教育の理想を求めて

問題意識V



我々は、問題意識を持てと言われ続けて育てられてきた。
日和見的な態度をとると、「おまえら問題意識が低いんだよ。」なんて先輩から叱られたものである。
問題意識は、学問の原点でもある。問題の向け方、設定の仕方で取り組むべき課題の方向性が定まるからである。
それなのに最近は、問題意識という言葉すら死語になりつつある。

今の時代で一番の問題は、問題意識が薄れている事なのかもしれない。

問題意識がなぜ大切なのか。それは、問題意識が、志の原点となるからである。
問題は、全ての仕事の出発点でもある。
問題をきちんと把握し、しっかりと作り込んでおかないと最初から正しい答えを導き出す事は不可能なのである。
社会の不正や、矛盾、この世の出来事に疑問を持つから問題意識が生じる。それが昂じて志しへと昇華されるのである。

人生如何に生きるべきか。
それが問題意識の源である。

求めている事柄よって問題意識の本質も、内容も、方向性も違ったものになる。
最初にボタンを掛け違うと最後まで正しい道筋を辿る事はできないのである。

問題の本質は、質問なのである。
何を、いつ、どの様に質問するか。それ故に、質問の仕方は、問題の本質に関わってくる。
何が、自分にとって問題なのか。
なぜ、この様な不正が許されるのか。
何が、この様な事態を引き起こしたのか。
何を自分は求められているのか。
自分は、どうしたら良いのか。
なぜ、自分は生きるのか。
何のため、誰のために自分は生きているのか。
どの様に自分は生きるべきなのか。
根本にあるのは自分であり、問題を解く事ができるのも自分である。
それを忘れたら問題意識の本質は理解されない。
どんな高邁な問題も問題というのは、自分の問題を敷衍化した事だからである。
意識の根源にあるのは自意識である。

その人の気が向かないところには、その人の問題はない。
問題意識を共有できない人とは問題を解決する事はできない。

共有する問題とは、解らない事を共有するのであって最初から答えが決められている事は問題意識として共有できない。
解らない事を共有するのだから、解ったつもりになったり、予め答えを用意している者がいたら、問題意識を共有する事はできはない。お互いに解らない事だから、問題意識を共有できるのである。

だとしたら、解らない事を解らないとしない限り問題意識は共有できない。この段階で無理して答えを出す必要はないのである。
問題が明確にならないうちに答えを出そうとすると間違った結論を導き出す確率が高くなる。まず何が解っていないのか。何を導き出そうとしているのかを明らかにする事が先決なのである。
解ったつもりや知ったかぶりこそ忌避すべき事なのである。又、早とちりや予断も禁物である。

問題意識を持つという事は、いつでも、なぜ、どうしてという疑問を持つ事につきる。
問題の根本は、疑問にあるからである。何に疑問を持つかは感性の問題である。
問題意識を高めるためには、なぜ、どうしてと絶え間なく自問する事である。
問いかけこそが問題点を明らかにするのである。
そして、それが問題意識の原点となる。

現代の日本では問題意識そのものが失われつつある事にあると私は、考える。そして、その原因の一つが学校教育にあると私には、思えるのである。なぜなら、現在の日本の学校教育は、予め設定された問題をこれも予め用意された答えを解くことだけに特化した教育をしているからである。これでは、問題意識など持ちようがない。問題意識を持たせる云々以前の問題である。
今の日本の学校ではなぜと問う事さえ許されない。

人の思考力というのは、まず問題を認識し、その認識した問題を整理して問題化し、それを考えて一定の結論を導き出し、導き出した結論によって決断し、それを言葉や行動として現し、その結果から新しい問題を認識するという繰り返しによって成長発展する。
この過程の一部だけを取り出して、強化しても人の思考力が選歌するわけではない。むしろ、他の部分、特に、問題を認識し、問題化する部分は退化してしまう。それが現代人の問題意識の希薄化に拍車を掛けている。

今の学校の一番の問題は、問題の解き方は、教えても、問題設定の仕方を教えない事である。

人生において問題意識の持ち方、問題の設定の仕方の方が重要な意味を持つ。
なぜなら、問題設定というのは、全ての答えの入り口にあるからである。
だから、人生の岐路に立ち、自分の進むべき道を選択しようとした際、問題設定の仕方を間違うと自分の本来歩むべき道を間違う事にもなりかねない。間違った人生を歩まないためにも問題設定をしっかりとする事なのである。

根本にある究極的問題は、人生如何に生きるべきかである。

問題意識を持つためには、問題を正確に認識しておく必要がある。
何を求めているのか。或いは、何が求められているのか。
そして、何を解決すべき事なのか。
焦点を絞る必要がある。

問題意識を持つからには、問題を正しく定義しておく必要がある。
問題とは何かが解らなければ問題意識なんて持ちようがないからである。
問題とは、解決しなければならない事、不正、或いは、答えを求められている事である。
つまり、問題意識を持つためには、矛盾や障害、不正を解決しなければならないという要求を持つ事である。
矛盾や障害を解決しよう、或いは、何らかの答え、対策を立てようという要求が生じなければ問題意識は形成されない。
要求は、欲求でもある。
問題意識の根底にあるのは、例えば世の中の不正をただしたい、解決したいという強い欲求、意志である。この欲求や意志が問題意識の原動力となり、欲求や意志の強さが問題解決の意欲ともなるのである。

問題は、質問形式をとる。
はじめはよく聞く事である。聞くとは、質問する事である。
自問自答することである。
また、何を、どの様に、どの様な手順で質問するかを組み立てる事である。

問題の核心は何を未知数とするかにある。つまり、何を答えとして求めているのかにある。
答えるべき事象こそが問題の核を形成するのである。答えるべき事、それが問題点である。何を問題点とするかによって問題の解法の方向が定まるのである。

問題点は何か。その問題は、いかなる構造を持っているのか、それが第一の課題である。

問題意識の根本は、問題認識である。問題認識とは疑問であり、好奇心である。
問題意識を持つためには、疑問や好奇心を持つ事である。

問題設定には、多分にノイズ(雑音)が入り込む。反面、必要要件が欠けている場合が多い。大切なのは、不必要な情報を取り除き問題を解くために必要な要件を絞り込む事である。
そのためには、問題の真意、すなわち、問題を提起した者の意志や考え方が重要な鍵を握っている。

問題を解くためには、問題設定を確認する必要がある。
問題の構成、構造をよく理解する事である。
問題は、前提部分と設問部分からなる。

問題の構造は、どの様な前提の基に、何を求めようとしているのかの二つの部分からなる。大切なのは、何を問題としているのか、言い換えると、何を求めているのかを明確にしないと設問は、的外れなものになる。
大切なのは、問題点を絞り込み、問題の焦点を明らかなする事である。
問題の焦点が絞り込まれないと問題点がぼけてしまう。
問題の焦点を絞るためには、問題の前提が鍵を握っている。
なぜ、何のために、誰のために問題があるのか。そこに焦点がある。

前提条件とは何か、問題を形成する、或いは、問題を解くための前提となる要件、前提となる事象を指して言う。
問題を形成する、例えば、地上でボールを投げた等。問題を解くための前提条件とは、例えば、ボールを四十五度の角度で初速度時速百キロで打ち出した場合等である。
前提となる事象とは、例えば、無風状態の時などである。

ただ、これは、問題の前提条件が特定されている場合である。
しかし、多くの問題はこの前提条件が曖昧である場合が多い。
例えば、この春、大学を卒業して就職しようと思っている。しかし、就職状況は厳しく、昨年よりも簡単に就職は決まらない可能性があるといった具合である。

なぜ、どの様な状況、どの様な立ち位置において問題を設定するのか。
どの様な目的や動機、要請、どの様な経緯、どの様な主旨、考え方を根拠に問題は、設定されているのか。
また、問題を解く上で必要とされる情報は何かといった事柄が前提条件を形成する。

試験問題のようにある程度、解答や解答に至る過程が確定している場合は、目的だの経緯は、あまり重要ではない。
しかし、現実の問題、例えば答えが複数あったり、予め答えが設定されていないような問題は、問題を設定する目的とか経緯が重要な要件となる例が多い。

例えば、民間企業で予算を立てる目的は、予算を作る事にあるわけではない。予算を作る過程で、経営方針や考え方を浸透させ、社員の意思を統一する事、また、それを予算と実績を比較して対策を作る事が目的なのである。
そこを間違うと予算を作る事が目的化してしまう。その結果、実行不可能な予算や作文のような予算を作る事になってしまう。
目的の選択を見誤ると問題設定の基盤を違える事になる。

また、問題を解くため、言い換えれば問題を設定するためには、必要な前提条件が整っていなければならない。
逆に一見、問題を解くために必要だと思われる情報や条件の中には、まったく、問題を解くために役に立たない事柄も多く含まれている。
これらを精査し、ふるい分ける必要がある。

前提条件が必要要件を満たしていない場合は、問題そのものが成立しない。
故に、問題設定は、前提条件が必要要件を満たしているかどうかを確認することから入らなければならない。

問題を解けない原因は、前提条件が必要要件を満たしていないか、不十分か、設問そのものが不適切かのいずれかである。

前提条件が必要要件を満たしていなければ、問題を解く事そのものが不可能だからである。
仮に、前提条件が必要要件を満たしていない場合は、必要要件を満たすところから始めなければならない。
その場合は、必要要件を満たす事が問題となる。その場合の目的は、必要要件を満たす事である。

必要要件の原則は、漏れなく、重複なく、全て、洗い出す事にある。

問題認識は、問題を設定し、解決し、対策を立て、決断するために入り口にある。そして、問題認識の次に来るのが問題設定であるから、問題設定は、問題意識を持った者の思想や考え方を色濃く反映する部分である。
それ故に、問題設定をさせないと言う事は、一人ひとりの思想や考え方を入り込む余地をなくす事でもある。それは人間性の否定でもある。
問題設定にこそ、個性や意志、目的等が主要な部分を構成するのである。

何が問題なのか。それを見極める事が重要である。
自分が問題視していることが真の問題とは限らないからである。

症状に応じて応急的処置をした後、様子を見て、必要があれば検査をした上で診断を下し、日を決めて患者に説明し、治療法を決めて処方する。
予断は禁物である。慎重に検査をした上で病名を特定する。
仕事も然りである。なのに、いきなり答えを出そうとする。答えを出す前に、問題をしっかりと設定し、よく確認する事で得ある。
最初に考えるのは、症状を見て何を調べる必要があるかを探る事である。
そして、そのための質問なのである。
この段階ではあまり答えを急がない事である。

問題意識の根底にあるのは、自分である。自分が何に問題意識を持つか。何を問題視するか。その点が重要なのである。
自分が困った事が問題の本質である。
自分が問題視していないことは、ただ単なる課題に過ぎない。

一番困る事は、困るべき事を困らない事である。
だから、困らない人間は、困らせればいいと叱られたものである。

問題に取り組む場合、まず、第一に、どの様な前提かを確認する必要がある。
次に、どの様な状況が予測されるのかを検討するひつようがある。
その上で、自分は、どの様な施策、方針で臨むべきなのかきめる。
問題を解くためには、一定の段階を踏む必要があるのである。

設問は、最後は命令形になる。
つまり、何々を解けとか、答えよという形をとる。
この命令形がなければ問題は完結しない。

そして、実務的な設問は、最終的には、五W一H、あるいは、五W二Hに落とし込まなければならない。なぜならば、実務的設問は、決断、行動を前提としているからである。

現代の学校教育は、与えられた問題を解く事しか教育しない。
しかも、む与えられる問題は、予め正解が決められていて、しかも、回答は一つしか用意されていない。
それは、答えを絶対化する事であり、しかも、問題を解く筋道まで確定している。

問題が最初から設定されていて、答えが予め決められていたら、子供は、考える余地など与えられていない事になる。つまり、予め用意されていた答えを絶対化している事になるからである。しかも、問題を解く道筋まで、特定されてしまったら子供達の選択肢はなくなる。答えを絶対化したら勉強は暗記を主としたものにならざるをえないのである。
試験制度によってこの様な思考を刷り込まれたら、子供達は、与えられた命題を言う通りに解決し、与えられた答えを無条件に受け入れるしか選択の余地がなくなる。なぜなら、与えられた答えは一つしかないからである。

この様な事は、子供達を選別しなければならないという学校の都合が優先された帰結である。学校がむ予め用意した答えは、子供を選別するための基準に過ぎないからである。しかし、試験によって子供を選別しないと子供の進路を確定できない。それ故に、子供達の要望や希望より、試験の成績の方が優先される事になる。
こうなると学校で教えられている事を絶対化しない限り、教育の正当性は保たれない。
その結果、子供達は、問題意識を持つ事さえ許されなくなる。
これは、子供達から思考力を奪い、ゾンビ化する事を意味する。

問題設定を所与の事とするのは、ある種、人間のゾンビ化である。
つまり、人間としての意志を持たせない事になる。

世の中の問題は、答えが一つという事はないし、人生の問題は最初から答えが決まっているわけではない。大切なのは、動機であり、だからこそ問題意識が鍵を握っているのである。

問題を明確にしてから解決に取り組む。問題点が明らかにしないで問題を解こうとするから混乱するのである。

学校では、最初から問題が設定され、答えも決まっている。しかし、この様なことは特殊なのである。世間一般では、最初から問題が設定されていることも答えが用意されていることもない。

なぜなら、世の中には答えがいくつもある問題、答えの解らない問題、答えのない問題の方が一杯あるからである。

大体自分が何を問題としているのかさえ解らない。何が問題なのかも解らないことが多いのである。
そこが学校と現実の社会との本質的な差である。
だからこそ問題意識が大切なのである。

仕事では、先輩達は懇切丁寧に意地悪く教えてくれた。
最終的には自分で考えろと言う事なのである。自分が問題意識を常に持っていれば、答えは、自ずから解るようになる問い事である。肝心なところは教えられない。
だから、最後まで指示せずにわざと不完全な指示、欠けた指示を出す。
例えば日付が欠けいていたり。指示が要件を満たしていない事に気がつかずに仕事にかかろうとすると、すぐに、「今の指示で仕事にかかれるのか」と聞かれた。その上で、指示に対しては仕事にかかれるところまでちゃんと聞いた上でその場を離れろと注意されたのである。

ゲームでもスポーツでも相手がミスをするところをついてくる。答えは、最初から解っているわけではない。野球でもテニスでも相手が打てないところに打ち返すのである。だから、答えは、相手の動きを見ないと決められない。答えなんてないし、あっても一つではない。前提やその場の状況によって答えは変わってしまうのである。

予め問題が設定されているのならば問題意識を持つ必要がないし、なまじ問題意識など持たない方が良い。だから、学校生活が長ければ長いほど問題意識は希薄になる。学校生活で問題意識など持つと問題とされてしまう。

答えのない、答えの分からない、或いは、答えがいくつもある問題は、如何に自分を納得させるかが、重要となるのである。
なぜなら、答えがいくつあったとしても、答えが分からなくても、答えがなくても結論を出さねばならない時が来るからである。
曖昧で、不確かなことを前提として、しかも正解も定まらない事柄をどこかで決断をしなければならないとしたら、何らかの形で自分と折り合いをつけなければならなくなるからである。
だからこそ如何に自分を納得させられるかが問題を解く上では重要な課題であり、自分を納得させるために必要な事の方向性は、問題を設定する段階で定まるのである。

与えられた答えを求めるのではなく、自分を納得させようと思うのならば、答えを出すことより過程が重要となる。なぜなら、答えは、結果であり、問題は、動機だからである。生きるという事は、自分の動機に基づいて自分が何をしようとしているかだからである。
自分を納得させられるか否かは、結論ではなく、過程にあるからである。

だからこそ、自分が師と仰ぐ人に優しさや物わかりの良さなど求めてはならない。なぜならば、師に求めるのは、答えではなく。答えを導き出すための道筋だからである。そして、答えを出すための道筋は、自分自身の手でつかみ取ることだからである。

人間如何に生きるべきか。自分はどの様に生きるべきなのか。それこそが根本の問題なのである。




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