するのではなく。確認することの目的を明らかにすべきなのである。
病人を治療するためには、病人の症状を確認する必要がある。病気の種類を確認する必要がある。病気の治療の手段を確認する必要がある。また、患者の病歴を確認する必要がある。投薬するならば、薬の分量や副作用を確認する必要がある。医者の能力や経験からチームを組む必要がある。この様に確認はあらゆる事象に及ぶ。ただ、病気でいえば、確認の目的は病気を治すことに集約される。
会議が終了した後に確認すべきことによって会議の性格や成否は確定する。
決めたことを確認する。やることを確認する。責任者を確認する。誰が実際に何をするのかを確認する。いつまでに終えるのかを確認する。結果を誰に報告をするのかを確認する。次回、いつ打ち合わせを、誰とするか確認する。
これらの確認がなされなければ、仕事は始まらない。
しかも決め事の確認、指示・命令の確認は、直後に確認されなければならない。
確認というのは、習慣的に行うことである。
習慣的というのは、突き詰めると癖である。確認をする癖がついている人は失敗が少ない。プロほど、確認する癖がついている。素人ほど基本的、初歩的確認を馬鹿にして確認もしないでいきなり本番に入ろうとして失敗をする。このような人は、成長もしない。
ウェートレスは、レストランで注文を取った後に注文内容を確認する。これが無意識にできるようになると、確認することが当たり前になる。
いちいち意識せずにできるようになると、今度は、確認を忘れると気になって仕方がなくなる。
終いには、気分が悪くなる。躾がされていない料理屋では、いつまでたっても礼儀が悪いしミスも多い。確認がとられていないからである。自分の限界を知らないのである。
家の戸締りや、自動車を運転するときも同様である。このような確認は、動作によって確認しているのである。
確認はすべての基本である。
確認とは
では、何を確認するのか。
それが肝心なのである。
私は、先輩たちに、何事にも確認をとれと躾けられた。
それも事前に確認とれと。
学校で忘れ物でもしようものならこっぴどく叱られたものである。
しかし、今は、確認すること自体、悪い事のように教えられている。
今の学校では、何で確認をとる必要があるのかさえ分からないままに、ただ意味もなく頭から無駄だと決めつけて、確認をとることを否定している。
確認、確認と言うが、何を確認しろというのか。その肝心な部分が解っていない人が多くいる。
確認と言っても、一意的に確認の意味が定まる訳ではない。
確認は、状況・現状確認、目的の確認、経緯、経過の確認、進捗状況の確認、担当者、組織の確認、動機・原因の確認、事実関係の確認、指示・命令の確認、結果、結論も実績の確認、議事の確認、優先度の確認等、確認すべき事は多岐多方面に及ぶ。
何を確認すべきかは一律には言えないのである。
又、確認の手段にしても調査、報告、検査、目視、偵察、記録等がある。
確認する事というのは、何も難しい事を確認しろというのではない。
当たり前なこと、わかりきったことを確認しろというのである。
故に、どうでも良いことではないかとか、わかりきった事、当たり前な事と馬鹿にする。特に若い頃は、くだらないと言ってなめてかかる。その一見どうでも良い事を疎かにする事からどうしようもない失敗や致命的なミスを犯すのである。
どうでも良いことだからこそ疎かにできない。
プロと言われる人ほど、確認を欠かさない。例えば、プロの運転手は、始業点検、指さし呼称を欠かさないし、プロのスポーツ選手ほど基本練習を重視する。
ゴルフの練習場でいきなりドライバーを出して振り回しているのは素人だけである。
確認をとるというのは、集団行動では当たり前な事である。
なぜなら、集団活動というのは、構想や考え方、情報を共有する事を前提に成り立っているからである。
確認をするために、確認しておくことがある。
第一に、何を確認するのか。第二に、どの様に確認するのか。第三に、誰が誰、或いは何によって確認するのか。第四に、いつ確認するのか。第五になぜ確認するのか。
これらの事が理解されていないと確認の意味は理解できない。
一番肝心なことは、何がわかっていないのかを確認することである。
わからないことを確認するためには、自分がわかっていないという事を認めなければならない。
自分がわかっていない事を認めることができないから、肝心要の何がわかっていないか、何ができないかを確認することができないのである。
組織は、情報系である
組織は、情報系である。
組織とは、部分が情報系によって結ばれた全体を言う。狭義の組織、人的組織とは、全体を構成する部分が人である組織を言う。
組織は、指揮・命令系統によって結ばれた集団である。指揮・命令系統によって結ばれていない集団は、単なる群衆である。
指揮命令・系統は、実際に出される指示・命令によって維持される。適切な指示・命令が発令されていない組織は有効に機能しない。
情報系である組織は、情報が流れることによって全体は維持されている。
情報が流れない部分は、組織から分裂していく。
情報系である組織を動かすためには、どの様な経路でどの様に情報を流せば、組織がどの様に動くかを熟知しておく必要がある。
組織に情報を流す手段としては、指示、命令、報告、確認、提案、上申、通知、通告、指導、教育、示唆などがあり、目的に応じて使い分ける必要がある。
組織は、情報系であり、部分が情報によって結ばれている事によって全体が成り立っている。
情報が伝達されていない部分は、壊死して組織から脱落してしまう。
それ故に、情報が末端まで伝達されているかどうかをょ確認する必要が出てくるのである。
組織には、情報がどの様な経路を伝わってどの様に末端まで伝達されたかを確認するための仕組みが備わっていなければならない。
組織は、情報系統によって部分が結びつけられた集団である。情報系統を維持するためには、全体は情報を共有する必要がある。そのためには、情報が、一方通行の働きでは全体が成り立たなくなる。情報は、双方向に流れ、全体を循環するものでなければならない。そうしないと情報が末端まで流れていることを検証することができないからである。
組織では、自分だけ解っていれば良いというわけにはいかないのである。
だからこそ、確認が重要となる。
組織は、情報系統であり、何らかの情報を共有することで成り立っているからである。
その点を理解されていないが昨今増えた。
この様な組織ではあらゆる局面で確認が求められる。
組織は一人で動いているわけではない。
集団行動、中でも特に、組織的行動では、確認は不可欠である。
確認をおこったった事で、一人がミスするとその影響は、全体に及ぶからである。
組織とは、部分が情報系統によって結ばれた全体を言う。狭義の組織、人的組織とは、全体を構成する部分が人である組織を言う。そして、一般で言う組織とは、情報系統が統制系統に進化したものを言う。
組織は、情報が循環する事で維持される。
組織は、部分と全体が情報に仲介されて双方向に働く事で維持される。
情報が一方向に流れるだけのフィードバック機能が働かない。それでは全体と部分が連結しないのである。組織は、全体に対する部分の引力と斥力の均衡によって保たれる。
それが組織の相互牽制作用の根源なのである。一方向の情報の流れだけでは、組織の相互牽制作用が働かなくなる。
それ故に、一方的な指示・命令だけで成り立っている組織は、組織が完成した時から崩壊が始まる。
中央集権的、独裁体制は、組織構造に重大な欠陥を持つ。情報が偏ってしか伝わらなくなる危険性があるのである。
指示・命令は、報告.確認によって検証される。この様に情報は循環しなければ効力を発揮しない。情報は、双方向の働きによって効力を発揮する。
故に、指示・命令、報告があるところには必ず確認が求められる。
よく指示と通知を勘違いをしている者がいる。通知というのは、決まったことをただ伝達していることに過ぎない。通知だけでは、組織は動けない。組織は、指示・命令が出て始めて動けるのである。
相手の言っている話の内容が分かるだけでは、組織では解ったことにはならない。通知されたことに従ってどの様な指示を出すべきかが解って始めて組織では、理解できたと見なされるのである。
解りましたというと、おまえだけ解ってどうするのか。自分だけ解っても組織では解ったことにはならないと叱られたものである。
上司の指示を生半可に聞いて、自分が何をしていいのかも解らない。そういう人間に限って「解ったか。」と聞かれると「解っています。」と答え、通知だけして指示を出さない。結論に基づいて指示が出せなければ組織においては、解ったことにはならない事が解っていない。故に行動を持って確認する必要がある。
一般的な組織は、指揮・命令系統によって結ばれた集団を言う。
この様な組織は、指示・命令によって維持されている。指示・命令が出されなくなったら、組織は、解体する。
出された指示・命令は、必ず実行されなければならない。なぜならば、組織の全体は、部分を構成する全員の全体に対する信頼関係によって支えられていおり。信頼関係は、指示・命令が必ず履行されることによって維持されているからである。指示・命令が必ず実行されなければ、信頼関係を維持できなくなる。
始まりと終わりでは必ず確認が必要となる。
組織は、指示・命令によって維持されているのであるから、指示・命令が正確に履行されているか否かの確認しなければならない。全体を構成する部分に指示・命令がどの程度、どの範囲で伝わっているかを確認する必要がある。
指示・命令を単なる強制だと考える人間は、決定の意味を理解していないのである。
組織上の決定というのは、組織的に決めることを意味するのであり、個人的、私的に決めることを意味していない。この様な組織的な決定というのは、合意を前提としており、合意できないことは、指示しても従うとは限らない。それが組織である。だから、合意事項が優先するのである。いくらトップでも、組織の意向を無視して決めることはできない。そんな事をしたらどんな権力者も組織に背かれるのである。
決めるという事は、決めるという事であって全ての事を自分一人でやるとか、判断することを意味していない。ただ、組織を代表する者は、全ての意志決定の源に位置していると言う事は紛れもない事実である。
組織は、指示・命令で動いている。
組織は、指示・命令で動いている。
ゆえに、組織においては、指示・命令の確認が重要になる。
情報系である組織においては、情報がどの様な経路を伝わって、どの様に流れたかが決定的な働きをする。それ故に、情報がどの様な経路を伝わってどの様に流れたかを確認することが重要となる。
今は、他人に指図されたり、干渉されたり、言いつけられたりすることを嫌がるように学校でしつけられている。
学校では、生徒の自主性を尊重して指示・命令による強制をしてはならないという指導をしている。そのために、指示・命令に対する間違った認識や考え方を持っている者が増えている。
その一例が、決定というのは、相手の意見や皆の意見と違う事を決める事という錯覚である。これは、意見は反対意見だとする考え方と同列の考え方である。この様な間違った教育をしたために、意見を言う時は、反対意見を言わなければならない、決める時は、違う事を決めなければならないと思い込んでいる者がいる。
日常的に指示・命令が出されなくなったことで、指示に従う事を嫌ったり、指示に従った経験がない者が増えた事も一因である。
学校が決断というのは、独断であり、事の意見を聞かないことのような教育をするものだから決定と言う事も、提案された事とどこか違うことを決めると錯覚している人間が増えている。
よく生徒の自主性、自発性を尊重する授業というのがあるが、生徒の自主性を尊重し、自発性を引き出すといっても先生の指示、命令が必要ないと言う事ではない。
先生が授業に加わらないで、生徒に主催させるのは、先生の指示、命令によって自主性を尊重し、主体性が引き出せるように授業を設定するから実現されるのである。先生の指示・命令が出されていないというわけではないのである。
指示・命令が適切に出されないと組織は正常に機能しなくなる。
指導者の中には、指示・命令を出せば、あとは何もしなくても指示・命令通り人は動いてくれると錯覚している人がいる。このような錯覚は、深刻な事態を引き起こすのである。
指示・命令は、出し後が肝心なのである。
本当に解っている者は、解りましたとは言わない。
何も言わずに速やかに確認する。
本当に解るというのは、行動によってしか確証できない事を知っているからである。
本当に指示された者が指示した事を正しく理解しているかどうかは、「解りました」という当人の言葉だけでは確認ができない事が多い。
その場合、再度、言葉に出させて確認する(復誦)。やらせて見て確認する。文書にして確認するなどの言葉以外の確認の仕方をとらなければ裏付けがとれない。
だから、指示した者は、指示した直後に、正確に指示が伝わっているかどうかを確認する。
指示の内容を確認した直後に実行するために必要な要件を満たしているかを確認する。
指示を出した後、しばらくして、実際に実行されているかを確認する。
そして、結果が出たら結果を確認する。確実に指示が実行されるためには、一つの指示に対して何度も確認する必要がある。
組織は、指示・命令で動いている。
指示や命令は、悪い事とされたら組織は、機能しなくなる。
組織的な仕事は確認に始まり確認に終わると言われている。
組織的でなくとも、プロの運転手は、点呼確認を欠かさない。
それほど確認は、仕事の基本なのである。
作業確認する箇所は、入り口と出口、及び中継地点である。一番、効果的なのは、入り口である。
出口は、結果の確認である。これは確認と言うよりも報告に近い。中継地点の確認は、軌道修正の意味が強い。いずれにしても、作業は、入り口、つまり、作業に取りかかる前に確認をするのが原則なのである。
指示・命令は、あらゆる作業に先立ってされる事であり、決済は、指示、命令に先立ってされる。指示・命令の伝達は、決定が下された以後にされる。この順番は、不変的である。
指示・命令は決まった事や考えを通知することだと勘違いしている人が結構いる。指示・命令というのは、基本的にやることを示し、強制することで、ただ、決まったことを通知するだけでは指示。命令とは言わない。
なぜならばただ、決まったことを通知しても、誰が、何をやるべきかを示さなければ、組織は動かないからである。
指示、命令によって示されるのは、やる事であり、目的や目標と言った抽象的な事は補足的に示されるのである。何をやるべきかが明らかでない指示・命令は無意味である。
やるべきことを明らかにせずに、決定された事だけを、ただ伝えるだけなら、それは通知である。
確認は試験ではない。間違ったり、誤解していたからと言って点数がつけられるわけではない。
むしろ、言いつくろったり誤魔化したりすることの方が深刻なのである。
確認は、正確に理解しているかどうかが重要なのであり、言い間違ったり、わからなくないことを正す事が目的なのである。わからない事や間違い、やっていない事、忘れたことを確認された時ごまかされるのが一番危険なのである。間違った認識で決定し、指示・命令をし、実行されてしまうからである。
確認された時にわからない事ややっていない事、できない事をわかったふりをしたり、やったと嘘をつかれたり、できると強弁されたり、自分勝手に解釈されたり、余計なことを付け加えられたり、言い訳されることが一番困るのである。
わからない事はわからない、やっていない事はやっていない。できない事はできない。間違ったことは間違った。見てない事は見てないと報告することが求められる。
わからない事は速やかに確認の上返答をする。
確認をせずに憶測や推測、決めつけや偏見で返答することは避けなければならない。
その場で確認できない事は、確認してから返事をする。
指示を出された直後に確認して正確に理解している者は少ない。
だからこそ、受けた者に復唱をして確認する必要があるのである。
復唱の原則はオウム返しであり、足したり引いたり、言い換えたりしないよう心掛ける。
心もとなければ、指示面令の復唱を自分の方から申し出る。また、三度確認をとる。
三度確認をとるというのは、逆に、三度まで確認をしても許されるという事である。極力確認は三度以内に収めるように心がけるのである。
指示・命令は、一度聞いただけでは理解しきれていないと最初から思っておくべきなのである。
わかったと思った瞬間からわからなくなる。だから、わかっていると思っていても気が付いた時には確認をする。
確認そのものには慣れてくれば時間がかからない。
優先度の確認
指示・命令の確認だけが確認なのではない。確認はあらゆる局面においてとられる必要がある。
注文の確認、在庫の確認、指示・命令の確認、お客様の要望の確認、目的の確認、予定の確認と仕事は確認に始まり、確認に終わると言っていい。
確認しなければならないのは、事実確認だけではない。
状況の確認、予定の確認とか、原因の確認とか、結果の確認とか、相手の確認とか、意思の確認とか確認すべきことは多岐にわたる。
確認をすると言う事は、予め仕事を予測し、予定しておく事が前提となる。
予測や予定を立てるためには、道筋や過程がわかっていなければならない。
道筋や過程、予定、予算等がわかっていない者は、よく確認もせずに短絡的な答えを出そうとする。
確認の基本は、予実績管理である。
簿記は、会計の要である。ところが近年、会計機が発達すると簿記を知らなくても仕分けができるようになった。
その結果、仕分けのできない経理がゾロゾロ出てきている。
学者や評論家どころか実務者レベルでも基礎的な技能が失われつつある。これでは基本的な部分でも間違いを確認のしようがない。
仕事を始める前に仕事の優先順位を予め確認しておく必要もある。優先順位を決めておかないと段取りがうまくいかずに、効率的に仕事をこなすことはできない。
よく自分が何を目的として何をやっているのかもわからないまま、漫然とその日その日の仕事をしているものを見受ける。
意味もなく、与えられた仕事をこなしているだけでは仕事がうまくいくはずがないし、自分の成長にも結び付かない。
そういう人間に限って、俺は何をやっているんだ、なぜ生きているんだなんて大層な事で悩みだす。そんな大層な事で悩む前に自分の足元を固めることである。
今、何を優先すべきかそれを間違うとつまらないことに関わり合いって重大な問題がいつまでも片付かないという事になる。
何らかの目的を達成するためには、自分の立ち位置を確認する必要がある。
立ち位置がわかるためには、全行程や道筋がわかっていなければならない
最終的結論が出ていないからと言って指示が出せないでいる者がいるが、彼等は根本的に指示の意味を理解していない。指示は、その時点その時点でやれることに対して出される物であり、できることから指示を出していくべき事なのである。全ての事柄に対して結論が出ていないからと言って指示を出せないとしたら、何もできなくなる。場所だけ決めるという場合もあるし、日だけ決めるという事もある。なにも全ての条件がととなわなければ決断できないというわけではない。
全ての要素が決まらなければ何も指示できないという人がいる。しかし、それでは、仕事は何も進まない。仕事は段階的に進む事だからである。
場所を先に決めなければ他の計画が進まない場合もあれば、日を決めておかないと場所が決められないという場合もあるのである。
できる事から決めて指示していくのである。そうなると、日々、状況や条件は変化していく。だから、進捗状態に合わせて随時確認をする必要があるのである。
仕事を実際に実行するたるには、やるべき仕事を確認するだけで留まっていたら仕事を成就することはできない。やるべき仕事だけから一歩踏み込んで、今できることは何か、今やらなければならない仕事は、何かを、確認する必要がある。
つまり、仕事の優先順位を確認する事である。
作業を洗い出しただけで、仕事の優先順位が決まらないと仕事の段取りは確認できない。
事前に確認しなければならない事の中に、仕事の優先順位もある。
段取りや手順を決める為には、仕事の優先度の確認がある。
優先度の基準には、緊急度、重要度、順位がある。
第一の緊急度には、
1、緊急にやらなければならない事。
2、それほど急がない事。
3、できればやっておきたい事の三点がある。
重要度には、重要な事。
1、必ずやらなければならない事。
2、重要ではないがやる必要がある事。
3、できればやりたい事。
作業順位には、
1、予めやっておかなければならない事。
2、先行する仕事が終わらないと着手できない事。
3、単独の仕事。
4、他の仕事が片付くと解消される仕事。
この三つの要素を組み合わせる事で作業の優先度を確認する。
重要度の基準は、
1 緊急にやらなければならない事。
2 重要な事。必ずやらなければならない事。他の仕事の前に予めやっておかなければならない事。
3 それほど急がない事。重要ではないがやる必要がある事。単独の仕事。
4 先行する仕事が終わらないと着手できない事。
5 できればやっておきたい事。できればやりたい事。他の仕事が片付くと解消される仕事。
仕事の大部分は、予め予想し予定できることで占められている。
不確かな事は、僅かなのである。ただごく僅かな不確かな事が全体に及ぼす影響が大きい。
不確かな部分、変動する部分、確かで固定的な部分の上に現れる。確かな固定的な部分を因として起こる現象である。
だから、日常的な仕事の確認が基礎となるのである。
日常的な仕事に対する確認は、点検という形でとられる。
特に、始業点検は重要である。
点検は、指さし呼称が励行される。
日々の決まり切った点検こそ重要となるのである。
組織における確認の重要性について
組織において一番困るのは、意外とトップの単独判断、単独行動である。
どんなに優れた理念、方針でも、トップが理解しているだけでは、組織は動かない。
ある意味でトップだけが理解しているというのは、組織にとっては最悪な状態とも言える。
方針や理念、予算、計画等は作ることが目的なのではない。それを全員で共有することが目的なのである。その点を勘違いしてしまうと高邁で難解であればあるほどトップが孤立し、組織の統制が失われる事になる。
方針や理念は簡潔明瞭、誰にでも理解できる事がいいのである。
トップ考えや組織の方針は、組織の構成員全員が理解し、共有していなければ意思統一はできない。
組織は、トップの考えや組織の方針を組織の構成員全員が、どの程度理解し、浸透しているかを確認し、確証し続ける事が求められる。
また、一歩進んで考えると確認や確証という行為を通じてトップの考えや組織の方針を組織全体に浸透させ、共通認識を確立していく必要がある。
よく言われた事は、おまえだけが解っていてどうするといわれたものである。
組織として理解させる必要があるのである。
例えば、トップが外部のセミナーに出て何らかの結論を個人的に出しても、それだけでは組織として仕事に置き換える事は難しい。
実際に仕事をする者が理解していなければ、かえって弊害になる。肝心なのは、仕事を実際にやるものがどの程度理解しているかである。
だから、部下をセミナーに出したり、事業計画を立てさせ、それを聞く形をとることで、組織的な仕事に置き換えるのである。
トップが解っているなら、できるのなら、何も部下を使う必要はないというのは錯覚である。トップだけがわかっているというのは始末が悪いのである。組織は、組織として認識し、理解する、させる必要があるのである。
情報を得ても自分の処にとどめていたら、単に、個人的、私的に知っているのにすぎない。だからと言って不用意に情報を流すことは許されない。だからこそ確認が不可欠なのである。
確認、確認、確認。
情報を流すにしても、情報を流すためには確認をとる必要がある。
誰が、誰に対して、どの様に、どの様な範囲に情報を流すか。情報の扱いをどうするかの確認が必要なのである。
任せられれば任せられる程確認をしたくなるものである。
ところが任されたら、何も報告も確認もしないで好き勝手にやっていいんだと錯覚しているもの者が増えている。例え、何らかの仕事を責任を持たされ、任されたとしても組織の一員であることに変わりはない。任されるという事は権限を与えられるというだけでなく、応分の責任を負わされることを意味している。
任せられたら、逆に、報告する頻度が増えなければおかしいのである。
組織の構成員は、今自分が仲間、組織から何を求められているのかを絶えず、都度都度、確認をする必要がある。自分が理解することが求められているのか、それとも皆に理解させることが求められているのか。そこを間違うと元も子もなくなるからである。
仕事のできる人、良く理解している人に限って、相手ができるかどうか、理解できるかどうか確認をせずに、言えばやってくれると思い込んでいる。
そういう人は、なぜ、相手が自分の指示したこと、言った事を実行しないのかがわからない。理由がわからないから相手が意味もなく自分に抵抗しているか、逆らっている、嘘ついているように思いこみがちである。
そして、なぜできないかを探ろうとせずに相手を責める。
相手が自分の言っている事、指示した事を正確に理解しているかどうかを確認する必要がある。
簡単に確認する手段は、当人に復唱させる事、指示した内容を言わせる事である。
相手が自分の言っていることを理解しているかどうか、また、相手の能力や経験はどの程度かその確認を取らなければ指示・命令は実行される確証はない。その点を肝に銘じるべきなのである。
なぜできるのかというよりも、なぜできないかの確認が方が重要な場合もある。
間違いを見つけた時でも、自分で間違った箇所を直せば良いと思いがちだが、責任者はそういうわけにはいかないことが多い。
原則は、担当者を呼んで担当者に直させるというのが原則である。責任者も自分で直すのではなく、実際に担当している者に直させる事で、担当している者の自覚を促す必要があるからである。
その上で、責任の所在を明らかにするという点もある。さらに、教育という観点もある。そして、組織に認知させる。組織的に処理するという意味もあるのである。
意外と重要なのは、最後の組織的に認知し、組織的に処理するという点なのである。
担当者から見れば自分でやればいいじゃない。また、自分で何でもやっている人が最初はいい上司に見えるが、そのうちにやりにくい事がわかってくる。何でもかんでも一人でできるのなら、組織はいらないのである。
えばっているとか、封建的だとか、権威主義的というのではない。指導者としての行動を組織が求めているのである。
ついつい、自分で直せば良いとか、わざわざ呼びつけてまで直すことはないではないかとか、恥をかかせるつもりなのかなどと思いがちであるが、組織を組織として起動させるための原則なのである。
実際に担当する者が自分で確認し、自分で何をすべきかを考える。そこに意義があるのである。
この様な点を弁えている人が少なくなったことが、日本の将来にとって深刻な影を落としているのである。
組織は、組織なのである。組織は、一人で成り立っているわけではない。
一人で何もかもこなしていたら確認のしようがなくなるのである。
あの人がいなければ何も解らないという部分が生じることは、組織は避けなければならない。
指示・命令というのは、頭ごなしに出されることではない。受令者が指示の内容を理解して初めて履行される。
大体、決定権者は基本的に部下の提案に対して決定を下しているのである。本来、一方的な事ではない。
組織は、独りで動かせる仕組みではないのである。
担当者の考えを聞いて決めるのである。その点を誤解してはならない。逆に言えば聞かなければ何も決められないのが組織である。
組織が大きくなればなるほど多くの人間、担当者の意見を聞かないと決定できない仕組みになっているのである。又、決定権を持つ者も決めたことを組織に伝えなければ、決めたことにならないのである。決めたことを組織に伝える行為が指示・命令なのである。
故に、トップ独りの力で指示・命令が出せるわけではない。
第一、受令者ができない、実行不可能な指示は出してはならないというのが原則である。
実行不可能な指示は出すこと自体無意味である。
ところが往々にしてトップは独善的になり無理、無茶な指示を出してしまう事がある。
例えば、試験の準備をせよという指示は意味があるが、試験に合格せよという指示は無意味である。
指示、命令は、その性格上、基本的に双方向の働きを持つ事であり、一方的に出されることではない。
実行不可能な指示は、指示・命令の威力、信認をなくす。その結果、指示・命令全般の否定につながる。
指示・命令というのは、確実に実現できることを積み重ねて、不可能を可能にすることなのである。
むろん指示・命令の中には、一見して無理なものできそうもない事が含まれることがある。特に、限界の挑戦している者に対して出される指示や命令には、不可能に思える事も含まれるが、それにしても、最初からできないと分かっていることは指示・命令として出すべきではない。それは目標であり、願望の一種でしかない。だからこそ確認が必要なのである。
指示者は相手の都合や状況を確認しないで指示・命令を出すべきではない。
確認をとるというのは、相互に確認をとる事を通じて相手がどれくらい考え方や指示を理解しているかを検証する事でもある。
確認は、言葉による事だけでなく、動作によっても行われる事である。
確認は、指示に対する事だけとは限らない。
方針に対する確認。状況の確認。考え方に対する確認と確認する事は多岐にわたる。
そして、確認する事によって確認の仕方も変わってくる。
見て確認する。書いて確認する。言葉にして確認する。話して確認する。報告によって確認する。動作にして確認する。やって確認するという具合である。
確認する事の意味というのは、集団が構想や考え方、情報を共有する必要性から生じる。確認と言う事は、単に、言っている事を理解しているだけでは不十分である。
単純に言葉で伝えただけでは、相手が正確に自分の考えや指示された内容を理解しているという確証は得られない。
過程の確認
仕事は過程が大切なのである。
仕事作業には順番があるのである。仕事には前後がある。その前後を間違うとそれまでの作業すべてがやり直しになる。やり直すして済めばいいが、やり直すこともできなくて、すべてが失敗に終わることもあるのである。
だからこそ手順段取りの確認が大切なのである。
目的も確認しないで短絡的にできない理由を挙げて否定的な答えを導き出そうとする。始める前から、無理です、駄目ですときめつけてできない理由を確認しているに過ぎない。
確認しなければならないのは、今何がわかっていて、今何をすべきか、今何ができるかであった。言い訳ではない。
聞いて、決めて、指示をする。その都度、確認をする。聞いて確認し、決めて確認し、指示して確認する。そのためには、いつ、何を、どのように決めるかがあらかた解っていなければならない。この様に確認は、状況や段階毎にとられ、そして、状況や段階ごとにやり方も違ってくる。
まず初めに、問題を確認し、目的を明らかにしてやる事を決める。
結論を確認すれば、打ち合わせの効果がわかる。
仕事の打ち合わせの結論というのは、次はいつ遣るのか。それまでなになにをやっておくのか。そして、自分は次までにどうするのか。その三点をおさえる事である。
次いつやるのか。それまで何をしたらいいか。ところで、自分(貴方)は何をしたらいいのか。それが仕事の上での結論であり、落とし処である。
次いつやるのかを決めても、それまでに何をやるかを決めない者もいる。次まで何をやるべきかを決めても、自分や仲間が何をすべきかを決めない者がいる。それでは、仕事の段取りは決められないのである。次に会っても何も進展しないことになる。
一つ一つを確認し、確認することで深化するのが仕事である。
実際に仕事をする担当者は、次を決めて、それまでにやる事を指示してもらいたいのだから。なのに、何も決めないで、何も決めないから指示も出せないのなら部下にとって何の利益もない。
次の事を決めたったら、その後すぐに、次まで何をすべきかを決め指示しない上司は、上司としての基本的な役割を理解していないのである。しかし、そういう上司に限って虚勢を張ったり、妙に、物分かりがいいように装うのである。それでは、どんなに好々爺でも人はついていかない。
故に、落とし処というが実務上の落とし処は、直後の作業である。
実際に作業に着手する時は、足元の作業に対する指示から始める。
実際に仕事をする場面、現場に近づくほど指示は明確になってこなければならない。
遠い計画、明後日の指図は、指示として働かない。指示というのは作業と作業の隙間を埋めるようにして出す事だからである。
直後の作業が埋まらない限り、次の作業は始まらない。故に直後の作業に対する指示をせずにその次の作業の指示は出してはならないのである。
仕事というのは、一歩一歩足元を確認しながら着実に前進させることなのである。
会議や打ち合わせも、目的を確認しないままに開いてもただやったに過ぎなくなる。
大切なのは流れである。
会議の前に決めたら会議でやる事は通知である。会議上で決めるのならば、議決である。会議の後に決めるのなら、権限の委譲を前提としている。
事前に結論を出して通知を主とするならば、事前に正式な手続きを終わらせておく必要がある。議決を目的とするならば、議決に必要な準備をしておく必要がある。また、権限の委譲が目的なら決定権者の事前承認が必要となる。この様に会議の目的によってやっておくことにも差が出るのである。目的を確認せず会議、打ち合わせをすれば自爆するだけである。
この様に仕事にはプロセスがあり、そのプロセスを一つ一つ確認して仕事の段取りをする必要があるのである。
現実に実際のところ仕事で見えるのはせいぜい今日明日やる事ぐらいである。よく明後日(あさって)の方向を向いて仕事をするな、今日やるべきことは今日やれと言われたものである。
目的地もわからないままに、仕事を進めても成果は期待できない。何を確認すべきなのか、それは道筋であり、自分の現在地である。道筋や現在地を確認をするためには、地図が必要なのである。
まで・・・・。(範囲の確認)
実際に作業を始めていく場合、作業の範囲の確認は欠かせなくなる。
ところが、範囲に関していい加減なことが多い。
範囲がいい加減だと仕事もいい加減になる。
仕事の始まりと終わりが画定できなくなる。
そのために、けじめがつけられなくなり、仕事がだらしなくなる。
また、仕事のリズムがつけられなくなる。
仕事があいまいになり、指示・命令が出せなくなる。
段取り手順も組めなくなる。
指示・命令も徹底できなくなり、評価もあいまいになる。
責任の所在も不明瞭になり、無責任体制に陥る。
範囲の確認を疎かにすると規律が失われるのである。
範囲の確認は、作業の進捗状況の調節や権限、責任の画定、日程の設定、予算の計算など企画の部品を確定することである。企画の根幹に関わる部分である。
範囲の画定は、仕事の限界を確認する事なのである。
どこまで、いつまで、誰まで、いくらまで、何までといった要件よって一つ一つの作業を単位化する前提となる。
そして、計画を設定するための下地となる行為である。
範囲の確認は、実は、実作業を確定するためのカギを握る重要な事であるが、蔑ろにされていることが多い。
範囲が確定しないと段取り手順は決められないのである。
範囲を確認する要件は、組織、責任、権限、時間、作業内容、人員、場所、手段、費用等である。
トップ(総括責任者、担当責任者、担当者、実施責任者、実施担当者、事務局、関係者、出席者、参加者、お客様)まで、
今日の五時、(今日中、明日の10時、明日の朝一、明後日、1週間後、1か月後、1年後、当日、前日、前々日、終わり、始まり)まで。
完成(起案、検討、予備調査、本調査、配置、通知、通告、着手、納品、売上)まで、
報告(打ち合わせ、面談する、結論が出る、内定、承認、正式な手続き、指示・命令、実施、結果、最終報告記録)までする。
計画を立てる場合、目的(主旨、目標、方針、考え方、原則、組織、手順、段取り、大枠、枠組み、日時、場所、手続き)まで。どこまでやるか、やってあるかを常に確認する。毎日、誰がいて、誰が欠席したかを確認する。
ただ細部まで確認、確定できるのは、良くて一両日まで。だから、毎日確認・確認。
いきなり、最初から的を決めつけるのではなく、範囲を徐々に絞って的を決めていく。
1年、半年、旬、月、日と絞って、最後は、何時何分まで行く。
指示する際気をつけなければならないのは、今日中は、明日の朝一を指す。時間を指定する場合、日単位では細かい点がぼけてしまう。
実際に仕事をする際は、細部にまでこだわりが出る。だからこそ確認は細部にわたる。
適当にといった瞬間、言った点で仕事全体が適当になる。
仕事をするうえで部下が嫌がるのは、馬鹿悧巧でもなく、性格でもない。はっきりしない事である。はっきりしないと仕事ができないからである。
だから、上司も部下も確認する。確認しないという事は確認できない状態。つまり、根本的にわかっていないという事である。
どこまでするのか、それが肝心なのである。
最初は、優しく言って、次に、注意し、そして、叱り、それでも聞かなければ罰する。
範囲が重要なのである。
事前の確認が要である。
指示・命令は、単純、かつ、明瞭でなければならない。
なぜならば、指示・命令は必ず履行されなければならないからである。
実行不可能な指示・命令は、効力を発揮できない。
だかに、実行するために必要な要件を満たしているかどうか、指示・命令が出された直後に確認する必要がある。
故に軍などでは抗命、命令違反に対しては、厳罰で臨む。それほど指示・命令は組織において重いのである。
出された指示・命令は、必ず履行されなければならない。それは法は守られなければならないのと同じ事である。
出された指示に従わないことがあると指示・命令の有効性がなくなる。指示に従う者と従わない者が出ると組織の統一性がなくなる。
指示、命令は、お願い、願望ではない。お願い願望では組織は動かない。
よく抽象的で意味不明な指示、又、言っている事は理解できるがどの様に実行しているかが解らない、曖昧な指示を出す者がいる。この様な指示、命令は、組織を根幹から破壊する危険性がある。
なぜなら、一度出された指示。命令は必ず履行されないと指示・命令そのものの効力を失わせる危険性があるからである。
必要な要件を満たしていない指示は、単なる話、願望に過ぎないことであり、組織にとって極めて有害である。
誰に対して発せられたか解らない命令は、実行できない。要するに要件を満たしていない命令は、責任を持って実行できない。責任を持って実行できない命令は、命令そのものの効力を危うくする。受令者がどの様にも解釈できる命令は、受令者の側に責任を派生させるからである。
今述べたような指示は、組織全体の信用を失わせ指示・命令が機能しなくしてしまう恐れがある。故に厳に戒める必要がある。
指示・命令が機能しなくなったら、既成事実を積み重ねて追認させるようになる。既成事実を積み重ねられると確認のしようがなくなる。こうなると組織は末期的になるのである。
よく勘違いしている人がいて、全ての仕事が終わってから確認をしようとする。
:やってしまってから、結果が出てから指示・命令を確認しても後の祭りである。
それは、食事が終わってからメニューを確認するがごとき事である。
確認というのは、基本的に仕事に入る前にすべき事なのである。
仕事というのは、無数な作業の塊である。その作業を一定の法則で順序立て並べる事が段取りである。段取りをつけるためには、作業に取りかかる前に、全ての作業を漏れなく、重複なく洗い出し、仕事に取りかかる前に確認をしておく必要がある。
結婚が良い例である。
私が成人した頃は、当人同士が先ず意志の確認をし、親の承諾を得て、それから結婚式をして婚姻届を出してから子供つくった。今は、子供ができたから結婚をする。どこにも意志の確認がない。だから、子育てに対して無責任になりやすいのである。
結婚にせよ、進学にせよ、当人の意志を尊重するというのならば、当人の意志の確認が肝心なのである。当人の意志を無視して受験戦争に追いやっていたら、自発性や自主性のへったくれもないのである。
何の確認もしないまま、やってしまった。できてしまった。決めましたは組織上あり得ないのである。
何事も最初に確認ありきなのである。
事前の確認は、作業全般を制御、調整できるが、事後の確認は、結果に対してしか調整できない。だから、作業指示の確認は、指示が出た直後でないと有効でない。
管理は、事前の事務、手続きによって統制をとる。
仕事を制御するのは、事前に出される指示、命令によるのであり、結果によって組織を制御することはできない。
事前承認が原則であり、事後承認は極力避ける。やむを得ずに事後承認になる場合は、権限を委譲しておくこと。
試験が終わった後に試験勉強をしても無効である。また、試験が終わってから試験結果をいじくったり、再度試験をさせたら試験そのものが無効になる。
ところが組織が統制を失うと往々にして事後処理が横行するようになる。
指示が出なかったから勝手にやったんだという論法である。適時、適切な指示が出なくなるとこの様な勝手な行動か、それとも慣習慣行に従った行動しかできなくなる。それは、指示が出ないと組織が機能しなくなるので、擬似的な指示が出ていると仮想することで正式な指示に変えるからである。
指示というのは、あらゆる作業に始まる前に、出されるものなのである。だからこそ確認が必要とされる。やってしまってからだと遅いのである。やってしまって結果が出たことは報告、通知、ひどい場合は、通告であって、基本的上司に対して行う事ではない。礼を失している行為なのであるが躾けられていない者は、自分が礼を失していることさえ気がつかないでいる。失礼と言うだけならば良いのだが、基本的に組織の統制を失わせることであるから、厳しく戒めなければならない。
決定や指示・命令が出された直後、そして、作業に入る直前にしか確認が取れないことがある。このタイミングを逃したら仕事の段取りは組めなくなめのである。
終わりに
現在。人から命令されたり、指示される事が死ぬほど嫌いな人間が増えている。中には、指示・命令を生理的に受け付けない者までいる。こうなると、まともな社会生活を送れなくなる。人間は一人では生きられないのである。
この様な体質を生み出しているのは学校教育である。
今の学校教育は、指示・命令を意味もなく否定し、号令どころか予鈴までなくしてしまった。
その結果、引きこもりやニートと言った社会に不適合な人間を産み出し、鬱病を蔓延させているのである。
人は一人では生きられないのである。
何度も繰り返すが組織は、指示命令で動いている。指示・命令に従わない者は、組織の構成員ではない。指示・命令で動かない者を許すと指揮命令系統の統一性が保てなくなり、指揮命令系統が分裂してしまう。
仕事は、指示命令に始まる。この事は、常識である。
しかし、今の学校ではこの常識が通じない。
なぜならば、指示、命令は悪い事だと決めつけているからである。
故に、学校教育の現場から指示、命令、号令、始礼、終礼、予鈴、訓示等が姿を消しつつある。
まあ、常識を疑ってかかれと常識そのものまで学校教育では否定しているから・・・。
その影響で、社会に出ても指示・命令を生理的に受け付けない子達が増えている。
指示・命令に変わって何かというと、自発性とか、自主性だという。
しかし、自発性とか、自主性では組織は動かない。なぜならば、組織としての一貫性が失われ、また、偶然に支配され、予測困難になるからである。
個人行動を前提とするならば別だが組織は基本的に個人行動を前提としていない。組織は、組織なのである。組織は集団を前提として成り立っているのである。
学校教育は、高校まででも十二年間。指示・命令は悪だという倒錯した事を十二年間刷り込まれたために、組織は指示・命令で゜動くものという常識が通用しなくなっている。
組織は、個人の意志を尊重し、個人の勝手な行動を許容するという誤った常識が社会全般に浸透しつつある。
組織は、指示・命令によって動くという常識は、今や常識ではないのである。
組織は、一人ひとりの自発性、自主性によって動くというのが謂わば常識化しつつある。
その結果、指示・命令の確認すら取れなくなりつつある。
指示・命令は、作業の根拠であり、動機でもある。責任の所在は、誰によるどの様な指示下によって決まる。
故に、作業の結果に対する確認も指示に基づいて為される。
指示が明確でないと指示の確認も結果の確認も取れなくなる。
それは、責任の所在を曖昧にし、責任逃れを正当化する事にもなる。
仕事というのは、結論が出た時から、決定が出た時から始まるのである。
だからこそ確認が大切なのである。
よく結論を出すことを目的としていたり、決められたら終わりだと錯覚している人がいる。
結論や決定をゴールだと錯覚している人は、仕事が始まる前に完了してしまう。
予算を立てても、実行できない。計画倒れなどという事が往々にして起こる。
そういう事を防ぐためには、確認が大事なのである。
躾
教育とは、単純・反復・繰り返しである
報告・連絡・相談
事前の準備
組織的意志決定
やらない理由、できない理由
状態をつくる。
会議
会議とは何か
会議の規則・原則
躾
組織は、情報系である。
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures
belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout
permission of the author.Thanks.
Copyright(C) 2016.3.29 Keiichirou Koyano