教育の理想を求めて
考えている事、言っている事、やっている事
今の時代は、ストレス社会である。子供に限らず大人達にも強烈なプレッシャーがかかり続けている。ストレスというのは、自分の外部から与えられる刺激に対する内的な緊張状態を言う。不快な刺激を受け続けて長期間にわたって緊張し続けると人は、精神の均衡を失う。
現代人を取り囲む環境は、いろいろな刺激に溢れている。そして、それが限界に達すると人は精神の均衡を失って鬱病やノイローゼ、果ては自殺してしまう人まで現れる。
ストレスは内面の緊張がもたらす心の状態である。
この様な緊張状態は、外部からの刺激だけによって引き起こされるわけではない。
より強い心の緊張状態は、自己の同一性(アイデンティティー)にたいする圧迫によっても引き起こされる。そして、実際は、この自己の統一性に対する圧力がより深刻な事態を引き起こすのである。
自己の統一性に対する圧力は、自己の人格の破綻や分裂の原因となる。
そして、この様な圧力は、学校教育にその萌芽が見られる。
現実の親の価値観と学校で教えられた事と自分の実際の行動とが一致していないと思考と発言と行動の各段階で統一性が歪められてしまう。家庭では、親の言いつけを守り、学校では先生の指導に従い、一人になったら自分の好きな事をする。親の前と先生の前、一人になった時で価値観を使い分けていたりしたら、終いに、どれが本当の自分なのか解らなくなる。こんな事を続けていたら人格が破綻するのは目に見えている。
たった一度の過ちと言うけれど、たった一度の過ちでも、人生を狂わせてしまう事はよくある。なぜならばたった一度の人生なのだから、人の一生は、繰り返せないのである。やり直しのできる過ちもあれば、やり直す事のできない事もあるのである。
自己の同一性の崩壊は、価値観と言動、行動の分裂として現れる。
つまり、考えている事と言っている事と行っている事が違っている。むつまり、思考と発言と行動の不一致として現れる。
この様な現象をどの様に検証するのかというと、表情と言動と行為を比較する事である。
何を信じたら良いのか。それは相手の表情に表れた事と言っている事が一致しているかどうかによるのである。
わかりましたと言っているのに、何の行動も起こさないものは信じられない。
馬鹿にしてないと言いながら、馬鹿にした表情をしたり、人を見下した態度をとる者を信じる事はできない。
最初は感じるのである。
何か得体の知れない、漠然とした何かを感じるのである。
感じるという事が大切なのである。何も感じなくなったらお終いである。
そして、何かを感じた時、「愛の予兆」みたいな兆しとか、悪い予感とか、危険な臭いとか、心の痛み、悲しい気持ちとか、始まりとか何かを感じるのである。それが始まりである。
何かを感じたら、考え始める。
それは微かな表情の変化として現れる。
無表情も表情の一つ。無表情なのは、自分の内面の状態を覆い隠し、自分を防御している事を表している。これ自体、非常に強い意志表現である。
人と人との信頼関係は、言葉だけを信じて作られる事ではない。
表情に表れる事と、言っている事と、行っている事が矛盾していたら、正常な人間関係が築けないのである。
そういった歪みは、自分の心の歪みにもなる。
心にもない事を言って約束も守らない。
言っている事が支離滅裂で統一がとれない。
言っている事とやっている事が違うから、結局、嘘をついた事になる。
これではまともな人間関係が築けるはずがない。
感じた事、考えた事、言っている事、行っている事が自己の元に一体とならなければ、自己の一体性は失われていくのである。
自分の考えている事と自分の言っている事、自分の行動が一致しなくなると内面の緊張状態は極限に達するのである。
考えている事と言っている事やっている事が一致しないと内面に強い圧力がかかる。
強い力は、緊張状態を生み、状況によっては、人格まで破綻してしまう。
これは、人の問題だけとは限らない組織も同じである。
組織も同様の病を持っている。
そして、組織の病は、組織を構成する人間をも狂わせる。
方針と決定した事がまったく一致していない。
決定された事と指示された内容が違う。
指示された事とやっている事が違う。
これでは組織は成り立たない。
会社の組織が正常なら会社の組織を構成する者も正常に戻れる。
家族が正常なら、例えおかしくなった家族がいたとして正常に戻す事ができる。
学校が正常なら、おかしな生徒がいたとしても正常に戻す事が可能である。
社会が正常なら、不正をただす事もできる。
しかし、組織が異常になったら正常な人間まで狂わせるのである。
先生は、生徒のためにと言うけれど、生徒は、先生は全然僕らの事を解っていないと想い。将来のためだと言いながら偏差値ばかり気にしている。
親は親で自分の為よと言うけれど、結局、成績の事しか言わない。
会社の考えは、会社の展望や構想として現れるはずなのに会社の展望や構想が判然としていて、よくわからない。
たとえ展望や構想があっても、具体的な計画や予算がない。
会議ばかりしていてなかなか結論が出ない。
結論が出ているのはずなのに決まった事に具体性がない。。
決まった事が具体的でないから指示が出ない。
指示が出も何をやって良いのか解らないから実行できない。
実行されてもいつまでたっても報告されない。
報告がないから次の作業に移れない。
この様な状態が組織内部で恒常的に続けば、組織は内部から破綻してしまう。
自分の思っている事を口に出し、決断して行動に移す。
それが自分を保つために必要な事なのである。
自分が感じた事を解ってもらえない。
自分の思いを言っても聞いてくれない。
聞いても結論を出してくれない。
結論が出ても行動しない。
そんな会社では社員がおかしくなる。
この様な状態に置かれいる事が組織の人間関係を悪くし、ひいては、組織を構成している人たちの精神をおかしくしているのである。
しかし、当人達はまったく気がついていない。
いわば毒ガスが蔓延している部屋に何も知らずに閉じ込められているような状態である。
それに、この様な状態は、トップにとっても極めて悪い環境である。
トップの考えた通りに組織は動かないからである。
又、中間に立つ者は自分の考えを持つ事ができない。
組織を構成する者は自分達で組織を制御できなくなっているのに、気がつかない。ただ何となく人間関係がギクシャクしている事を感じるのである。
皆、む自分が言った事を誰も聞いてくれないと思っている。それでいて、周囲の人間が何を考えているのかが理解できない。原因がつかめないままで惰性で組織が動いている。悪い事は解っているが、誰も何が原因でどこが悪いかを指摘する事ができないし、仮に気がついて指摘したとしても誰も聞いてくれない。
こんな状態は明らかに長くは続かない。
いつかはどこかで綻びがで破綻する。
上位者が言った事とやっている事が違うと下位の者に思われたら信用を失う。
決めた事、約束した事を守らなければ、決めない時より、約束しない時より信用を失う。
だから、何も言わない方が、何も決めない方がましなくらいである。
しかし、何も言えなければ、何も決められなければ、そもそも、組織は成り立たない。
つまり、組織を根底で支えている信頼関係が薄れていくのである。
それでありながら当事者は結果が表に現れてこないと気がつかない。
極めて危険な状態に置かれているのである。
この様な状態に置かれたら組織の構成員は、無気力、無責任、無関心になる。俗に言う三無主義である。
この様な状態を打破するためには、人として当たり前な事を履行する事なのである。
すなわち、言った事に基づいて結論を出す。結論が出た事は、決める。決めた事はやる。そして、約束は守る。この当たり前な事がで゜来てない事が組織をおかしくし、なおかつ、人をおかしくしているのである。
約束は守る。これは人として、又、指導者としての鉄則である。
自分達は、自分の考えを言ったつもりになっていないか。
言いっ放しにして何の結論も出していないのではないか。
結論が出ているのに、手続きを踏んで決めていないのではないのか。
決めてもちゃんと指示し、指示を伝えていないのではないか。
指示をしてもそれが実行されたかどうか確認をとったか。
実行されても報告を怠っていないか。
報告を受けてもそれに応答していないのではないのか。
そういった一つひとつの細々とした事を一々確認をとり検証する必要がある。
部下の話を聞くとはそういう事である。
たられば、放し、つもりはつまずきの元なのである。
問題が生じてもその問題を問題として感じない。
危機を察知しても危機として感じない。
不正を見ても何も感じない。
良い音楽を聴いても何も感じない。
何も感じなければ何も考えられないのである。
良い事を思いついても決断できなければ行動できない。
何も感じない。何も言えない。何も決められない。何も行動できない人間になってはいけない。
何も感じない。何も言えない。何も決められない。何も実行できない状態に組織をしてはならない。
それは、人格破綻の始まりであり、組織が解体していく兆しである。
何も感じない、何も言えない。何も決められない、何も実行されない最大の原因は物の考え方の仕組み、組織の仕組みにある。仕組みだから改善する事が可能なのである。
何も考えずに衝動的に行動するばかりではいつか破滅してしまう。
言行の一致という。言っている事と行いを少なくとも一致させるように努力する事である。
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