教育の理想を求めて

定石・手順

仕事には、定石がある。


将棋や麻雀には定石がある。
スポーツにも定石がある。

将棋や麻雀では、入門者、初心者は本の一冊でも読んで、まず定石を覚える。定石を覚えないと勝負にならないことは歴然としている。
それもある一定の年齢を超えないうちに定石を覚える。歳をとってから定石を覚えるのは至難な業である。

過程には、一定の形や法則がある。
その形や法則が定石であり、先ず、定石を理解しておかないと全体を把握、制御することは困難である。

仕事には、定石・手順がある。
しかし、今の時代、仕事の定石を覚えようなんていう人は稀である。
大体、定石がある事さえ知らない。

仕事の定石・手順を理解し、習得していない者は、仕事を最後までやり遂げることはなかなかできない。なかなかできないけれど、誰も原因を理解していない。
なぜなら、定石を誰も知らないからである。

簿記は、経理の定石である。しかし、簿記を習うものが減っている。
仕分けのできない経理がゾロゾロ出てくる。
学者や評論家どころか実務者レベルでも基礎的な技能が失われつつある。これでは基本的な部分でも間違いを確認のしようがない。

近年、仕事の定石・手順を次世代へと継承する仕組みが失われてしまった。そのために、惰性でしか仕事が処理されなくなりつつある。仕事の定石や手順は、現場で徒弟制度的に伝えられてきたのである。職場の人間関係が変質する過程で定石や手順は失われてしまったのである。
これは組織、社会にとって極めて危険な状態である。

仕事には形がある。
一日の形、一週間の形、一か月の形、四半期の形、半期の形、一年の形、一生の形。個々の業務・事務の形(例えば、経理の決算処理の形)、管理の形、指示・命令・報告・確認の形。仕事はこうした形を組み合わせることで成り立っている。

定石とは仕事の基本を形にしたものである。


定石と形



定石や手順は、形で覚える。

特に、初動、始動、起動部分は、曖昧とした状態である場合が多い。
故に確定した形はとりにくい。
一番わかりにくいのは、発意・構想から正式に始動、起動するまでの間である。
何事も最初が肝心である。
最初は何でも曖昧模糊として漠然としている。
始まりがなければ始まらない。
だから、どこを起点として、どうやって起動するかが問題だ。

始まりの漠然とした曖昧模糊とした状態が構想と成り、夢を形成する。
それ故に、構想段階や主旨というのは、ある意味で漠然とした物語になる。
構想は、とりとめなく、又、際限がない。
それが計画や予算という形を取り出すと俄然現実味を帯びてくるのである。
構想段階は、夢は夢であり、そのままでは幻になる。
構想に実体を持たせるのが事業計画である。
ただ、構想を事業計画に結びつけるためには、式典が必要となる。

仕事の始まりは、わかりにくいのである。

始まりは、原則的に形式的に処理される。

故に、儀式、式典、典礼、仕来りが重要になるのである。
儀式、式典、典礼、仕来りは、始まりや終わり、また、中継点などを象徴している。
だからこそ、儀式や式典では、最初と最後が肝心なのである。
それが開幕式と閉幕式である。

スポーツの試合は、コール、宣言に始まり、コール、宣言で終わる。

麻雀の始めに牌を捲って場を決め、サイコロを二回振って親を決める。トランプなら、カードの山を捲って親を決める。
これらの行為に意味はない。一種の暗黙の取り決めである。意味がないから役割を果たす事ができる。意味のない行為を繰り返す事で恣意性を殺し、八百長を予防している。
スポーツでコイントスで先攻後攻を決めるのも同様な理由である。これらは一種の儀礼である。

形式の重要性が解る者は、形式に囚われずに柔軟に対処するが、形式の意味を理解しない者は、形式に囚われて仕事を形骸化し、無力化してしまう。

形式そのものに意味はない。
形式に意味を持たせるのは、形式を活用する者である。

形式の重要性が解っている人は、形式を重んじつつ、形式に囚われるなと教えるが、形式の重要性が解らない者は、形式が悪いと頭から否定してしまう。それが団塊の世代である。

定石・手順は、基本形である。定石・手順は、基本形ではあるが、絶対的な形ではない。
定石や手順は、見本や基本となる形式であって状況や前提によって差が生じる相対的な事である。

定石は、形で覚える。だから、美意識の問題である。
始動部分は、曖昧であり、見えにくい。終点は見切りにくいという性格がある。
だから、始動部分では完成度を求めず、形で処理する。
プロセスを頭に入れておかないと、今、何を打ち合わせているのかの見極めができない。

故に、導入部分と終了部分を作り込んでおくと大体仕事の形は様(さま)になる。

仕事は、最初は形から入るのだから、基本的に美学である。
きれいな仕事をしたい。きれいに仕事をしたいと思う。
きれいな仕事というのは、肉体的、物理的にきれいというのではない。
汚れ仕事だってやりようによってはきれいになる。
汗水たらして働く仕事でも美しいのである。
きれいに仕事をするというのは形にある。
故に、始まりは儀式に成り、儀式は様式美を競うようになる。
様式は象徴である。象徴は形が意味を持つ。


序  盤


勝敗の帰趨、仕事の成否は、序盤の形で決まる。
始めに設定した形が後の仕事を決めるのである。
だから序盤の形、定石が大切なのである。

序盤の定石は基礎を作る。一見決まりきった形に、中盤、終盤に対する構想が隠されている。

提案書、企画書の定番と言えば、発想から起動までを構成する部分は、主旨、或いは趣意を構成する部分である。
概念を明確化できる部分ではないから、物語として表現される。
それが一つの形である。

この様な形は書式に集約されている。
書式では項目に形が隠されている。

提案書、企画書、式次第は、作業の設計書、作業リストでもある。
形が大切であり、手順は、上から下へ、左から右へと流れていく。

この部分は、主としてトップの考え、経緯、発案者の考えなどを軸にして形成される。
ゆえに、仕事の始動、始まりは、上層部との打ち合わせに重きを置く必要がある。
大体、指示した者が必ずしも指示した内容を理解しているとは限らないのである。
解ったと思った時から間違いは始まる。仕事は、出された指示内容と実際にやっている行為で検証し続ける必要があるのである。

何事も最初が肝心。最初の一手が仕事の全体を支配するように、仕事も何から着手するかが命運を握っている。第一歩を間違うと、後が続かなくなる。

序盤の形が決まれば、後は模様眺めである。
模様眺めというのは、全体の形の流れの変化を見て、大局観を作ることである。


仕事には筋と手順がある。


仕事には筋と手順がある。

物事には後先がある。後先も考えずに行動してはいけない。
何事も順番と筋が肝心なのである。

最初にメニューを見せ注文を取ってから料理にかかる。メニューも見せずに料理を作ってしまったから食べろと強要されたら客は怒りだすに決まっている。
指示・命令を聞かないで勝手に仕事をしても評価はされないのである。
物事には順序がある。
料理を出した後にメニューを見せても意味はないのである。

ギッタンバッコンというのは、作業の順序、前後が間違って同じ作業をやり直したり、繰り返すことで作業全体に揺らぎが生じる状況を言う。

手順というのは、予め定められた基本の形に従って、言い換えると自動運転のような事で、手順に従わないというのは、手動に切り替えるような事である。必ずしも手順に従わなければならないという訳ではないが、それでも優先順位が頭に入っていなければ、仕事は、破綻してしまう。
ある程度、最初は決められた形に従うべきである。決められた形とは、定石である。定石は絶対ではないが、定石を無視すれば勝利を得られないのも事実である。

手順から言うと先ず責任者を決め、その責任者と相談して担当者を選ぶ。
先ず責任者を決めないと仕事は次の段階に入れない。
なぜなら、仕事の全体、全過程を支配するのは、責任者だからである。

守備位置や打順を決めた後に監督を選んでも監督は何もできない。結局全てを最初からやり直さなければならなくなるのである。

責任者が決まったら、責任者と構想をねる。
それから、主旨、目的を定め。
基本的考え方、或いは、方針を決める。
原理(ルール)を定め。
原則(前提、条件)明らかにする。
前提とは制約である。
これが基本的手順である。

主旨目的が明らかになったら、基本的考え方を定め、大枠を決める。
基本的考え方の中には、方針や期日が含まれる。
方針とは方向性である。

方向が定まったら、地図を書く必要がある。
目的地をしっかりと見定めるのである。

今週の日曜日に野球をやると決めても日曜日までに、何もやらなければ何もできない。
故に、今週の日曜日に野球をやると決めたらそれまでの道筋を明らかにする必要が出てくるのである。

会議と手順



日本人は、会議について誤解がある。
会議というのは、合目的的な話し合いの場だと言う事である。目的が明らかでない話し合いは会議ではない。単なる雑談会である。
間違ってはならないのは、会議は討論の場ではない。又、会議は単なる話し合いの場でもない。会議は合目的的なことであって目的によって会議の形式、有り様も変わる。又、目的に応じて前提や規則が設定される事も忘れてはならない。
無原則に話せば解ると話し合いの場を持つ事は、会議を開く事とは違う。
第一に、会議や打ち合わせは、解っていない事を解っていないから会議にかけるのである。会議や打ち合わせをする前に結論が出ているのでは、会議を開く意味がない。
最初から結論が出ていることを単に伝えるだけなら会議ではなくて単なる伝達式である。話し合う必要はない。
話さなければ解らない。話しても解らないから会議を開くのである。日本人式の話せば解るという感覚で会議を開いたら、通常は、収拾がつかなくなる。
一応の決着をつけるために会議を開くのであり、討論や話をするために会議を開くわけではない。
この点を多くの日本人は解っていない。解っていないのに、解ったつもりになっている。
そのために、会議が単なる儀式か、或いは討論の場でしかなくなっている。

物事の順序を整えるのは、会議打ち合わせである。
打ち合わせや会議は仕事のリズムを作り、整える。打ち合わせのタイミングや頻度は、仕事の枠組みを作るからである。
主要な会議、打ち合わせは、仕事の接合点、分岐点を構成する。

枠組みのつなぎ目、節目には、何らかの会議か、打ち合わせを置く。
組織は、一様ではない。枠組みの範囲内で状況、段階に応じて姿を変える。
構想段階の組織、計画段階の組織、準備段階の組織、実施段階の組織、後処理段階での組織は、姿形が違う。
状況や段階に応じて組織の姿形をどの様に変化させ、状況に適応させていくかは、マネージャーにとって一番の腕の見せ所である。
逆に組織を硬直的に考えていると計画は柔軟さを失い、状況に組織は適合できなくなり、最悪の場合、解体してしまう。

打ち合わせの最後に結論や決まった事を確認しないで散会したら、その時点で会議や打ち合わせは無効になる。散会した時点で、会議は、井戸端会議、茶飲み話、雑談となり内容は、話の話になってしまう。我々は、話の話、単なる話会にするなと躾けられた。

打ち合わせの最後をきちんと閉めないと、会して議せず、議して決せず、決して行わずと言う事になる。

それ故に、会議や打ち合わせが終了した直後、指示を受けた直後に決定事項や指示事項を確認する事が重要となる。
会議の結論、指示事項を確認の上、一旦箇条書きにして整理した上で、一つひとつの要件を作業に置き換えるのである。
会議や打ち合わせ、指示事項を確認するタイミングは、直後にしかない。このタイミングを逃すと次がないのである。又、記憶も薄くなり、決定事項や指示事項を確認する事も難しくなる。そのために、仕事が統一性や継続性に欠けたり、途絶えたりするのである。
又、一つひとつの作業が終わったら速やかに報告し、次の指示を仰ぐ。報告は、上司のためにするのではなく自分の為にするのである。

詰めは厳しく



打ち合わせの最終段階に入ったら打ち合わせによって出た結論を整理し、箇条書きにして確認した上で、次の打ち合わせまでにやってくる事を決める。最後に次ぎは、いつ打ち合わせをするかの予定を立てる。

なぜ、打ち合わせで出た結論を箇条書きにするのか。それは決定された事を仕事に置き換える必要があるからである。
箇条書きにした上で、やる事を洗い出して手順を決める。

トランプでカードが出そろったらカードを並び替える。麻雀で配牌が終わったら牌を並び替える様な事である。

並び替えたところで上がり手、方向性、方針を決め、落としどころの構想を練る。その上で、どの牌から切るのか、つまり、着手するのか、初手を決めるのである。

打ち合わせの最後には、必ず、次回の打ち合わせをいつするか、それまでに何をしてくるか、何を準備してくるかの確認は忘れてはならない。
そして、打ち合わせの冒頭、前回の結論の確認から入る。これが仕事のリズムを作り、筋を守るのである。
この繰り返しが基本である。
これは、仕事を遂行する上での基本だが、今の人にはこれができない。そして、基本ができない事が仕事を滞らせ、人間関係を悪化させる一番の原因である事に気がついていない。

会議は、最初と最後の三分間緊張していれば何とかなると言われたものである。最初の確認と最後の確認が会議の正否を担っているのである。いくら途中でいい話し合いができても、最初と最後が締まらなければ、会議は台無しになる。

会議を効率よく進めたければ、事前に、何が分かっていて、何が解っていないのか。何が決まっていて、何が決まっていないのかを事前に明らかにした上で、何をどうしたいのかの目安を決めておく。落としどころを予め用意しておく事である。

次回の打ち合わせをいつするか、次回の打ち合わせの概要が決まったら、打ち合わせ終了後から次回の打ち合わせまで何をやるのかの予定を立てる。
予定の基本は、次回の打ち合わせに何をやるのか。次回の打ち合わせまで用意する物は何か、次回の打ち合わせまでにやっておく事を決めるのである。

そして、打ち合わせ終了直後に何をやるかを見極め、指示する。
会議室を一歩外に出たら何をするか言えるようにしておく事である。

詰めは厳しくという格言がある。
日本人は、細かいところをあいまいにする悪い癖がある。
あまり細かいことは言わないとか、詮索しないとか、任せるなんて言って細かい事を蔑ろにする癖がある。
だから、日本人は簡単に騙される。後で契約書など細かいことを確認しても後の祭りなのである。
細かいことだからこそ詰めておく必要があり、だからこそ欧米の契約書は細部にまでわたるのである。
細かい事は、言いっこなし、お任せなんて人のいいことを言っているから、騙されても自己責任とあしらわれて泣きを見るオチなのである。


形は、実体によって裏付けられる



指示は作業によって裏付けられる。

解ったというのは、曲者である。解ったといきなり言われると何が解っているのかと問いただしたくなる。
解ったと思った時から解らなくなるものである。なぜならば、解るというのは、行動に表れて始めて立証されるからである。口で解ったと言うだけでは解ったと言う事にはならない。
一番拙いのは、解ったつもりになって何もやらない事である。解るというのは行動に表れて始めて解るのである。

一番怖いのは、指示したつもり、解ったいるつもり、解ったつもりになって何の裏付けもないままに勝手に仕事をする事である。

決定した事を関係者全員が理解しているかどうかは、組織上、仕事に基づいて検証する以外にない。

理解するというのは合点がいき、行動を起こす事でもある。
何をやっているかを見れば理解度は解る。
言って、見せて、やらせて理解させる。
聞いて、見て、やって理解する。

話を聞いただけでは解らない事もある。
仕事の上で解るというのは、相手の話している内容を理解しただけでは、解った事にはならない。話が理解できたとしても実際どうしたら良いか解らないと意味がない。むしろ、頭の中だけで解っているからかえって始末が悪い。組織の要にいる人間が理屈ばかり言って決断できなくなったら組織は死んでしまう、
又、言っている事は解るが、実際に何をして欲しいのか解らないというのも困りものである。言っている事が解るだけに始末が悪い。

言動と言うが仕事では常に言動が一致している事が求められている。
言った事はやる。決められた事は守る。言行一致が常に求められる。

理解度を確認するためには、初動、最初に何をしようとしているか、或いは何をしたかを見れば解る。誰にどの様に指示しようとしているか。どの様に説明したか。又、最初に何をしようとしているか。
解らない者は解っていない行動をし、解っている者は、解っている行動をするのである。
直前、直後の確認がものを言う。
だから初動、そして、初動の確認が不可欠なのである。裏をとるというのは初動の確認である。

考えている事と言っている事とやっている事が一致してはじめて解ったと言う事が検証できる。だから、打ち合わせ直後に何を指示し、何をさせようとしているかを確認する必要があるのである。

聞くというのも、単に、話を聞くと言うだけでは、仕事の上では聞いた事にはならない。仕事上で聞くというのは、聞いた上で何をしたかによって判断される。ただ、聞いただけで何も行動をしなければ聞いた事にはならないのである。

決定された事は、実行されなければならない言い換えると実行できない事は決めてはならない。つまり、決定された事は、実行するために必要な要件を満たしていなければならない。故に、決定された事が実行するために必要な要件を満たしているかいないかを確認する必要がある。

物事の決定されたら、決定権者は速やかに関係部署に指示を出さなければならない。
決めても指示が出されなければ決定された事は履行されない。履行されて始めて決定事項は実体を持つ。

実行するために必要な要件を満たしているかいないかを確認するのは、受令者の権利であり、実行するために必要な要件を満たすのは、発令者の義務である。

指示された事が、受令者に正確に理解されているか、否かは、指示した事と、実際の作業との整合性がとれているか、いないかによって解る。
可能な限り復誦をすることを奨励する。

指示を受けた者は、速やかに指示された内容を整理し指示者に確認をする。その上で、指示内容を作業に置き換え確認をする。

受令者が指示命令を行うに当たって迷うような指示・命令は、指示・命令としての機能を果たしていない。

一つひとつの作業の始めに指示が出されていないと、仕事がええわ、ええわになりがちである。つまり結果オーライの状態に陥る。結果オーライが横行すると、目的が結果によって歪められる。その結果、当初の目的や意義が失われ、予定と実際との間に深刻な乖離が生じやすくなる。また、予定と実績との乖離が生じてそれを是正する手段を持たないことになる。予実績の管理ができない状態だからである。

仕事や作業には始まりと終わりがある。始まりと終わりがハッキリしないと作業や仕事はつながりがなくなる。ダラダラと始まり、ダラダラと終わる仕事は締まりがなく、仕事全体がだらしなくなる。
いつ始まって、いつ終わるのかを明確にするのである。それが予定である。
そして、個々の作業は指示に始まり、報告で終わるのが鉄則である。
指示や報告が常時されていない組織は、組織が溶けているようなものである。

結論と指示と作業は一体でなければならない。
結論と指示が一致していない、或いは、やっている事と指示とが一致していない場合は、組織を統御することができなくなる。最悪の場合、組織を破壊してしまう。
組織が空中分解してしまう。
受令者が指示者の真意を正しく理解しているか否かは、指示者の真意に対して指示された内容、実際にされた作業とが一致しているかどうかによって検証される。

中  盤



仕事を推進する上では、次に何をするかが重要な意味を持つのである。
その一手いってによって仕事は成り立つのである。
麻雀や将棋で言う次の一手である。麻雀や将棋でも言える事だが、次の一手に絶対手はない。ただ、手順は一定の形がある。その形が、仕事の成否の鍵を握っている。

そしてその一手いってを決めるための全体像、構想が大局観になるのである。
個々の時点における仕事の全体像を模様とか、局面という。
模様や局面は形として表現される。

全体や構想のハッキリしない仕事は、やっつけ仕事になる。
又、過程のない仕事は一夜漬けになる。
仕事には過程や流れがあるのである。
仕事の道筋をハッキリつける事である。

次をいつにするのか。次に何をするのか。次までに何を用意するのか。次までに何をやっておくのか、それを確認するのも一つの形である。

仕事の打ち合わせは、時間を決めてする。
会議や打ち合わせの時間を決めることではじめて段取りがとれる。
時間を決めないと期間が特定できないから段取りはくめない。
結局、段取りがとれずにつなぎつなぎ、場当たり的な仕事になる。
点と線を結ぶような仕事は、結局道筋が見えなくなり、ゴールを見失いがちである。
また、自分の立ち位置が解らなくなり、ストレスになる。
思いつきや場当たり的な打ち合わせを基本にすると仕事が成り行き任せになったり、ケジメがなくなったり、場当たり的になったり、丸まったりしがちである。
打ち合わせで大切なのは、構想である。何の構想も持たずに、ただ集まっても要領を得ない話に終始する。結論が出せない打ち合わせは、時間の無駄であり、かえって負担や障害になる。

打ち合わせをする場合、事前に中心となるメンバーは、打ち合わせの目的や内容、段取をを理解し共有しておく必要がある。
この事がなかなか理解されていない。
例えば、受令者が、指示を正確に理解しているかどうかを確認しようとした時、指示を受けた後に何をしようとしているかを確認することである。

質問者も何を質問したらいいのか、質問の目的や意義を明らかにして、質問のリストを用意し、誰から質問すべきかを事前に打ち合わせしておく必要がある。ただ意味もなく質問し続けていたら、会議は収束しなくなり、落としどころもも解らなくなる。

仕事を円滑に進めるために大切なのは段取りである。段取り八分というように、段取りの取り方が仕事の成否を握っていると言って過言でない。

仕事の段取りが悪いと組織を構成する者は悪酔いをする。それが恒常的に続くと精神を破壊されてしまう。
職場の人間関係を悪くするのは、組織の仕組みや段取りに起因することが多い。
その職場のリーダーの人柄や性格が悪いと言う事が原因となるのは、滅多にない。

その証拠に、暴力団だって盗賊だって組織はある。
職場の人間関係が円滑に働いていないとしたら、仕事の仕組みや段取りに欠陥がある場合がほとんどである。

手順や仕組み、段取りを無視する者の何が悪いのか、それは、人間関係の根底にある基本的な規範を理解していない事である。筋を通さないから人間関係が悪くなるのである。

枠組み



基本的考え方に沿って大枠を作る。
枠組みそのものも絶対的な決まり事があるわけではない。
枠組みは枠組みである。枠組みを作る者の趣味や考え方、諸般の事情などが重要なのである。

枠組みには、序盤、中盤、終盤などがある。序破急などもある。
構想、基本計画、実施計画、後処理計画。
準備、実施、後始末などと言った区分の仕方もある。
前期、後期といった分け方もある。
初年度、次年度、三年度という仕切り方もある。
仕切りにどんな名前をつけるかは任意である。
枠の括り方も、一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ等がある。
枠の括り方とは、単位期間をいくつの枠組みで仕切るかを言う。
何の節目もつけずに一つの枠で通すのが一つの枠である。
枠組みそのものは無意味であり、設定は任意である。

大枠ができたら次に作業の洗い出しである。つまり、やる事を明らかにするのである。
作業の洗い出しは、必要な作業を漏れなく、重複なく、全て上げる必要がある。
ただ、実際には、作業の洗い出しができるのは局面局面でにおいてであり、全行程の作業を読むのは能力的にも時間的にも無理がある。なぜならば、作業の内容は、状況の変化や個々人の能力の違いや事情などによって微妙に変わってくるからである。変化に沿って作業内容や手順も絶え間なく組み替えする必要が出てくる。

野球で言えば、試合が始まらないと最終的には、試合運びは定まらない。誰を起用するのか、何をさせるのかが決まらないし、相手の出方やその日の選手一人ひとりの調子によって打順や守備位置を変更していかなければならないからである。急なアクシデントも想定しておかなければならない。全ての作業を読むと言っても一両日の作業しか確定的に読み込むのは難しい。多少の遊びが必要になるのである。

将棋も、麻雀も一手いって指すのであり、最初から最後までを読み通すと言う事は不可能である。

作業というのは、ちょっとした事まで動作レベルまで考えると簡単な仕事でも膨大な数になる。だから、作業の洗い出しというのは、本当に神経質な作業になる。
ただ、作業の洗い出しと言っても仕事を構成する作業には、いくつかの塊があり。その塊は、いくつかの類型がある。
仕事の多くはフラクタルな事である。全体も細部も基本的には同じ形を持つからである。
いくつかの形、パターンを分類しておけば、作業の洗い出しは簡略化できる。類型化し、そのうちの固定的な作業を定型化したものが手続きである。

駒  組



作業の洗い出しが終わった役割分担、割り振りが終わったら作業を順番づける必要がある。共同で、組織的に作業を遂行する場合は、作業の段取り手順を読み合わせする必要がでてくる。

やる事が解ったら、その次は、作業の分担、役割分担である。
役割分担は、組織のアウトラインにそって作る込んでいく。

組織とは、部分が情報系によって結ばれた全体を言う。狭義の組織、人的組織とは、全体を構成する部分が人である組織を言う。
組織は、指揮・命令系統によって結ばれた集団である。指揮・命令系統によって結ばれていない集団は、単なる群衆である。
指揮命令・系統は、実際に出される指示・命令によって維持される。適切な指示・命令が発令されていない組織は有効に機能しない。

仕事分担を決めることは、組織化する上での前提となる。
仕事、作業がきちんと洗い出しされていないと役割分担はできない。仕事と組織の整合性が保てないからである。
故に、仕事、作業の洗い出しの原則は、漏れなく、重複なく、全てである。
作業が洗い出されたら、次にやらなければならないのは、組織を決めて仕事を割り振りすることである。

仕事には、流れがある。逆に言えば、流れるように仕事をしなければならない。
よって仕事の流れに沿って組織は変態する。環境の変化に適応できない組織は、破綻する。

仕事の割り振りは、仕事の流れに能力、適性を加味して考える。
仕事の作業の洗い出しや段取り、予定は、担当者、つまり、実際にやる人間に立てさせるのが原則である。
投手に向いているものは投手に捕手に向いている者は捕手に、そして、それぞれの役割に応じて訓練、練習をするのである。
全員を一律に訓練する事は効率が良いように見えるが実際は、現実的ではない。

仕事を洗い出し、優先順位を決め、仕事を割り振り、大枠を決め、仕事の順番を定め、段取りをとって日時を決めて、予定・計画を立てる。この辺の順番は、必ずしも確定しているわけではない。それは責任者のセンスの問題である。

仕事は、何から始めるか、どこから入るか?どこから着手するかが鍵を握っている。
どこから着手するかを決めるためには、大局観が必要である。大局観の基礎は構想である。構想は、主旨、目的を基礎として構築する。
やるべき事が解ったら、優先順位に従って作業を並び替え、手順に作業をこなしていく。

役割分担が終わったら、次に、一人ひとりのやる作業を作業指示として表していく。
作業指示は、一つひとつの作業を特定し、その作業の範囲に限定して指示を出すように心懸ける。複数の作業、特に前後する作業に対する指示を一遍に出すと作業指示が混線、輻輳して作業者の混乱を招く。
結局作業指示は薄皮を剥ぐようにしていかざるをえない。
作業は、ワンマンワンワークの原則がある。
指示も原則としてワンヘッドが原則である。
つまり、一によって統一するのである。
作業の節目節目には必ず打ち合わせを差し挟み、作業の進捗状況確認し、他の作業との連携を図る必要がある。

仕事の段取りができないとゆとり世代を責めるが、一体誰がそんな状態を作り出したのか。
自分達が指導教育、躾を間違い、或いは、してこなかった事のツケを彼等に払わせているのにすぎない。ゆとり世代を責める前に、先ず、ゆとり世代を産み出した張本人達こそが姿勢を改めるべきなのである。ところが姿勢を改めるどころか反省すらしていないのが実情である。

基本が大切なのである。



電車の先頭に乗ると運転席が硝子越しに見える。運転手は、必ずと言っていいほど指さし故障を繰り返している。確認は基本中の基本である。
道路を渡る時は,左右を確認してと子供の頃に親から注意を受け。その時鬱陶しいなと思い。「わかってるよ」とか、「今やろうと思っていた」と口答えをしていたものです。親になってわかるが、子供に逆らわれると結構めげる。めげて注意を怠ることがある。注意を怠っているとしばらくして忘れ物をしたり、事故を起こされたりして後悔する事になる。

注意されるほうも鬱陶しく感じるかもしれないが注意するほうも鬱陶しいのである。だから油断をすると誰も注意しなくなる。注意できなくなる。

考えてみれば、親が注意してくれたのは、当たり前な事なのである。
誰にでもできる事である。ところが社会に出てみるとその当たり前なことができない人が沢山いることに気が付く。

団塊の世代は、親に逆らうことばかりを教えていた。親の言うことは封建的だと繰り返したのである。

確認というのは基本中の基本で繰り返していると習慣や癖にまでなる。いい習慣を身に着けた者は、無意識に確認を繰り返している。

作業には始まりと終わりがあり、確認できるのは、最初か最後し以外やりにくい。だから、指示が出た、結論が出た直後に確認しないと、結局最後にしか確認が取れなくなる。しかし、それでは、その瞬間に全てが否定される危険性が高い。いつまでたっても仕事が進捗しなくなるのである。
それに、人間の記憶はどんどん失われていく。結論が出た直後に確認しておかないとずれが生じ始めるのである。時間がたてばたつほど、人数が多ければ多いほどズレは拡大するのである。
結果が出から調節しようというのは土台無理なのである。
だから、なんでも結論が出た直後に確認をする。

こういう習慣は、親の躾、家庭の躾とされてきた。ところが今家庭の躾というのが等閑(なおざり)にされつつある。

団塊の世代は、基本に対する躾を頭から否定した。その結果、団塊の世代以降の世代は、人と人とのつきあい方の基本を身につけていない。
挨拶の仕方、口の利き方、話の仕方等といった人間関係を構築するための基本が身についていないのである。
団塊の世代は、自発性を重んじるとか、主体性を重んじるという名目で基本的な動作を否定して排除した。彼等が理屈は、封建的だとか、強制は悪いとか、全体主義的だとか、権威主義と言った事である。確かに、全体に対する盲目的服従を強圧的に強いるような教育や躾は個人の自由や人格を破壊する危険性がある。しかし、だからといって人と人との関係を構築する基本動作や価値観まで否定してしまったら、まともな人間関係を作る事はできない。更に、良好な人間関係を土台として社会を作る事もできなくなる。
それまでの礼儀作法が悪いとして排除するならば、それに変わる価値観、哲学に基づいた礼儀作法を作り出すべきなのである。旧いと言って壊すだけ壊しておいてそれに変わるものを想像しようとしないのは、あまりに無責任である。
しかも、それまでの礼儀作法、躾を否定するのは、明確な根拠も示さないで、ただ、旧いからとか、封建的だからとか、形式的だからとか、権威主義的だからとか、頭から否定し、なおかつ、自主性とか、個性とか、主体性とか言って基本ができていない者に無責任に丸投げをしたくせに、彼等は、当たり前な事とか、できて当然な事と、初歩的な事と教えるまでもないという理由で馬鹿にした態度で今の若い者はと罵った。そのために聞く事さえはばかれるような状況に置かれたのである。そのために、若い連中は、指導する者に対しても小馬鹿にしたような態度で接するしか自分を守れなくなったのである。
排除した後、彼等が否定して排除したことに変わる事を次の世代に残していない。破壊するだけ破壊して何も創造的な事をしなかったのである。その後の世代は、人間関係が作れずに、家庭が崩壊したり、引きこもりが増えたり、独身者が増えたり、鬱病になったりした。
後輩は問題意識が低いという前に自分達が彼等をその様な状態、事態に追い込んだ事を反省すべきなのである。
組織の運用を覚えれば素人でも、何も、専門知識がなくても組織を動かすことはできる。しかし、どんなに優秀な人間でも、感動する話をしても指示命令が出せなければ組織は動かない。
組織を活用できなければかえって仕事を抱え込んで潰れてしまう。
組織は、指示・命令で動いているのである。

組織は、指示・命令で動いている。



組織は、指示・命令系統によって結ばれた集団である。指示・命令系統によって結ばれていない人たちは、単なる群衆に過ぎない。
指示・命令になれない者は、指示・命令されること自体嫌うが、指示・命令になれると何でもない、簡単なことだから、当たり前のように受け取るようになり、指示・命令に意味もなく逆らう人間の事が解らなくなる。
なぜならば、適切な指示・命令は、受け手が無理なく受けられる上、指示・命令に従う方が快適だからである。なぜならば、指示・命令に従う事によって組織における自分の位置が与えられるからである。

指示・命令は、強制的な部分ばかりが強調される傾向があるが、集団の活力や秩序をもたらすという側面がある事が見落とされがちである。
命令というのは、強制権があるが、強圧的な力で従わせなければならない命令は、必ずしも適切な命令とは言えない。
指示・命令は、万人が理解できる言葉で万人が納得できる事だから万人が従うのである。
なぜならば、指示・命令は必ず履行されなければならないからである。故に、指示・命令に使われる用語は、定義されていなければならず。要件定義による。一年先の事項に対する指示・命令は効力を持たない。なぜならば、一年先は、不確かなことが多いからである。
受け手がそれぞれ勝手な解釈ができたり、また、理解できる人が限られているような専門用語や抽象的な言葉は、特定の専門家間を除いて命令としては、不適切である。故に指示・命令に美辞麗句は不要なのである。また、原則としてといった例外事項を認めるような指示・命令も不適切である。
指示・命令は、簡潔命令で短く出す事が求められる。長い文章は、受け手が覚えきれない上、勝手な解釈を許す余地が生まれるからである。

野球を知らない者達に、野球の楽しさやルールを説明するためには大変な労力と時間が必要となるが、野球をしようとする者は、プレーボールの一声で試合を始めることができる。このプレーボールという宣言こそ指示・命令の典型なのである。

組織の仕組みが正常に機能しなくなると指導者は腕力で組織を動かそうとするようになる。それが強権的な体制を産み出すのである。
団塊の世代は、規律や礼節を壊した事で強権的な体制を準備したに過ぎない。

ゆとり世代の問題をゆとり教育が悪いとする論調を多く見受ける。
ゆとり世代は、教育だけが問題なのではない。

俗にゆとり世代と言われる世代は、バブルが弾けた後に思春期を迎えている。経済が成長した時期を経験したことがないのである。生まれてからずっと経済は停滞し、物質的に恵まれていても将来に夢や希望を描きにくい環境で育ってきたのである。
また、団塊の世代のように、変革や革命を無条件に信じているわけではない。なぜならば、彼等は社会主義体制の崩壊を目の当たりに見ている世代でもある。

長い間決断させてもらえない環境に置かれ、決断しようと思っても頭から抑え続けられた。
以前は家庭で躾けていたから言われなくてもできたが、家庭の躾を学校は否定し、排除したために学校と家庭の分業が成り立たなくなり、学校も家庭も躾をしなくなった。結局、社会人として当然身につけておかなければならない常識や礼儀作法を知らないまま社会に放り出されてしまったのである。

荒れる成人式などと言って若者を責める前に、大人は先ず自分達の襟を正すべきなのである。
規律を守れないのは、規律は悪い事だ、守る必要がないと教えた者の責任なのである。

私が、仕事に就いた頃、社内教育をしようと産業訓練プログラムについて大手のコンサルタント会社を回ってみたがどこも産業訓練プログラムをしていないと言われて驚いた。基礎教育をしなかったら組織が土台から崩れてしまうと思ったからだ。
未だその頃は、事務管理の書籍がそれなりに発行されていて、ハウツウ本が盛んに出ていた。又、システムの黎明期に当たり、業務のフロー分析が盛んに行われていた。
あれから三十年以上たって自分の杞憂は的中しつつある。

組織が土台からとろけだしているのである。
組織やシステムにおいて本来、ブラックボックスではない部分がブラックボックス化し、中枢部分が見えなくなりつつある。土台となる仕組みに重大な欠陥があって何かの拍子にそれが作動してシステム全体を崩壊させる自体になってもそれを防ぐ手立てがなくなりつつあるのである。

無法、無秩序な状態は自由な状態ではない。なぜならば、従うべき規範がないからである。規律のない自由はあり得ないのである。
言論の自由と言ってもおのずと規律は求められる。自分たちで規律が保てなくなれば権力の介入を許すことになる。

指示・命令が出なくなれば組織はバラバラになる。組織は指示・命令で動いているのである。


終  盤


何事にも終わりはある。
人生にも、仕事にも終わりはある。

仕事をどこで終了、完了すべきか。これも形である。
終わりはケジメである。

どこで終わるかというのは、意外と難しい。
竜頭蛇尾と言う事もある。
仕切れトンボになって気がついてみたら、有耶無耶に終わっていたなんて事も珍しくない。
かと思うと無ケジメにダラダラとどこで終わるともなく惰性で続けている仕事もある。

開店とか、開業、開所というのは、華やかな儀式をする事が多いが、閉店となると辛気臭くなる。
終わりを全うするというのは難しい。
始めるのは簡単だけど辞めるは難しいとよく言われた。
引き際を間違って惨憺たる結果に終わることが多い。

始まりは、華麗な形が沢山あるが、終わりは形を崩してしまっていることが多い。
というよりも形を崩して終わりを迎えるのである。

一度始めるとなかなかどこで止めるかという決断がつかなかいまま意味もなく続けていたりする。
そういう仕事が増えると組織の効率は著しく低下するし、肝心な仕事も形骸化してしまう。
止め時というのは難しい。
要は、どこで始末をつけるかの問題である。

終わりよければ全て良しという。
有終の美とも言う。
綺麗に終わるというのは難しい。

結局、決断がつかぬ間に、追い詰められ、見苦しい形で終わることが多い。
仕事の終わりも又決断である。仕事の終わりは、詰め形である。
詰めにも定石がある。
ただ、詰めの定石は、序盤の定石とは少し違う。
将棋でいえば詰将棋である。
序盤の定石が組み立てを主とするのに対して終盤の定石は、崩して詰めることが主である。
きれいに詰めれば鮮やかに終われる。




組織は指示命令で動いている


指示・命令系統の崩壊は、組織の深刻な病気である。

組織は、指示命令系統が損傷しても初期の段階では、定型業務が機能しているので、通常業務は上辺は機能しているが、新規業務や非定型業務、非常時の業務には機能しなくなる。又、人事異動、環境の変化などによって定型業務の風化、劣化していく。
この様な命令系統の劣化からくる組織の病気は、自覚症状がなかなか現れない。
自覚症状としては、何となく気分が悪い、人間関係の悪化というような形で現れる。そして、仕事の滞留、不効率、事務の形骸化、無責任な言動、行動が目立つようになる。結論の出ない会議や打ち合わせと言った無駄な会議の増加といったことが現れる。
次に、あからさまな反抗、先生や上司と言った責任者に対する不満。規則の無力化等が現れ。いじめや個人攻撃、誹謗中傷が横行するようになる。
不正行為の横行、権威の失墜、無秩序、そして、最終的な段階に入ると組織の制御、統御ができなくなり、突然死のように組織が機能不全に陥るのである。
現在は、システムがある程度、定型業務の風化や劣化を補っている。しかし、それにも限界がある。又、システムにはシステムの弊害、限界がある。
特に、システムの弊害としてあげられるのが指示命令系統の基幹部分がブラックボックス化してしまう事である。好例は、会計が機械化する事で簿記や仕訳が解る人間が会社からいなくなると行ったことである。また、本来、面と向かって処理すべき事がメールの遣り取りで終わってしまい、人間関係が疎遠になるといった事である。

指示は自分の歩く速度で出していく。纏めて一括して指示・命令を出したり、気まぐれに指示を出すと仕事全体が安定を欠く事になり、ケアレスミスや作業の中断、作業の質のバラツキ、作業のリズムの乱れなどを引き起こす原因となる。

組織は、指示命令によって動いている。
指示、命令を出す時に気を付けなければならないのは、実行できない指示・命令を出してはならないという点にある。又、ぼんやりとした命令を出してはならない。
組織にとって指示・命令は、絶対的な働きをするため受令者が実行不可能な指示は出してはならないのが原則である。それ自体が指示・命令の効力、威力を失わせるからである。
無茶な命令というのは実行できない命令を指す。
ぼんやりとした指示・命令というのは、実行するために必要な要件を欠いているために、実行することができない命令である。
受令者が指示命令を行うに当たって迷うような指示・命令は、指示・命令としての機能を果たしていない。
この様な指示・命令は、指示・命令系統を機能不全に陥れるために、極めて危険な行為である。

敵対する勢力が組織や体制を崩壊する手段として日常的な不平不満に同調するふりをして指示・命令系統を攻撃する。指示・命令系統の崩壊は、組織体制を土台から突き崩すからである。

軍や警察、消防、防災などの組織は、命令系統が機能不全に陥ると隊員の生命を危うくする。そのために、抗命や命令違反、不履行に対しては、厳罰をもって臨んでいる。

中枢幹部に指示・命令系統に逆らう者、指示・命令系統を私的な目的で活用する者が出ると組織は内部から腐敗する。それが獅子身中の虫である。

組織には不思議なところがあり、組織の中で自分が埋没しそうになると自分の存在価値をどこかで示したくなる。それが時として、組織の流れを阻害し、癌細胞のように膨れあがってしまうことがある。

指示・命令の出し方は、組織運用の基本中の基本である。
生命線でもある。

命令は、訓示と号令からなる。
訓示とは、命令の考え方や目的、方針の部分をいい、号令は、実際にすべき要件を明らかにした部分を言う。
通常、組織の上位に位置する者は、訓示を述べ、実際に作業を遂行する現場は、号令によって動く。この二つの要素を局面局面において使い分けることで組織は作動する。

終わりに



今の学校教育は、意識してかしないかはわからないがアナアキーな傾向がある。その証拠に、組織を全面的に否定している。規律とか、規則とか、規定とか、秩序とか、統制を全面的に否定している。
組織は、手続きで動く仕組みである。組織を動かしているのは指示命令である。
組織は、自主性、自発性では動かない。自主性や自発性は、組織を動かす活力であるが組織の仕組みを直接的に動かす働きはない。
手続きが面倒くさいとか、うざったいとか言って正規の手続きをとらなければ組織は動かなくなる。
危ないと思っただけでは車は止まらない。車を止めるためには、ブレーキを踏むと言った車を停止する為の操作をしなければならない。また、車が停止後もサイドブレーキを引いてエンジンを切ると言った操作をしないと車は、停車状態を維持できない。
自動車はエンジンを始動し、ブレーキを外し、アクセルを踏まないと動き出さない。
組織も自動車と同じように一種の仕組みである。指導者が頭の中で考えても組織が動くわけではない。組織は念力で動くのではない。何度も言うが組織は指示、命令で動く仕組みなのである。
今の学校は、超能力教育をしているようなものである。組織は、超能力では動かす事はできないのである。

組織は、必要悪だとか。手続きは、煩雑で、堅苦しくて、めんどくさい。手続きは、形式であり、形式は権威主義的ただとか。礼節を強要するのは、封建制の名残だとか。強制、強要は、封建的だとか、統制は、全体主義的、独裁的だと知った風な事を子供達に吹き込む。
組織は、悪ではない。民主主義は手続きによって成り立っている。煩雑で面倒くさいからと言って手続きを無視したら、組織と言うより、民主主義は解体してしまうのである。強制力、強要のない法はない。民主主義こそ統制が必要となる。
組織は悪だとか、手続きはなくしてしまえとか、国家国旗は不必要だとか、礼節は封建的だとか言いふらしているのは、日本に敵対する勢力か、革命勢力、即ち、日本の主権を侵そうとしている者達の謀略である。いい加減日本人は目を覚ますべきなのである。
私が子供の頃は、未だ、段取り手順は、家庭の躾に任されていた。
段取り、手順等は、親の仕事を手伝いながら家庭で躾けられてきたのである。
家庭で躾けられないことは、職場や社会で徒弟制度的に躾けられてきた。徒弟制度では、礼儀作法まで躾けられた。
この時代の躾は落語などに名残が見られる。与太郎なんかはいい例である。
現代の日本は、戦前のこと、過去のことは、何が何でも全て悪いと決めつけているが、事の正否善悪と新旧は関係ない。結局戦争に負けて過去を全否定されているだけである。旧いことが何でもかんでも良いと言っているわけではない。戦前の悪いところは改めるべきである。しかし、だからといって旧いことの全てを否定するのは行き過ぎだ。何もかも無批判に否定してしまった結果、よき伝統まで失われた。
だから、常識だと考えられて敢えて会社では教えなくてもできるという考え方が支配的だった。会社自体が機関化して以前のような共同体的な要素が失われてしまった。私的なおつきあいは皆無な状態である。
更にサラリーマン化が家の躾が失われるのを促した。サラリーマン化することで、家業が廃れ、親から子へと伝承されてきたことを断絶してしまったのである。
サラリーマン化によって、職場と家庭とが分離し、躾けたくても躾けられないように仕向けられたのである。親の手伝いなどする子はいなくなった。親は親で、勉強だけしていれば良いとしたのである。この事は、家庭と学校、職場の関係を疎遠にし、家と学校と、社会が連携して子供を躾けるなんて事を不可能にしてしまったのである。今や家庭と学校、職場は対立関係にあると言っても過言ではない。

家の躾などできる状態ではない。学校は学校で知識偏重、人格形成など二の次になってしまっている。学校と言っても成績が上位の学校は、受験校であり、予備校化してしまっているし、下位の学校は、学級崩壊をきたしている。なぜ、こんな状態になってしまったのか。

今の学校は、何でもかんでも自主性という。自発性を重んじてと言う。強制、強要はいけないと教える。
しかし、組織も社会は自発性や自主性で動いているわけではない。指示、命令で動いているのである。強制力、強要のない指示・命令は、依願であって指示・命令ではない。お願いしますでは組織は動かないのである。なぜなら、お願いは、お願いした側に責任は派生せず、お願いを受けた側に責任が生じるからである。責任は強制によって派生するのである。
例え、自主性と言っても、自発性と言ってもやった事の責任がなくなる事はない。しかし、指示に従えば、責任は指示した者の側に移る。自発性を重んじてなんて言って指示しないのは、無責任きわまりない事なのである。それは、指示者が、自分は責任を持たないと宣言している事なのである。

自由放任では教育はできない。教育の根本に強制があるからである。強制があって自主性や自発性は発揮される。自発性や自主性だけでは組織は動かないのである。
自分が人から命令されるのが厭だからと言って指示・命令そのものを頭から否定するのは、利己主義である。

社会は、集団なのである。人は一人ではいきられない。
仕事を軌道に乗せるためには、チームワークが大切なのであり、独り相撲にならないように気を付けなければならない。
手続きや手順を軽視したら世の中も組織も動かなくなるのである。

やるべき事はやる。守るべき事は守る。それを教えるのが教育である。
何でもかんでも生徒の自主性なんてきれい事を言って実際は、何一つ生徒の意志を尊重しないくらいならきっぱりと自分が腹を括って決断し、責任を持ってやらせるべきなのである。
ただ、生徒のいいなりにあり、迎合して甘やかす事が教育なのではない。
時には、体を張って生徒と対峙し、対決する事も教育なのである。





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チームワーク・集団活動を学ぶ
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仕事の基本
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企画書の書き方
物事には順序がある
組織的意志決定
仕事について
組織は情報系である。
事前の準備

基本は形にある。
形式主義
形について。
教育は単純反復繰り返しである。


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