教育の理想を求めて
夢
勘違いをしてはならない。
今の子達は、夢を持てと言っても、なかなか、夢が持てない時代に育った子達なのである。
大人達は、その事を理解しないと、子供達に夢を持たせる事ができやしない。
夢を持ちたくても持てない子供達に如何に夢を持たせるか。
それで我々は悪戦苦闘してきたのである。
父達の時代は、夢が実現されてきた。ラジオから白黒テレビ、カラーテレビ、ビデオ、PCと技術革新はめざましく。
毎年毎年何かしら新しいものが手に入った。
炊事・洗濯・炊飯も電機、ガスと次々と新製品が開発され生活は豊かになった。
自動車もモデルチェンジを繰り返し、
鉄道も蒸気機関車から電車へそして、新幹線と進化し、航空技術の発達は世界を狭くあっという間にどこでも行けるようにした。更に、宇宙へと果てしなく夢は拡大した。
日本国内を旅行する事さえままならなかったのに、海外旅行なんて誰でも行けるようになった。夢は実現され続けたのである。
父は、自分の出世に合わせてウィスキーをレッド、ホワイト、角にオールド、リザーブ、自動車はサニー、ブルーバード、スカイライン、ローレルと格上げしてきた。
そうやって身近な事でも確実に自分の夢に実現する事ができたのである。
裸電球、六畳一間のミカン箱から所帯を始め、一戸建ての家を建て、高級マンション、別荘すら夢でなくなった。
左翼運動、労働運動でさえ革命という夢に酔いしれていた。
それがオイルショックで陰りを見せ。それでも、まだまだ、低成長なりに成長を続けた日本経済も円高不況の後に来たあだ花のバブルが崩壊したら急坂を転げ落ちるようにデフレへと突入した。
一見恵まれているかに見える。否、実際恵まれているからこそ夢を夢として持つ事がかなわない世代。それこそが、今の子達なのである。
新婚旅行も熱海から京都になり、九州になり、ハワイになった。
あの頃は皆夢を見れた。
何でも手に入る時代になったら途端に夢がなくなった。
やれ自由恋愛だ、新しい婚姻の形だと恋愛すら夢に見えた時代ではない。
愛だ、快楽だ、フリーセックスだと浮かれている内に恋愛ですら絵空事にしか見えず空疎な出来事になってしまった。
純愛なんて陳腐な偽善だという。
人の思いなんて快楽の前に戯れ言にしか過ぎない。
それが真実だという。人を愛する純な思いを捨てきれはしないのに。
だからこそ、夢というのは、非現実で、抽象的でとらえどころのない。
野球選手やゴルファーやテニスプレーヤー、サッカー選手と言ったところで自分とかけ離れた世界の人間、話であって自分とは関係のない出来事でしかなく。その様な成功話はどこか虚しく、本当に夢物語なのである。ますます自分は夢から遠のいていく。
結局、成功と言ったところで稼ぎの高でしかなく。
あげく一世を風靡したスタープレーヤーが覚醒剤をしたり、ホームレスのようになったら、子供に夢を持てなんて言うのも烏滸がましい。
子供達は、どこか冷めた目で現実を見るようになり、大人が成功話をすればするほど結局金儲けではないかと開き直るようになる。
夢は夢で終わり、幻でしかない。
結局、夢が実現できる事を信じられないのである。
夢を信じると言う事は、自分の人生を信じる事。
自分の可能性を追い求める事。
夢は愉悦ではない。
夢とは生きる事そのもの。
だからこそ、夢が大切なのである。
夢をと希望を実現する為に事業計画を練り、予算を作る事が大切なのである。
夢とは何か。それは自己実現。
夢の本性は希望なのである。
希望がなければ夢なんて生まれない。
望みだからこそ実現も不可能ではない。
望みもしなければ幻にもならない。
夢とは何か。望む事なのである。
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